25.嵐の前夜
宰相執務室の扉を叩くと、すぐに「入れ」と声が返ってきた。
広々とした執務室。重厚な執務机を挟んでセドリックとライナスが向かい合っている。
いつもの冷静さを湛えた顔。
けれど、張りつめた糸のような空気が部屋全体を包み込んでいた。
「来たか」
セドリックが顔を上げてアリアへと視線を向ける。その目はいつも以上に感情を押し殺しているように見えた。
(……何かあったんだ)
アリアは直感的に悟った。今日はいつもの日次報告じゃない。これまでとは違う大きな問題に触れるのだと。
セドリックが報告書の一枚を抜き出すと、執務机に広げる。
そしてある一ヵ所を指先で押さえながらライナスへ視線だけで促すと、彼は静かに頷いた。
「調査の結果――あの硬貨に刻まれていた紋章は、かつて存在した『ルガード公爵家』の家紋だと判明しました」
執務室に、静寂が落ちた。
「……ルガード……公爵家……?」
アリアは思わず、口の中でその名を繰り返していた。
唇の上に乗ったその音が耳に届くなり、胸の奥がかすかにざわめく。
「五十年前、王政への反逆行為で取り潰された家だ。公爵の称号は剥奪され、現在では王国の記録上からも抹消されていた」
セドリックの言葉にアリアは息をのんだ。
取り潰し――それは王政下における最も重い断罪の一つ。
家そのものが歴史から消される。
それは、存在していた証さえ奪われるということ。
(……なぜ今になってその紋章が……?)
アリアはもう一度、書類に記された紋章を見つめる。
(どこかで、見たことがあるような気がするのに…)
記憶の奥底で、それがいつ、どんな場面だったのか。
その答えだけがまだ見つからない。
「偽造通貨をばらまくメリットは四つ考えられる。何だと思う?」
不意に投げかけられた問いに、アリアは瞬きした。
(メリット…?)
「……えっと、偽造通貨を使ってお金を儲けることですか…?」
「その通りだ。最も単純な動機は金銭的利益を得る。偽造通貨を十分の一のコストで作れば、残りの九割は丸ごと儲けになるわけだ」
「でも……それなら……」
「そう。それならもっと雑に作るはずだ」
セドリックの口元がかすかに動いて、手元の資料をアリアに見せる。
それは極秘に分析を依頼した結果だった。
傍らに立つライナスが、手元の資料をめくりながら落ち着いた声で告げる。
「先日回収した硬貨の件、私の伝手でとある研究機関に鑑定を依頼しました。成分分析の結果、銀の配合比率、重量、鋳造の精度。いずれも王宮貨幣局の本物と遜色がありませんでした」
「えっ!?それじゃあ…っ」
頷くかわりに、セドリックは視線だけをこちらへ向けてくる。
「相手は利益目的ではない。となると、二つ目に考えられるのが敵国からの攪乱行為だ」
敵国、という言葉にふと思い浮かぶ。
エレナの元に届いた、マルタユ帝国から届いたように見せかけられたあの書簡。
「いわゆる経済テロだ。偽造通貨を大量に流通させることで物価を上げ、相手国の信用を揺るがす。実際過去において他国では前例がある。だが――」
もう一度、セドリックは書類を指先で弾くように叩いた。
「今回の流通量は少なすぎる。仮に経済を混乱させたいのなら、もっと広範囲かつ大量にばら撒くはずだ」
「……じゃあ、いったい何のために……」
自分でも気づかぬまま、アリアはぽつりと呟いていた。
それを受けたセドリックが、ふいに顔を上げる。
「三つ目に考えられるのが、権威の失墜だ」
部屋の空気が、一瞬で張りつめる。
まるで剣を向けるような鋭さを帯びた声に、アリアも思わず息を詰めた。
「偽造通貨の存在が広まれば、国民は貨幣そのものを疑うようになる。通貨の信用が揺らげば――王政もまた揺らぐ」
そこに込められたのは王家の威信そのもの。その信用が傷つく。
それを貶めようとする者がいる。
信用を失ったその先の未来を、アリアはもう知っていた。
過去に何度もこの目で見たことがあるからだ。
あのとき、民衆は王太子殿下の暴政に怒り、信頼を手放した。
王政は崩れ、街は混乱し、そして自分は――
(……処刑されたんだ)
手のひらが冷たくなる。
身体の奥から、凍りつくような恐怖がじわじわと這い上がってくる。
「……あの、四つ目はなんですか?」
「ん?」
「さっき、偽造通貨をばらまくメリットは四つあるって……」
アリアはおそるおそる口を開いた。
セドリックの口から語られた三つの可能性だけでも背筋が冷たくなるほどだったのに、もっと恐ろしい可能性が残されているのだろうか。
アリアの問いかけに、セドリックは手にしていた書類を伏せて静かに首を振った。
「今は、やめておく」
低く落ちたその声はどこまでも冷静だった。
「まだ憶測の域を出ない。ただの仮説に君を巻き込む理由はない」
あくまでも理性的な判断。
けれどその言葉の裏に、彼なりの配慮があることがアリアには分かってしまった。
普段はどんなに重たい事実でも感情を交えずに告げる人が、今言葉を選びながら伏せたという事実。それだけで重さが伝わってくるようで。
アリアは、どこか胸が締めつけられる思いでその表情を見つめる。
(これはもう…他人事じゃない)
あの偽造硬貨に刻まれていた紋章。
それはエレナへ贈られた毒針入りのブローチに添えられていた、メッセージカードと同じもの。
最初にそのつながりに気づいたのは、自分だった。
エレナを影から貶めようとしている勢力と同じであることは明らかだ。
(この問題は…間違いなくこの国の未来を変えてしまう……)
「私は知りたいです。何が起ころうとしているのか、私も一緒に……」
セドリックは小さく溜息をつく。
「……それなら、明日文官棟の地下資料室の調査に同行するか?ルガード家に関する資料がもしかしたら残されているかもしれない」
「え…っ、いいんですか?」
こうもあっさり了承されると思わなかった。
思わず声が上ずると、セドリックは少しだけ目を細める。
「君は放っておくと危険へと首を突っ込んでいくだろう?それなら共に行動しておいたほうが安全だと判断しただけだ」
「う…っ、それは…」
「それに、君はただのメイドではなさそうだからな。その勘の良さが何か役立つかもしれない」
悪戯っぽく微笑まれて、アリアは胸の奥が熱くなる。
「…はい!」
自分がどこまで役に立てるかは分からない。
でも、一緒に調査を許されたことは、セドリックからの信頼の証のようでどうしようもなく嬉しかった。
そうして執務室を後にしたアリアの背を、セドリックはしばらく見送っていた。
扉が閉まった音が静かに響くと、セドリックは視線を横に流す。
「ところで、ライナス。視察前に頼んでいた件は?」
「はい。取り急ぎ調べた限りの情報をこちらに」
ライナスは、そっと手にしていたもう一冊の薄いファイルを差し出す。それは、王宮内のとある人物について記された調査書報告書だった。
「……なるほどな」
セドリックはある項目を指でなぞりながら小さく呟くと、その目が鋭さを増した。
* * *
一方、夜の回廊を足早に歩きながらアリアはふと足を止めた。
(明日は地下書庫でルガード家について調査する。何が見つかるか分からない。でも、私……)
何が起ころうとしているのか、自分も知りたい。
知って、守りたい。
そのために、明日自分も一歩踏み込むのだ。
「セドリック様がいるから、大丈夫」
自分に言い聞かせるように言葉にすると、アリアはまた歩き出した。
この時のアリアは、まだ知らなかった。
明日の調査が、王都を揺るがす大事件の引き金になることも。
そして、かけがえのない人たちの運命を、大きく狂わせることになるということも。