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22.筆頭秘書官の考察

 セドリックとアリアが視察から帰った日の夜。


 文官棟の一角。

 深い夜の(とばり)が下りた廊下を、ライナス・フォルトは足音を立てずに歩いていた。


 手には未提出の報告書と、明日の閣議に向けた予備資料。

 終業時間がとっくに過ぎても、彼の主が執務室に明かりを灯しているのは日常の風景だった。


 セドリック・グレイヴナー。


 王国最年少で宰相の座についた男に、疑いの目を向ける者は誰もいない。


 その徹底した合理主義と、経験則に裏打ちされた冷徹な決断力。

 どれもが王政の中枢を担う者として相応しく、すでに必要不可欠な存在となっているのは明らかだった。


 セドリックは、幼少の頃から『神童』と呼ばれていた。


 文に秀で、数字に長け、誰よりも早く国の仕組みを理解し、誰よりも冷静に数手先を読む。より深く国家の未来を描ける者として英才教育も受けてきた。


 彼が宰相の職に就いたのは必然といえる。

 そして、この王宮で上り詰めていく姿を最も近くで見てきたのがライナスだった。


 小さくため息をつきながら、執務室の扉を軽くノックする。


 返事はない。

 だが室内の明かりが消えていない以上、彼がそこにいることは間違いない。


「……失礼します。資料を――」


 扉を開けて声をかけたライナスは、ふと違和感に気づいて言葉を止めた。


 宰相席にはセドリックがいた。

 しかし、普段なら規則的に動いている羽ペンの音も、書類をめくる気配もない。


 彼はただ静かに、窓の外を見ていた。

 淡い銀の月明かりを背に、冷めた紅茶を前に置いたままで。


(……やれやれ)


 ライナスは心の中で深く嘆息した。


 彼が部屋に入ってきた人間の気配にすら気づかずにただじっと物思いにふけるなど、これまでにはあり得なかったことだ。


(この人は、たった一人でこの国を影から支えている)


 その合理性も冷静さも、すべては国を揺るがせないための手段。

 だからこそ、近頃のセドリックの変化に、ライナスは気づかないふりなどできなかった。


 ふとした瞬間に、手が止まることが増えたこと。

 意識が目の前の仕事ではなく、ここにはいない()()に向いていること。


 ――今日一日、たった一人のメイドを傍に置き視察に同行させたこと。


 それがどれほど異例で、どれほど彼らしくない行動だったか。


 荷物持ちをさせる従者など変わりはいくらでもいる。どれだけもっともらしい理由付けをしたところで、わざわざ彼女を選んで連れ歩く理由など、一つしかないというのに。


(当の本人だけが、自分の変化に気づいていない)


 誰よりも合理的かつ冷徹であろうとする男が、いつの間にか誰か一人の存在を心のどこかに置くようになっている。


「その顔、どうされたんです?どこかで陽に当たってきました?」


 ライナスが軽口をたたくと、セドリックは小さく睨むような視線を向けてきたが――その目も、どこか緩い。


「……いや。想像していたより破壊力があっただけだ」


「……はぁ?」


 目を瞬かせるライナスに、セドリックは思い出したように書類を一枚めくりながら淡々と告げた。


「こっちの話だ」


 それ以上なにも語らず、目を伏せてペンを走らせる宰相の姿。


 しかしライナスは、微妙に残るその耳先の赤みとわずかに緩んだ口元に目をとめると、ほんの僅かだけ目を細めた。


(……まったく。お年頃の青年か何かですか、あなたは)


 心の中で深くため息をつきつつ、ライナスは机の端にそっと資料を置いた。


「アリア嬢は?もう帰したんですか?」


「ああ、一日疲れただろうからな」


 アリアの名前が出た途端、いつもの仏頂面の中に視察の疲労よりもどこか満たされた気配が滲む。


「一日荷物持ちに付き合わせるなんて酷なことをしますね」


「そうでもない。終始元気でいつも通りだった。よく動き、よく気づき、よく……笑っていた」


 そしてふと、走らせていたペンを止める。


「あと、よくしゃべる」


 呆れたような言い草なのに、妙に機嫌がよさそうな声だった。

 分かりやすい人だ、とライナスは思う。


(まったく、どちらがよくしゃべっていたのやら)


 心の中で皮肉めいた笑みを浮かべながら、ライナスはさらに水を向けた。


「なるほど。それは確かに視察の成果としては充分かと」


 軽く肩を竦めながら返すと、案の定鋭い視線が飛んできた。


「余計なことを言うな」


「心得ておりますよ」


 ふ、と短く笑いが漏れたその刹那、空気が切り替わる。


「それで、偽の硬貨の件は?」


 すっと引き締まった表情は、冷静で的確な判断を追求する宰相としての顔に切り替わっていた。

 ライナスも即座に表情を引き締めて、ライナスは携えていた書類の束を差し出す。


「はい。これが先ほど届いた監察局からの報告です」


 受け取ったセドリックは書類を手早くめくり、一言も発さずページをめくって目を走らせる。


 一分、二分、と室内には書類の紙擦れの音だけが響く。


「……詳細不明?どういうことだ」


 ページをめくる手を止め、低く問う声が落ちる。

 ライナスはわずかに苦い顔で答えた。


「監察局では、現状これ以上追跡は不可との報告です。こちらとしてもかなり粘ってはみたのですが……」


 ライナスの報告に、セドリックは手元の書類に目を落とす。


「硬貨の成分分析も拒否、アリアが見つけたカードとの関連も不明か……」


「ええ…これは絶対に裏があります」


 偽の硬貨に刻印されていた紋章の正体と、流通経路。

 それらを辿ることができれば黒幕の一端が掴めるはずだった。


「……力不足で申し訳ございません」


 ライナスが深々と頭を下げるとセドリックは軽く首を振った。


「いや、いい。むしろこれで――意図的に痕跡を消されていることが分かった」


 その目が、鋭く細められる。

 暗闇の奥に潜む何かを見極めるような、冷徹な視線。



「王宮内部――それも中枢に、敵がいる」




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