21.胸に灯るは銀の熱
王宮に戻った夕暮れの宰相執務室。
長い一日を終えたアリアは、セドリックに軽く促されて部屋の中に足を踏み入れた。
いつもより柔らかな陽光が窓から差し込み、部屋の空気を金色に染めている。
「あれ、ライナスさんがいませんね?」
不在の宰相に代わって王宮に残ったはずの優秀な秘書官の姿が見えない。アリアは不思議に思ってきょろきょろと見回した。
「偽造通貨の件で監察局に行ってるんだろう…ったく、もうこんなに書類が溜まってるな」
執務机の上に置かれた書類の束にうんざりした顔をしながら、セドリックがため息をつく。
「でもちょうどよかった。二人きりのほうが都合がいい」
「な…何がですか…っ?」
(どうしてこの人は毎度いきなり爆弾を落としてくるの…!?)
唐突に心臓に悪いことを言い出すセドリックに、アリアは大きく目を見開いた。うろたえるアリアをよそに、セドリックは懐から小さな黒い箱を取り出す。
「これを君に」
目の前でぱちり、と音を立てて開かれた箱の中。
そこに収められていたのは、小さな銀の髪飾りだった。
繊細な花と蔓のような模様が細やかに彫り込まれ、光を受けるたびに柔らかい光を帯びて反射する。
派手すぎないけれどどこか目を惹く、上品のある美しさだった。
「今日の視察に付き合ってくれた礼だ。受け取れ」
「っ……え、ええええ!?こ、こんな綺麗なの、私にはっ……!」
パニックになったアリアは思わず両手をぶんぶんと振ってしまう。
そんな様子を見て、セドリックは小さく肩を揺らした。
「そう言うと思った」
淡々とした声音なのに、どこか楽しそうだ。
「お礼なら飴細工を買ってもらいましたし!」
必死に断ろうとするアリアに、そんな抵抗など最初から計算済みだと言わんばかりに一歩、間合いを詰める。
「これは俺からの個人的な贈り物だ」
「っ……!?」
(こ、個人的ってそんな……)
どうしたらいいのか分からない。
ただ頬に、みるみると熱が昇っていく。
困ったようにアリアは視線を彷徨わせたけれど、セドリックはそれを逃がさなかった。
「君には華美なものより、こういうシンプルで繊細なもののほうが似合うと思った。これなら職務中でも付けられるだろう?」
「む、無理ですよ!こんな高価なものをメイドがつけてたら目立ちますってば!それに、こういう綺麗なものは…」
自分なんかよりもっと似合う人が身につけるべきものだ、とアリアは思う。
(そう、例えばエレナ様みたいな…!!あんなふうに素敵で気品とオーラに溢れた人が似合うはずで、私なんかじゃ…)
目を伏せるアリアをセドリックはしばらく黙って見つめてから、ため息をついた。
「じゃあ目立たないところにつけてやる。貸してみろ」
「へっ?」
言葉の意味を理解するより先に、セドリックはアリアの背後へと回り込んでいた。
「ちょ、ちょっと!?」
「じっとしていろ」
従うしかないその声音に、アリアはぎこちなく動きを止める。
一つにまとめられた髪の下、あまり外から目立たない位置へと銀の髪飾りが差し込まれる。
カチリと小さな音を立てて髪飾りが留まった瞬間、かすかな指先の温もりがうなじを掠めて背筋がぴくりと震えた。
肩越しに伝わる体温。
あまりに近い距離に、緊張で肩がこわばってしまう。
「やっぱり、君には銀が似合う」
耳元に落とされた声に、空気が一瞬止まった気がした。
火照る頬、早鐘のような心臓の音。
肩越しに感じるセドリックの存在に、どうしても意識が引き寄せられてしまう。
(ど、どうしよう……近い……)
逃げ出したいのに、背後ではどうにもならない。
震えそうな膝をぎゅっと押さえ込んでいると、かすかに楽しげな笑い声が耳に触れた。
ふっと体温が離れる気配がして、アリアは小さく息をつく。
けれど、胸の鼓動は一向に静まる気配がなかった。もう、自分の身に何が起こっているのかよく分からない。
(こんなのずるい……でも、すごく嬉しい……)
胸に溢れる感情に気づきながら、アリアはそっと振り返る。
目の前には、変わらぬ無表情を装いながらも、どこか満足げなセドリックが立っていた。
頬を赤く染めたまま、アリアはそっと頭を下げる。
「……ありがとうございます、宰相閣下」
その言葉のあと、セドリックの表情がわずかに動いた。
どこか不満げで呆れたような――けれど、ほんの少しだけ甘い気配を帯びた表情で。
「君はいつまで『宰相閣下』と呼ぶつもりだ?」
「……へ?」
アリアがきょとんと顔を上げる。
「そろそろ名前で呼んでもいいころじゃないのか?」
「なっ、ななな、何を言って……っ!そんな、不敬ですっ!私が閣下を名前で呼ぶなんてそんな……!」
「ではこの部屋にいるときだけにしておけばいい」
さらりと返されたその提案に、アリアの脳内は真っ白になった。
宰相閣下をメイドの自分が名前で呼ぶ?
(そんなの、無理無理無理無理……っ!)
脳内で想像しただけで煙が出そうだ。
うろたえるアリアを楽しげに見下ろしながら、セドリックはじわりと追い詰めるように続ける。
「宰相閣下からの贈り物に対する礼を拒むのか?そのほうがよっぽど不敬だと思うが」
「っ……!」
ぐさりと刺さる理屈に言葉を詰まらせる。
「それとも、君は俺の名前すら覚えていないのか?」
「覚えています!!覚えていますけどっ……!」
「じゃあ呼んでみろ」
低く、静かな命令。
この距離、この空気、この沈黙――逃げ道なんてどこにもない。
アリアは顔を真っ赤にしながら、意を決したようにぎゅっと拳を握る。
「……セ、セド……リック、さま……」
ぽつりと蚊の鳴くような小さな声で、名前を呼ぶ。
その瞬間だった。
目の前のセドリックが、言葉を失ったように動きを止めた。
「…………」
いつも冷静なはずの蒼玉の瞳が、揺れたように見えた。驚いたような戸惑ったような、でも痛いほど優しい光を宿している。
「……?」
あまりに長い沈黙に不安になって、セドリックを見上げる。
「えっ……あの、どうかしましたか……?」
その問いかけに、セドリックは少しだけ視線を逸らしてから低く息をついた。
「……なるほど、これが尊い、という感覚か」
「はい…??」
ぽかんとするアリアに、セドリックはそれ以上何も言わず、ただ小さく笑った。