17.そのギャップはずるいです
「わあ……!」
馬車の扉が開いた瞬間、外から賑やかな空気が流れ込んできた。
ここは王都・南市街――庶民たちが行き交い、商人たちが声を張り上げる活気あふれる一角だ。
焼き菓子の香ばしい匂い。屋台の威勢のいい呼び込み。
まるでお祭りみたいな明るい雰囲気に、アリアは思わず声を漏らしていた。
久しぶりの王都の街並みに胸が高鳴る。
きょろきょろと視線を走らせていた、そのとき。
「ほら」
目の前に黒くて重厚な革の鞄が突き出された。
見るからに中身がぎっしり詰まっていて重たそうな、それ。
「早く持て」
「え、ちょ、なんでですか!?」
「君は荷物持ち要員として連れてきた。これくらい想定内だろう?」
セドリックは、至極当然だと言わんばかりの顔でアリアを見下ろした。
「本当に荷物持ちなんですか!?もっとこう、視察のお供というか補佐官的な何かだと思ってたんですけど」
「君はメイドだろう。そんな働きは期待していない」
「ぐぅ……!確かにそうですけども!」
渋々ながら両手で鞄を受け取るとずしりと重くて、思わず体がふらつく。
「お、重っ……!?なに入ってるんですかこれ!?」
「視察に必要な記録書類と文具類と昼食の手配書。あとは予備の資料と地図と、天候変化に備えて外套を」
「フルセットじゃないですかぁ!!」
悲鳴を上げるアリアをよそに、セドリックはもう別方向へ向き直っていた。次々と各方面に指示を飛ばし、視察の段取りの最終確認に余念がない。
(もう、完全に雑用じゃないですか……!)
アリアが内心で抗議している間にも、セドリックはきびきびと歩き始める。
「何をしている、置いていくぞ」
「は、はい!いま行きます!」
慌てて重たい鞄を抱え直し、駆け足で後を追う。
(……こういうときの閣下って、ちょっと楽しそうに見えるのは気のせい?)
それが揶揄いなのかそうじゃないのかは、分からないけれど。
まるで遠足で先生に引率される生徒みたいだな、なんて思いながら鞄のベルトをぎゅっと握り直す。
そして眩しいくらいににぎやかな南市街へと、真っ直ぐに伸びるセドリックの背中を追いかけた。
* * *
商人たちの店がひしめく、活気ある通りの一角。
その中にあっても、セドリック・グレイヴナーの存在感は際立っていた。
ひとつひとつの店に立ち寄るたびに、店主たちはピンと背筋を伸ばして深々と頭を下げる。けれどそれは恐れからではなくて、敬意と信頼によるものだというのは彼らの眼差しを見れば明らかだった。
「昨年の記録と照らし合わせると、物価が一割上がっているようだが?」
「はい、宰相閣下。冬の間の輸送路と燃料が──」
「ならば物流税の見直しが必要か。関税の報告をすぐに上げてくれ」
セドリックの言葉は、どれも簡潔で的確だった。
ただ命令するだけではない。店主たちの返答にしっかり耳を傾けて必要な対応をその場で即断即決していく。辺りからは「新しい宰相様は頼りになる」なんて声も聞こえてくる。
少し後ろからその光景を見守っていたアリアは『この人が本当に国を動かしているんだ』と、改めて実感していた。
「……本当に、すごい……」
(普段は理屈っぽかったり、皮肉を言ってからかってばかりなのに……)
日次報告のときの、少し砕けた雰囲気のセドリックとは全然違う。
サロンのときの正装姿もドキドキしたけれど、今目の前にいるのは、まぎれもなくこの国を支える頭脳そのもので。
(……すごく優秀だってことも、最年少宰相だってことも知ってたけど……)
けれど、驚かされたのはそれだけじゃない。
商人たちと話しながらも、セドリックは周囲にきちんと目を配っていた。果実を落とした子どもにさりげなく拾って手渡したり、腰の曲がった老女には静かに声をかける。
威圧するでも押しつけるでもなく、ごく自然に当たり前のようにそんな小さな助けを差し出せる人。
その背中がどこまでも頼もしくて、アリアは引き寄せられるように目を離せなかった。さっきまで文句を言っていた鞄の重さなんてすっかり忘れてしまうほどに。
アリアは自分でも気づかないうちに胸がドキドキ高鳴っていることに驚きながら、ふと、人々の視線に込められたものに気がついた。
(……この国の人たちは王室をちゃんと見てる。そして信じてるんだ)
けれどもし、また――あの未来が訪れてしまったら。
過去の記憶がありありとよみがえってくる。
あのとき、民の怒りは一瞬で火がついた。
ミカエル王太子殿下は暴君と呼ばれ、王政は崩壊し、そして自分は――
(……私は、処刑されたんだ)
胸の奥が、ぎゅっと冷たく締めつけられるようだった。
自分はあのときまで『王宮にいれば守られる』とどこかで驕っていた。
でも違った。
王室が民の信頼を失ったとき、民はその象徴ごと切り捨てる。
何度繰り返してもそれは変わらなかった。
(だから……繰り返させちゃいけない。そのために絶対に殿下とエレナ様の仲を守る。国も、民も、この未来も)
ぐっと拳を握った、そのとき。
「ねえ、お姉ちゃんって宰相様の彼女なの?」
「……へ?」
振り向いた先にいたのは、先ほど落とした果実をセドリックに拾ってもらっていた、小さな男の子だった。
「え、えぇえっ!?!?」
(か、彼女っ……!?私が……!?)
耳まで真っ赤になって、慌てて首をぶんぶん振る。
「ち、ちが、違いますっ!!そんなわけないですからっ!!」
(ええなんで!?こういう小さい子からはそう見えたってこと…!?いやいやそれはないですから…!!)
落ち着いて否定すればいいものを『彼女』の言葉にどうしようもなく意識してしまっている自分がいる。きっと、あんなふうにかっこよく仕事をしているセドリックを見てしまったせいだ。
少年は「そうなんだ?」と首を傾げた。
「ぼくんち、飴細工屋なんだ。俺さっき宰相様に助けてもらったから父ちゃんがお礼渡してこいって。でも宰相様、すっごい忙しそうだからさ」
少年がちらりと視線を送る先を見ると、セドリックは商人たちに囲まれていた。いくつもの資料を見比べながら次々と問題を捌いている。
(た、確かにあれは話しかけづらいオーラ全開かも…)
目の前の少年は、期待を込めた目でアリアを見上げてくる。
「分かった、ちゃんと私から宰相様に渡すね!」
「うん、お願いねお姉ちゃん!」
アリアは差し出された可愛い猫の形をした飴細工を受け取る。お姉ちゃんと呼ばれた響きに何だかくすぐったくなりながらも、アリアは任された使命に胸を張って力強く頷いた。
少年に手を振って別れたあと、飴細工を手にセドリックの元へ駆け寄る。
「宰相閣下!」
「……なんだ?」
数字と報告書に囲まれた中、セドリックがわずかに視線を向けた。
「これ、さっき閣下が助けてあげた男の子からのお礼です。飴細工屋さんの子だそうです」
胸を張って差し出すと、セドリックは一度それを見つめてからすぐに手元の書類に目を戻した。
「君にやる」
「……え?そんなダメですよ!ちゃんと『宰相様に渡してくれ』って頼まれたんですから!」
「俺はいま手が離せない」
「ダメです!責任を持って渡すって約束したんです!」
完全に譲る気がないアリアの気迫に、セドリックは根負けしたように小さく息を吐く。
「……仕方ないな」
観念したように淡々と飴細工を受け取る。
そして、何のためらいもなく包装紙を破ると、そのままぱくりと口元に運んだ。
「……え、食べるんですか!?」
アリアが目を丸くするのをよそに、セドリックは変わらず資料に目を通し商人たちの問いに淡々と答えている。その口元には、さっきの飴がちょこんとのせられたままで。
(えっ、ちょ、ちょっと待って……!)
あまりにもギャップがすごすぎた。
王国の宰相が無表情で飴を舐めながら「取引報告書の年度比較を明日までに出せ」と指示を出している。
(おかしい……めちゃくちゃ仕事できるのに……口元だけすっごくゆるい…!!)
堪えようとすればするほど、笑いの波が込み上げてきて。
「……ぷふっ」
とうとう吹き出してしまったアリアに、セドリックがちらりと一瞥する。
「笑うな」
「む、無理ですって……!」
その口調はいつもの冷静なトーンなのに、口元には可愛い猫の形をした飴細工。真面目な顔とのギャップにますます追い打ちをかけられる。
アリアは必死で口元を押さえながら、それでも笑いをこらえきれなかった。
(もう、ほんと……ずるいでしょこの人……!)