16.宰相閣下の命令は絶対なので
「……はい?」
言葉の意味を理解するまでに、数秒を要した。
「明日、王都の南市街に視察に行く。君も同行しろ」
ある日の午後。
いつも通りの日次報告を終えたあと、セドリックが言ったのはそんな爆弾みたいな一言だった。
「……わ、私がですか!?」
「予定していた従者が体調を崩して急遽荷物持ちが必要になった。メイドの君にぴったりだろう?」
「ひ、ひどっ!!ひどいですよね!?それ!?」
あまりのあんまりな理由に抗議するが、セドリックはまったく動じずに紅茶を啜っている。
「ちなみに、君が一日席を外すことについては、すでにクラヴィス嬢の了承を得ている」
「え、いつの間に!?エレナ様にもう伝えてあるんですか!?」
「今朝、王太子殿下との朝食の場でな」
「そんな!全然何も聞かされてませんよ!?」
「ああ。俺から直接言うからと黙っておいてもらった」
エレナ嬢のお側仕えの身になって一ヶ月以上が過ぎた。
イレギュラーに見舞われながらも、過去のループの経験をいかしてここまで何とかエレナのことを守り切れている。
ミカエル殿下との仲も順調で、これなら結婚準備も順調に進むかもしれない。
(でも順調に来ているからこそ、一日空けるっていうのが心配になっちゃう…)
少し俯いて悩むアリアに、セドリックはふと目を細めた。
「悩んでいるところ悪いが、君には断る権利はないはずだろう?」
「……へ?」
セドリックはあくまで優雅な所作のまま、少し愉快そうに口元を歪める。
(あ、これは嫌な予感…!!)
「初日からの報告すっぽかし。あれはそれなりに価値があると言っただろう?」
「……うっ!!」
その言葉にアリアは思い出した。
『今後君が何かを断りたくなったときの交渉材料に使える』と脅された一言を。
しかもこれは宰相閣下の命令。
メイドの自分が逆らうことなどできはしないのだ。
アリアは頭を抱えて、完全に観念した。
「……はい。分かりました…行けばいいんですね……!」
絞り出すようにそう言ったアリアに、セドリックはふっと口角を上げた。
「物分かりがいいな。優秀なメイドだ」
そう言って渡された封筒を、アリアはしぶしぶ受け取る。
「明日についての詳細はこの中に記載している。遅れるなよ?」
セドリックはほんのわずかにやわらかい笑みの気配をにじませながら、書類の束に視線を戻した。
* * *
そして迎えた翌朝。
王宮の正門脇にには、すでに豪華な馬車の隊列が控えていた。今日の目的地、王都南市街への視察行きに使われるものだ。
(すごい…王家の紋章入りの馬車だ…)
いくら王宮勤めとはいえ、メイドである自分がこんな経験をすることなんて普通はあり得ない。アリアは緊張した面持ちでゆっくりと馬車に乗り込んだ。
「……うわぁ、すごい…!!」
乗り込んだアリアは、その豪華な内装に目を丸くしていた。
何気なく触れた座面は深紫色のベルベット張りで、揺れを吸収するクッションまで完備された上等な造り。窓には手触りのいいシルクのカーテンが掛けられている。
庶民からすれば夢のような空間、なのだけれど――
(思いのほか狭い……というか、座ると近……っ!!)
セドリックは向かいの席に座っていた。
いつも執務室で向かい合っているけれど、大きな執務机を挟んでいるから意外と距離がある。でも今は膝が当たるほど近い、というか走り出した馬車が軽く揺れるたびに何度か当たっている。
(なんか、思ってた以上に落ち着かない~~~!!)
一方のセドリックは、どこまでも自然体だった。
書類を片手に読みながら、時おり馬車の窓を開けて外の様子を確認する。その一連の動きが様になっていて優雅だった。
そして視線がこちらをかすめるたび、アリアの心臓は否応なく跳ねる。
(な、なんでこんなに心臓がうるさいの!?荷物持ち任務なはずなのに……!)
「どうかしたか?」
「えっ!?あ、あのっ、膝が当たって……っ!」
「馬車の中なんだから仕方ないだろう」
「~~っ、閣下の足が無駄に長すぎるせいです!」
「それは誉め言葉として受け取っておこう」
思わず口走ったアリアの言葉にも、セドリックは面白そうに返すだけだった。
アリアは背筋をしゃんと伸ばしてみたり、膝をくっつけて座り直してみたり、無駄に手元のスカートを整えてみたりと落ち着かない。
(だ、だめ!意識しない!しないからっ!!)
「落ち着かないのか?」
「そんなことありません、これが通常運転です…!」
「君は通常時から落ち着きがないんだな」
そんなやりとりの中、馬車は王都の石畳の急な段差に差しかかった。
――ガタン!
馬車が石畳の段差を踏み車体が大きく揺れた。
「きゃっ……!」
不意の衝撃に、バランスを崩したアリアの体がぐらりと傾く。
正面のセドリックへとそのまま倒れ込むように。
「――あっ!」
体勢を整えようとするも間に合わない。
衝撃に備えてぎゅっと目を瞑ると、ほんの一拍、ふわりと浮かんだ気がした。
「……無事か?」
気づけば、セドリックの腕にしっかりと支えられていた。
右手で肩を、左手で背を。
しっかりと柔らかく、アリアの体をまるごと包み込むように。
「っ……!」
ふと視線を上げれば、蒼玉の瞳が真っ直ぐに自分を見つめていた。
呼吸がかすかに重なり合うほどの至近距離に、息が止まりそうになる。
(近い、近すぎる……!!)
「あのっ、すみませんっ、今のは完全に事故で!!」
飛び込んでしまったセドリックの胸から立ち上がって、急いで元の席に座り直す。
それでも、まだ心臓はバクバクと音を立てていた。
「今日の君はやけに動揺するな」
「そ、そんなこと……!」
「顔が真っ赤だが」
「気のせいですっ!!」
ぷいと顔を逸らすも、その耳も見事なまでに熱くなっていた。
そんなアリアの様子をセドリックは横目で見ながら、ふっと小さく息を吐いた。
「……相変わらず、分かりやすい」
「なんか今、失礼なこと言われた気がするんですけど!?」
「褒め言葉のつもりだったが」
アリアの反応に、セドリックはふっと口元だけで笑う。
正面からじっと見つめられる視線の強さに、アリアの心拍数はさらに爆上がりするのだった。