9.気づいていないのは当人たちばかり
「……つ、疲れた……精神的に……」
執務室を後にしたアリアは、扉が静かに閉まるのを背後に聞きながら、肩を思い切り落とす。推しカプ観察報告かと思いきや、尋問されるなんて想像していなかった。
(しかも今後の交渉材料に使うとか、そんな脅し文句ある!?)
目の前がかすむのは羞恥と疲労のせいだろう。
一日にして寿命が三年は縮んだ思いで、ふらふらと廊下を歩いていく。
そのとき、中庭から小さな笑い声が聞こえてきて足を止める。
(この声……エレナ様?)
目を向けると、緑の芝に囲まれた中庭でエレナとミカエル殿下が並んでいた。
午後の陽光を浴びながら、殿下が花を指さしながら何かを話すと、エレナが小さく笑う。その笑顔にミカエル殿下の口元も綻ぶ。
肩がふれているような距離で寄り添う二人。
言葉なくとも伝わる空気感、優しい眼差し、自然な距離感。
「……尊……ッ……い……!」
(ああ、疲れが……浄化されていく……)
* * *
翌日からは、アリアは初日の失態を挽回すべく宰相執務室を時間ぴったりに訪れていた。
そして一週間が経った。
相変わらずフラグ回収に奔走する傍ら、推しカプの日次報告にも慣れ始めたころ。
「失礼します、本日の報告にまいりました!」
「今日も時間通りだな」
アリアは執務室の扉を開くと、書類に目を通していたセドリックがわずかに目線を上げた。
すっかり定位置になった一人がけの椅子へと腰を下ろすと、奥の扉が静かに開いて秘書官のライナスがティーセットを運んできた。
「どうぞ。本日は北部地方で採れた貴重なファーストフラッシュです」
無駄のない所作で紅茶が注がれたあと、目の前にデザート皿が置かれる。
最近はクッキーやブラウニー、パウンドケーキなどのスイーツも出してくれて、もうどこのカフェですか?状態だったのだが。
「えっ、 これってもしかして!?」
アリアの目は、お皿の上のモンブランに釘付けになる。ただのモンブランじゃない。王都どころか王国中の女性たちが憧れるパティスリー、リュミエールの限定メニューだ。
(確か、予約すら数ヵ月待ちの幻のスイーツのはず…!!)
驚くアリアを楽しげに見ながら、セドリックは紅茶をすする。
「……で、今日はどんな進捗があった?」
「あ、はいっ!」
一転、目がきらりと輝く。
「本日のお二人はですね、午前中に書庫で偶然お会いになったんですが、殿下が『先日のお茶の時間が楽しかった』っておっしゃって!エレナ様が『じゃあ今日もご一緒しませんか?』って微笑みながら誘われまして!」
「それは良い兆しだな」
「ですよね!?しかもそのときの殿下の眼差しが、もうエレナ様にめろめろって感じでして!!」
「ほう、めろめろか」
セドリックは黙って頷いていたが、ふと手を止めて柔らかく促す。
「それで、そのあとは?」
「はいっそれからですね……!」
次第に語るスピードが上がっていくのを、セドリックは呆れる様子も見せずに何度も「それで?」と続きを促す。
アリアの手の動きや表情も自然と大きくなり、ついには「尊い……!」と何度も呟きながら推しカプ――王太子殿下とエレナ嬢――の尊い一幕を熱量たっぷりに語りつくしたのだった。
「よくも毎日飽きずに聞いていられますね」
アリアが退室したあと、ライナスがため息まじりにこぼした。
報告と言えば聞こえはいいが、あれは八割方ただのポエムだ。
「ライナス」
「なんでしょうか?」
「相手の警戒心を解く一番の方法とはなんだと思う?」
「……は?」
あまりにも唐突すぎる質問に、ライナスは一瞬なんの冗談かと思った。
だが、セドリックは至って真面目な表情で書類を整えている。
「相手の懐に入り、信用や安心を与えたいときは?」
ライナスはしばらく沈黙してから困惑の混じったため息をついた。
「贈り物をする、とかでしょうか?まずは相手の好みを把握して…」
「違うな」
「では何だと?」
「共感だよ」
「……共感?」
「『私も君と同じように思う』と共感されることが、人の心に一番届く。特にあのメイドのようなタイプの場合、自分の価値観を否定しない相手には驚くほど簡単に心を開く」
セドリックの表情は愉快そうに笑っていた。まるで罠にかかった獲物を愛でるように。
「彼女自身がこの日次報告を『楽しみだ』と思ううちは、こちらの勝ちだ」
ライナスは思わず天を仰いだ。
「まったく……呆れますね」
セドリックが彼女の推し語りに付き合うのは、警戒心を解くための鍵というわけだ。そのために最高級の茶葉を用意し、高級スイーツまで用意して。
ライナスは小さくため息をついて、呟いた。
(……まぁ、閣下なりに本気なんでしょうけれど)
問題は、その本気度と方法論がやや常人とはズレていることだと思う。
「……お好きですね、本当に」
「何が?」
「あの子のことですよ」
するとセドリックは驚いたように目を見開いた。一瞬だけ覗かせた、宰相ではないセドリック・グレイヴナーという一個人としての顔。
「別にそういうわけじゃない、ただの興味だ」
(……本当に素直じゃない)
そう思いながらも、ライナスは肩を竦めつつ執務室を静かに後にした。
* * *
(今日は一日平和だったしお二人の尊い姿も見られたし、推し語りもできて最高のケーキも食べられて……うん、いい日だった!)
意外と宰相閣下って聞き上手なのかもしれない。
報告を終えたアリアはそんなことを思いながら、あれほど抵抗のあった日次報告を受け入れつつあった。それがセドリックの思惑通りとも知らずに。
「アリアいた〜〜〜!!」
「わっわわっ!?」
曲がり角の向こうから飛び出してきたのは、アリアの先輩メイドにして情報通の筆頭、ロレッタだった。
「お疲れ〜って言おうと思ったのに、何その満面の笑み。何かいいことあったでしょ?」
「えっ!?べ、別に!?」
その動揺っぷりが逆に怪しさが倍増することを、この猪突猛進な同僚は気づいていない。相変わらずだわ、とロレッタは内心苦笑する。
「まぁいいけど。ところで、宰相執務室に毎日顔出してるって聞いたけど何やらかしたの?」
「何もやらかしてないから!国家の安定のための日次報告を…っ」
「国家の安定のためにモンブラン食べるの?」
「ななな、なんでそれ知って……!!」
「だって口の端にクリームついてるし」
「嘘…!?」
アリアは顔を真っ赤にしながら慌てて口元をぬぐう。
「これは…っ、私が甘いもの好きだろうからって出してもらっただけで」
「出してくれたって宰相様が?」
「うん…」
「高級パティスリーで予約必須のスイーツを?」
「そ、そうだけど?」
それがどうしたの?と言わんばかりに首を傾げるアリア。
ロレッタは一瞬だけ絶妙な沈黙を置いたのち、腕を組んでじーっとアリアの顔を見つめる。
「ねえアリア、それってさぁ…」
「な、なに?」
言葉を続けるのかと思いきや、ロレッタはニヤッと笑うと顔を逸らす。
「やっぱやーめた」
「え!?気になるところでやめないでよ!」
「言わな~い。だってそのほうが面白そうなんだもん」
顔を赤くしてひどい!と抗議するアリアを横目に、ロレッタは一人確信していた。
(アリアは気づいてないだけで、宰相様にめちゃくちゃ甘やかされてるやつじゃないの)
「こういうのは後で答え合わせするのが楽しいのよ?」
だから敢えて何も気づかせない。
だってそのほうが、断然面白いに決まっているからだ。