# 第9章:そして、光は差さない
──断片記録/認識──
※自らの内にある終端への歩み
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瀬名は、沈黙の中でしばらく立ち尽くしていた。
“声なき声”との対話──いや、対話とすら呼べないその瞬間の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。
言葉にならないものに触れたあの時間は、瀬名の中の何かを確かに変えていた。
そしてふと、足元に気づく。
灰が広がっていた。
いつからか、それは静かに積もっていたようで、歩くたびに細かな粉塵が宙に舞った。
その灰はまるで、語られなかった記録、書かれなかった声たちのなれの果てのようだった。
瀬名はそっと歩き始めた。
光も影もない空間。
方向も距離も曖昧なまま、それでも足を前へ運ぶ。
──終わらせなければならない。
そんな感覚だけが、彼の背中を押していた。
そして、ゆっくりと、景色が変わり始める。
灰の帳がわずかに揺れ、その奥に、輪郭を曖昧にした“何か”が浮かび上がった。
最初はただの影のように見えた。
だが近づくにつれて、それは確かな形を持ちはじめた。
──椅子だ。
それは、孤独にぽつんと灰の海に沈んでいた。
瀬名は足を止めなかった。
胸の奥に、なぜか“そこへ行かなくてはならない”という確かな感覚があった。
視界は依然として灰色のままだった。
空間には遠近感もなく、方向も曖昧。
けれど、その椅子だけは確かに“そこにある”と分かった。
まるで重力のように、引き寄せられていく。
足音は立たない。
ただ、足元の灰がわずかに舞い上がり、静かに沈む。
それは、書かれなかった記録たちのなれの果て。
語られることのなかった想いの、残骸だった。
瀬名は、呼吸を整えることもせず、ただ無言でその椅子に近づいていった。
足元に広がる灰。
それは誰かの名残かもしれず、あるいは書かれることのなかった無数の“記録”の墓標なのかもしれなかった。
やがて、その灰の上に、一脚の椅子が現れた。
今までのどの椅子とも異なる。
それは明らかに、“誰のものでもない椅子”だった。
誰も座っていない。
何の装飾もない。
ただ、そこにある──というだけの椅子だった。
だが瀬名は、その姿を目にした瞬間に、得体の知れない感覚に包まれた。
胸の奥に、ひとつの確信が芽生える。
そのとき、不意に耳元で声がした。
「──これは、最後の椅子だ」
振り返っても誰もいない。
だが、その声だけは確かにそこにあった。
低く、静かで、どこか瀬名自身の思考と重なる響き──灰衣の声だった。
胸の奥に、ひやりとした重みが広がっていく。
ただの椅子──そのはずなのに、視線を向けるたび、身体の内側をじわじわと締めつけてくるような感覚があった。
“これは避けられない”と、どこかで思った。
逃げられない、逃げてはいけない場所。
そんな直感が、無意識の奥から這い上がってくる。
そのとき、再び耳元で声がささやかれた。
「──ここに辿り着くために、すべてはあった」
灰衣の声だった。
低く、静かで、そして確信に満ちた響きが、瀬名の思考と重なり合う。
それは思い込みではなかった。
椅子の存在が、それを語らずに語っていた。
誰が置いたのか、いつからあったのか──そんなことは、もう重要ではなかった。
この塔に入り、いくつもの声なき声と出会い、自分の過去と向き合ってきた先にある椅子。
そこに辿り着いた今、瀬名の中にある感覚は一つだった。
これは逃げ道ではなく、“向き合うための場所”だ。
心の深いところで、そのことを理解していた。
誰かに言葉で示されたわけでもない。
けれど、それでも揺るぎない確信として染み込んできた。
──これは、自分のための椅子だ。
他の誰でもない、自分が過去と現在を引き受けるために座る椅子。
そう感じた瞬間、瀬名の足が自然と一歩、椅子へと進んでいた。
背もたれは低く、脚は不安定にぐらついている。
木の表面には無数の傷があり、どれも爪で刻まれたように乱れていた。
その傷のひとつひとつが、瀬名の中に“どこかで見た記憶”としてよみがえっていく。
記事にするために削った言葉。
伝えなかった視点。
切り落とした文脈。
すべてが、この椅子に刻まれていた。
瀬名は、深く息を吸った。
そして、静かにその椅子に腰を下ろす。
座面が軋む。
空気が一段と冷たくなる。
視界が、ゆっくりと暗転していく──
そして──
誰かが、目の前に立っていた。
灰の帳がゆらぎ、その奥から人影がゆっくりと浮かび上がる。
まず見えたのは、肩までの髪に混じる白い筋。
続いて、伏し目がちに佇む姿勢、そして、どこか懐かしさと痛みを孕んだ微笑み。
瀬名は、思わず息を呑んだ。
──まさか。
けれど、確信はゆっくりと胸に降りてきた。
それは、他でもない。
母だった。
瀬名の呼吸が、一瞬、止まった。
心臓が掴まれたように締めつけられ、喉の奥が強張る。
それは驚きではなかった。
むしろ、彼は“この瞬間が来ること”を、ずっとどこかで予感していた。
けれど──心の準備はできていなかった。
出会いたくなかった。
いや、出会わずに済むのなら、ずっと逃げ続けていたかった。
けれど、いま彼の目の前には、確かに“母”が立っている。
その姿を見た瞬間、胸の奥に沈めていた後悔や痛みが、一気に浮かび上がる。
声をかけようとしたが、言葉が出なかった。
息を呑んだまま、ただ目を見開いていた。
それは、罪と向き合う瞬間だった。
母は静かに立っていた。
まるで生きていたときと同じように。
瀬名は、何も言えなかった。
言葉が浮かばなかった。
けれど、母は微笑んだまま、ゆっくりと口を開いた。
「……私、私の記事も読んだわよ」
その言葉を聞いた瞬間、瀬名の背筋に冷たいものが走った。
──あの記事。
彼が母を殺した男について書いた、あの特集。
狂気に満ちた通り魔の行動原理。
精神的に追い詰められた末の暴走。
そして、その“きっかけ”になったのが──他でもない、かつて瀬名自身が書いた記事だった。
取材で得た情報をもとに、男の職場での孤立、家族との断絶、過去の軽犯罪歴や精神科への通院歴といった、社会的に“理解しがたい”背景ばかりを選び抜いた。
加害者の複雑な人間像を描くというよりも、瀬名は“異常な存在”として読者に印象づける構成を選んだ。
社会のどこかにひそむ不安定な爆弾──そんなイメージを植えつけることで記事は注目を集めた。
「社会の闇」の象徴として彼を仕立て上げ、事件の背景を“理解できる狂気”として消費した。
けれど──
その報道は、男をただ追い詰めるだけの刃になった。
精神を崩壊させ、暴発させた。
そして──その暴力の矛先にいたのが、偶然通りかかった母だった。
瀬名は、その記事を発表したあと、事件の報せを聞いた。
けれど、自分の“記事との因果関係”には目を伏せた。
認めたら、何もかもが壊れてしまう気がしていた。
そして今──母の口から、その記事の話が語られた。
彼女は、瀬名が“通り魔の異常性”を冷静に分析した記事を読んでいた。
自分の死が、ひとつの“材料”として処理された文章。
加害者の心理が語られる一方で、母の姿はどこにもなかった。
彼女の名前も、表情も、存在すら、何ひとつ記されていなかった。
それなのに、彼女は淡々と語る。
「……あなたの記事は正しかった。でもね……私は、そこにいなかったの」
その声は、怒りでも悲しみでもなかった。
ただ静かに、事実だけを突きつけていた。
瀬名の胸の奥が、じわじわと冷えていく。
何よりも恐れていた瞬間だった。
そして、それはずっと避けてきた“答え合わせ”でもあった。
逃げていたものが、今ここに立っていた。
逃げるな──その静かな視線が、彼を射抜いていた。
喉の奥が、焼けるように熱い。
けれど声は出ない。
母の目は、何も責めていなかった。ただ、静かに見ていた。すべてを知って、すべてを受け入れて、それでもなお、目を逸らさずに。
「あなたが悪いとは思っていないわ」
穏やかに、そう続けた母の声が、逆に瀬名の胸を貫いた。
「でも、私のことを“見なかった”のは、きっと本当なのよ」
その一言が、音もなく、心の奥底に沈んでいく。
瀬名は思い出す。
事件の直後、自分は何を考えていたか。 “自分の記事と関係があったのかもしれない”という直感を、どれだけ早くかき消したか。
「偶然だった」「責任はない」「俺のせいじゃない」──
そう自分に言い聞かせてきた。 だが、その裏側に、誰よりも早く“分かっていた”自分がいた。
──あの記事が、男を壊した。
──その男が、母を殺した。
それ以上でも以下でもない。 事実として、そこにある。
「……俺は……」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
喉の奥が詰まり、言葉の輪郭さえ霞んでいく。
それでも、吐き出さなければいけない想いが、胸の奥で暴れていた。
「俺は……ずっと、自分を正しいと思ってた。誰かの“真実”を伝えることが、正義だと信じてた」
言葉にするたびに、自分の中の価値観が崩れていくのがわかる。
積み上げてきた記事。称賛されたスクープ。社会的意義。
それらはすべて、“誰かの痛み”の上に成り立っていた。
「でも……」
視界が揺れる。
母の姿がにじんで見えた。
「でも、俺は……“誰かの痛み”に目を背けて、自分の正しさだけを見ようとしていたんだ」
その言葉が口からこぼれた瞬間、胸の奥が、深く沈み込むような感覚に満たされた。
それは、ただの後悔ではなかった。
自分の中でずっと曖昧にしていた輪郭が、はっきりと形になった瞬間だった。
傷を負わせたのは、言葉だった。
誰かの絶望を“伝えるべき事実”とすり替え、感情を排した記録に落とし込んだ。
その記録が称賛されるたび、自分は正しいと信じた。
だがその正しさは、誰かの痛みの上に立った“冷たい正義感”だった。
──わかっていた。
ずっと。
心のどこかで気づいていた。
けれど目を背け、言葉を重ね、記事に閉じ込めて、蓋をしてきた。
そして今、それを自分の口で認めた。
その瞬間、ようやく、涙があふれた。
それは、自分が背負ってきたはずの“正しさ”の仮面が、崩れ落ちていく痛みだった。
長年、事実を伝えることこそが真実だと信じていた。
けれど、その信念の下でどれほど多くの“感情”を見捨ててきたのか。
記事としての精度、社会的影響力、数字──
そのすべてが、自分を守るための盾だった。
そして今、自分の言葉が、誰かの人生を崩壊させた現実に向き合ったとき、初めてその盾が音を立てて割れた。
ただの後悔ではない。
それは、自分の中に確かにあった“無視した痛み”に対する、本当の意味での自覚だった。
涙は、その気づきの証だった。
もう、言葉で誤魔化すことはできなかった。
痛みの芯が、ようやく言語になった──そんな感覚だった。
母は何も言わなかった。
ただ、静かに立っていた。まるで、沈黙そのものになったように。
瀬名はうつむき、声を震わせながら続けた。
「ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……」
その言葉は、何度もこぼれた。 自分の中の誰かに向けて。 そして、目の前の母に向けて。
やがて──
母はそっと、机の上の紙を指で押し出した。
それは、あの特集記事だった。
「これは、私の記事よ」
そう呟いた母の声は、穏やかで、どこか遠くの音のようだった。
「私が死んだあと、あなたが“私を無視して書いた”記事」
瀬名は震えながら紙を見つめた。
自分の手で書いた文字。 構成された段落。 分析された狂気。
そこに“人”はいなかった。 あの日の母の姿も、声も、感情も、ひとかけらも残っていなかった。
「でも……いま、こうして話せてよかったわ」
母は微笑みながら言った。
「やっと、あなたと“目が合った”気がするもの」
瀬名は、涙を拭うこともできなかった。
全てが、遅すぎた。
けれど、いまこの瞬間だけは──逃げずに見つめることができた。
母は、静かに後ずさるように、灰の帳の中へと戻っていった。
何も言わず、何も残さず。
けれど瀬名は、その沈黙の中に、確かに何かを受け取った気がした。
これは、過去との“最後の対話”だった