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# 第8章:声なき声

──断片記録/沈黙──

※言葉にならないものへの対峙


---


──片桐の姿が消えたあと、空間は再び静寂に包まれた。


しかし、瀬名の胸には、言いようのないざわつきが残っていた。

声を出すことも、動くこともできず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


灰が肩に積もるようなその沈黙の中で、ふいに、感覚が変わった。

空気の重みがわずかに変わり、呼吸のリズムが狂う。

音はない。だが確かに、“何か”がそこに存在しているのが分かった。


誰かが語りかけてくるような気配。

けれど、それは声ではなかった。


──無音だ。


だがその無音こそが、これまで感じたことのないほどの“密度”を持って、瀬名を包んでいた。


空間は静かだった。

だが、そこには確かに“誰か”の気配があった。

声ではない──それでも、伝わってくる“存在の濃度”が、瀬名の全身を覆った。


まるで、胸の奥で何かがかすかに振動しているような感覚。

だが、耳には何も届かない。


──これは、“無音”だ。


だがその静けさの中に、瀬名は確かな“意思”を感じ取っていた。


音のない問いかけ。

言葉を持たない沈黙の叫び。


瀬名は、空間の中心に立ち尽くしたまま、まるで誰かと会話をしているかのように心が揺れていた。


何も言われていない。

それなのに、心の中に浮かぶ言葉たちが次々に形を成していく。


──なぜ、あのとき気づかなかった?

──なぜ、誰の声も聞こうとしなかった?


そして、不意に、ふたつの記憶が胸の奥から浮かび上がってきた。


一人は、左手に火傷の痕を抱えていた女性。

もう一人は、遺書を遺して命を絶った元刑事・片桐。


彼女は語らなかった。

片桐は、語ることをやめさせられた。


そのふたりに、瀬名は“言葉”で迫った。

けれど、そこにあったのは本当の対話ではなかった。


──自分は、彼らの声を拾ったのではなく、

拾いやすい部分だけを切り取り、見せたい形に整えて世に出しただけだったのではないか。


その問いが、心の底でじわじわと熱を帯び始める。


そして、次の疑問が沈むように胸に降りてきた。


──もし、自分が“書かれなかった側”だったとしたら。


瀬名は立ち尽くしたまま、その想像に囚われる。


記事にならない人生。

誰にも拾われず、語られることも、記録に残されることもない日々。


社会の関心から外れ、誰の正義にも守られず、ただ存在しているだけの声──


そのとき、初めて瀬名は“自分が常に書く側にいた”ことの傲慢さに気づいた。


誰かの声を届けるためと信じていた。

だが実際は、書かれなかった者たちを見落としてきただけだったのかもしれない。


その想像は、思っていた以上に鋭く、深く、胸を裂いた。


誰にも言葉にしてもらえず、物語の中に存在できず、ただ“削除された記憶”として生き続けていたとしたら。


瀬名の中に、かつて出会ったひとりの少女の顔が浮かんだ。


アヤ──


あのときも、彼女は多くを語らなかった。

むしろ語れなかった。

けれど、その瞳の奥に宿っていた静かな痛みだけが、今になって鮮やかによみがえる。


──彼女は、ここにいたかっただけ。


それが、どれほどの叫びだったのか。

それに、まったく気づけなかった自分。


この空間に漂う“無音”は、ただの静寂ではなかった。


言葉にされなかった悲鳴。

誰にも拾われなかった訴え。

記事にも、記録にも、歴史にも残らなかった“声なき声”──


それが、ここには満ちている。


瀬名は、初めてその存在を“声”として感じ取った。

それは音ではなかった。

けれども確かに、“ここにいる”と訴えかけるような力があった。


耳に届かないその感覚は、まるで心の奥に直接触れてくるようだった。

そして、その感覚は痛みに近かった。


聞こえなかったのではない。

──自分は、最初から聞こうとしてこなかったのだ。


その認識が、まるで冷たい水を被ったように、静かに、しかし鋭く胸に染みていく。


誰かの声を伝えること。

それが報道の役目だと思っていた。

だが、そこに“選別”があった。

誰の声を取り上げるか。

どの言葉を残すか。

そして、どれを切り捨てるか。


知らず知らずのうちに、自分は“語られない者たち”を置き去りにしてきた。

その声なき声に、見て見ぬふりをしてきた。


──書かれなかった者たち。

──報道されることのなかった者たち。

──届くことのなかった声。


今、この空間には、そうした存在が濃密に沈殿している。


かつて記事にはならなかった事実。

筆を止めたあと、ページの外に落ちていった声たち。

どんなに叫んでも記録されなかった“痛み”──


それが、静かにこの塔の空気の中に溶けていた。


沈黙は、空白ではなかった。

沈黙は、語られなかった人生の集積だった。


瀬名は、喉を震わせようとしたが、声にならなかった。

それでも、その沈黙の中に確かに“誰かがいる”と感じた。


問いかけてくるようでもあり、ただそこに寄り添っているようでもある。

その沈黙は、決して無関心ではなかった。


──これは、声なき声との対話。


言葉にしようとすればするほど、遠ざかっていく。

けれど、確かに心に触れてくる。


瀬名は、ただそこに立ち、沈黙と共に在ることを選んだ。


それは、今の彼にできる唯一の“返答”だった。


それが、今のすべてだった。


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