# 第7章:揺れる声
──断片記録/沈降──
※感情と記憶の深部が干渉し始める
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それは突然、意識の奥にじわじわと滲み出してきた。
まるで過去のどこかから、静かに漏れ出した染みのように──
特定のきっかけがあったわけではない。
匂いでも、音でも、景色でもなかった。
ただ、心の深層から浮かび上がってきた“空気”が、瀬名の内側に静かに広がった。
気づけば、それは“記憶”になっていた。
だが、どこから始まったのか、自分でも分からない。
確かなのは、それがずっと忘れていた“何か”だということだった。
闇の中に、微かに音が生まれる。
それは言葉ではない。
濁った水底から浮かび上がるような、名のない感情の“音”だった。
そして、その音に導かれるように、ぼんやりとした人影が闇の中に現れた。
最初は誰かわからなかった。
だが、その輪郭が少しずつ形を持ち始めると、瀬名の胸の奥に鈍い痛みが走った。
──知っている。
どこかで見た。
確かに、一度だけ、真正面から向き合ったことのある顔。
だが、その顔をすぐには思い出せなかった。
どこかで見た気がする。
記憶の奥に引っかかるような違和感だけが、じわじわと輪郭を掘り起こしてくる。
──いつだったか。
瀬名はゆっくりと目を閉じ、過去の取材現場をたどるように記憶を探る。
人だかり、フラッシュ、マイク、記者たちのざわめき。
その中で、ひとり俯いていた男の姿が、鮮明に浮かび上がってきた。
記者会見の場だった。
誤認逮捕が明るみに出たその日、すべての責任を背負わされ、沈黙したまま壇上に立っていた男。
瀬名も、その現場にいた。
だが、彼には声をかけなかった。
いや、かける資格がないと──どこかで感じていたのかもしれない。
誤認逮捕が明るみに出たその日、報道陣のフラッシュのなかで、ひとり俯いていた男の姿。
──片桐。
そう名が浮かんだとき、視界に立っていた影が、はっきりとした形を帯びた。
かつて瀬名が“誤報”によって追い詰め、人生を狂わせた元刑事。
その名前と顔が一致した瞬間、瀬名の背筋がひやりと凍るように感じた。
その姿はどこか影のようで、実体を持たない。
だが、ゆっくりと顔を上げたその表情には、怒りでも恨みでもない、もっと静かで深いものが宿っていた。
瀬名は一瞬、身構えた。
だがその眼差しに、怒鳴りつけられるような圧力はなかった。
むしろそれは、言葉にしがたい“疲れ”のようなものだった。
深く沈んだ諦め、どこにも届かない声を出し続けてきた者だけが持つ、乾いたまなざし。
その視線が、真正面から瀬名を射抜いた。
逃げられないと、彼は悟った。
自分の書いた記事が、誰かをこんな目で見させてしまった──その現実を、真正面から突きつけられたような感覚だった。
「お前は……」
その声に、瀬名は身動きが取れなくなった。
まるで自分の名を言われたような錯覚に陥る。
片桐は語る。
自分が冤罪で逮捕されたとき、最初に変わったのは、警察内部の空気だったという。
取り調べ室で取り囲んでいた同僚たちの顔が、急に“よそゆき”の仮面をかぶったようになった。
捜査会議でも、挨拶を返してくれたはずの後輩が、目を逸らすようになった。
それまで何年も共に現場を歩いてきた相棒でさえ、突然「一線を引くように言われた」と無表情で告げてきた。
「……誰も俺のことを“仲間”だなんて、言わなくなったんだ」
声を荒げるでもなく、片桐は静かに言った。
それは怒りというよりも、過去を何度も反芻した末に滲み出た、諦めと痛みの混ざった言葉だった。
そして、報道が一斉に動いた。
まだ裏付けも不十分な段階で、“容疑者・片桐”の名前が紙面に踊り、テレビで流れた。
そのなかには──瀬名の名前が署名された記事もあった。
「妻が、俺に『何を書いたの?』って訊いたんだ」
片桐は小さく笑った。
だがその笑いは、あまりにも乾いていた。
「俺じゃない。記事が勝手にそう言ってるだけだって、何度も説明した。
でもな、あの人は、最後まで“俺が本当にそうだったんじゃないか”って目で見てた」
職場を追われ、家に戻れば気まずさと沈黙が待っていた。
やがて、妻は子どもを連れて実家に帰った。
「最後に玄関で振り返ったとき、あの人は何も言わなかったよ」
それでも俺は、あの背中に声をかけられなかった──片桐はそう言った。
「……俺が間違っていたのは、きっと、あのとき黙っていたことだ」
片桐はそう言った。
「でも……お前も、同じだったんじゃないか」
瀬名は、呼吸が浅くなるのを感じた。
「お前は記事を書いた。だが、書いたことで何かを“伝えた気になった”だけだ」
片桐の声は静かだった。
怒鳴りもしなかった。
だが、その静けさが瀬名には何よりも重かった。
責められていないのに、胸が締めつけられる。
否定されたわけでもないのに、自分の中の何かが大きく揺れた。
「お前の言葉の裏には、誰がいた?」
その一言が、鋭く心の奥を刺す。
──誰の視点で、書いてきた?
──誰の心で、伝えたつもりだった?
立て続けに浮かぶ問い。
だが、それは片桐が投げかけてきたというよりも、瀬名自身の記憶の底から湧き出してきたような感覚だった。
思い出す。
取材中、相手の言葉に頷きながらも、自分の中ですでに記事の構成を描いていた。
“読者が求めている物語”に合うよう、言葉を切り取り、整えてきた。
本当に相手の目を見ていたか?
相手の心に、触れようとしていたか?
答えは、出なかった。
いや、答えられなかった。
そしてその沈黙こそが、何よりの答えになっていた。
片桐の姿がゆっくりと崩れていく。
その直前、瀬名の脳裏に、さらに別の記憶が差し込んだ。
──数ヶ月後、地方紙の片隅に掲載された、たった十数行の訃報記事。
『元刑事・片桐雅志さん、都内の自宅で死亡。自殺とみられる』。
記事には、小さく“遺書の存在”が示されていた。
全文は公開されなかったが、関係者の話として、片桐が冤罪を訴えた最後の手紙を残していたと記されていた。
『私はやっていない。だけど、誰も信じてはくれなかった』。
『家族も、社会も、報道も、全てが俺を“悪人”にした』。
『俺の名前を最初に書いた記事──あれで、すべてが変わった』。
その言葉が、活字となって瀬名の目に焼きついた。
──あのときの記事。
自分の署名の入った文章が、彼を“真犯人”のように切り取っていた。
事実確認も不十分なまま、読者の関心を引く“流れ”に従って筆を進めた。
瀬名が筆を取ったとき、それが誰かの人生をどう変えるかなんて、深く考えていなかった。
だが今、片桐が遺した言葉を読んで、初めてその“重さ”を知った。
冤罪の苦しみも、孤独も、信頼を失っていく恐怖も、すべてを押しつぶしたのは、報道だった。
正義を掲げて書いたはずのその記事が、誰かの人生を歪め、追い詰めた。
──瀬名はようやく理解した。
片桐は、自分ではどうしようもない外側の力に押し潰されたのだ。
選択肢も、声も、居場所すら奪われた。
それでも世間は彼を責め、記事は彼を断罪し、誰も“耳を貸そうとしなかった”。
──本当に、理不尽だった。
彼が望んだのは、正義の再評価でも、自分への同情でもなかった。
ただ、“信じてほしい”という、ごく当たり前の願いだった。
それなのに──社会は彼を悪人にした。
報道は彼の沈黙を罪に変え、名前だけを切り取り、“都合の良い犯人像”として組み上げた。
そしてその最初の一手を、瀬名が打った。
『俺の名前を最初に書いた記事──あれで、すべてが変わった』
──それは、自分に向けられた言葉だった。
誰にも明言されていない。
だが、瀬名には分かった。
片桐の死を決定づけた“最後のひと押し”は、自分だったのだと。
胸の奥に、重く鈍い何かが沈んでいく。
喉が詰まり、言葉が出ない。
だがその“沈黙”こそが、彼に突きつけられた罪の重さそのものだった。
言葉を発することができなかった。
それは、語る資格を失っているという確かな証拠だった。
その名前を見たとき、瀬名は何も感じなかったふりをした。
だが、記事を閉じた手は震えていた。
──自分が、彼の死に何らかの形で加担していたのかもしれない。
──だが、それを誰にも説明できない。
──自分自身にも、答えられない。
言葉も残さず、ただ灰のように空気へ溶けていく。
そのとき、瀬名の胸にひとつの記憶が刺さった。
──記者会見の後、ひとりで帰っていった片桐の背中。
──その背に声をかけようとしながら、何も言えなかった自分。
「伝えること」と「寄り添うこと」は、違う。
それを分かっていたはずなのに、理解しようとしなかった自分。
灰が、ふわりと肩に降りかかる。
それは責めではなく、ただ静かな痕跡だった。
瀬名は立ち尽くしながら、胸の奥に重く降り積もるものを、静かに受け入れていた。