# 第6章:灰の記録
──断片記録/交錯──
※記録者の認識が揺らぎ始める
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どれほどの時間が経ったのか、瀬名には分からなかった。
次の“声”が訪れるまでの間、空間はただ沈黙に満たされていた。
だが、その沈黙はもはや空虚ではなく、記録されなかった声の残響が、わずかに空間を震わせていた。
そして──
「ずいぶん、長く座っていたな」
不意に背後からかけられたその声に、瀬名の背筋がわずかに跳ねた。
振り返る。
だが、そこには誰もいない。
それでも、確かに“誰かがいた”という気配だけが残っている。
「お前は、なぜここに来た」
声は、どこか聞き覚えがあるような響きだった。
低く、乾いた声。
誰かを導くでもなく、責めるでもなく、ただ静かに問いを重ねる声だった。
瀬名は、ゆっくりと立ち上がった。
膝がわずかに震えていた。
長く座っていたことによる身体のこわばり以上に、心がまだ“その場”にとどまっていた。
椅子の脚がかすかに軋む音が、まるで過去の罪が軋むように重く響いた。
その音が闇に吸い込まれていくのを聞きながら、瀬名は自分の呼吸を整えようとした。
目の前の何か──いや、“誰か”に対して、瀬名は無意識に言葉を慎重に選んでいた。
理屈では説明できないが、その存在には、軽々しく言葉を投げてはいけないような気配があった。
“何か”に向けてではなく、“誰か”の前に立っていると感じた。
その“誰か”は、自分を裁くために現れたのではない。
ただ、自分の中にあるものを照らし出すためにそこにいる──そんな確信のようなものが、胸の奥からじわじわと湧いてきていた。
瀬名は、自分でも気づかぬうちに、その存在に心を引き寄せられていた。
その声に導かれるように、胸の内から自然と浮かんできた疑念が、ゆっくりと形を成す。
──この場所は、何かを暴こうとしている。
──自分の中の何かを、照らし出そうとしている。
それは裁きでも罰でもない。
ただ、自分が見ようとしなかった“何か”を、静かにこちらへ向けているだけ。
そう感じたとき、瀬名の喉の奥から、ぽつりと言葉が漏れた。
「……試されるのか?」
声が続く。
「お前は、真実を暴いてきたつもりだったろう。
だがその“真実”が、誰かを壊すものだったと──本当は、お前は知っていたはずだ」
その言葉に、瀬名の呼吸が止まった。
胸の奥に押し込めていた何かが、一気に掘り返されたような感覚。
その問いかけは、あまりにも鋭く、あまりにも的を射ていた。
たしかに、彼は何度も過去の取材を振り返ってきた。
あれで良かったのか、本当に伝えるべきことを書けていたのか、どこかで迷いながらも、正義の名のもとに“結果”だけを見てきた。
だが、いまその言葉を投げかけられて、自分の中にあった確信のようなものが音を立てて崩れていくのを感じた。
──知っていた。
それは否定できないほど、明白だった。
瀬名は、自分の息を潜めながら、その事実と初めて真っ向から向き合おうとしていた。
「最初から、お前は“どこかで気づいていた”」
闇の中に、ぼんやりと“灰色の輪郭”が現れる。
人のような、人でないような──
ローブのような布をまとい、顔は判然としない。
輪郭も曖昧で、視界に入れていても記憶に残らないような、不思議な存在。
それが“灰衣”だった。
「……私は、灰衣。お前の記憶が、この塔の中で形を得た存在だ」
その声は変わらず静かで、感情の色をほとんど含んでいなかった。
だが確かに、自らをそう名乗ったとき、その名がこの空間に“馴染んで”いることを瀬名は感じ取った。
「俺は……」
瀬名は、言葉を詰まらせる。
「お前は、記事を書くたびに“正義”を測ってきた。
けれど、測っていたのは他人の“罪”だけだった。
その記事に、お前自身の“罪”は載っていたか?」
その言葉に、瀬名の心が強く揺れた。
問いは淡々としていた。
だが、その一言ごとに胸の奥がきしみ、
その問いかけが胸の奥深くに触れたとき、瀬名の中にある、ずっと見ようとしなかった“何か”がかすかにざわめいた。
それは、過去の記録に書かなかった自分自身──かもしれない。
正義の名のもとに誰かを断罪しながら、どこかで自分の罪には目を伏せてきた。
「もしかして……」という気配だけが、曖昧に心の奥をなぞる。
まだ確信ではない。
だが、今ここに現れている“灰衣”が向けてくる言葉のすべてが、
自分の中にある“何か”に響いてしまっていることは、否定できなかった。
「お前は、記録者だ。
だがその記録は、本当に“誰のため”にあった?」
空間に、灰が舞った。
まるで、過去の記録が燃え尽き、今まさに再構築されていくかのように──
瀬名は、立ち尽くしたまま、答えることができなかった。