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# 第5章:最初の問答

──断片記録/再現──

※記録の中に“声”が立ち上がる瞬間


---


「あなたが、私の名前を消した──」


その声は、空間のどこからともなく響いた。


音ではなかった。

直接、胸の奥に届くような“気配”だった。

だが確かに、それは“言葉”だった。


椅子に座る瀬名の前、闇の中から、ひとりの女性が歩み出てきた。


かすかに滲んだ輪郭。

表情は見えない。

だが、雰囲気だけで誰かを理解できてしまう──そんな空気をまとっていた。


最初は誰なのか分からなかった。

だが、彼女の佇まい、言葉にしない怒りと寂しさが織り交ざった気配、そして何より──沈黙の中に漂う“記憶の重さ”が、瀬名の心を直接揺らした。


思い当たる人間がいた。


それは、何年も前に取材したひとりの女性。

記事としては小さな扱いだった。


それでも、彼女の声や震える手、語るたびに何度も沈黙を挟んでいたあの夜の面影が、今の“この存在”に重なった。


真冬の夜、都内の小さな喫茶店だった。

終電を逃した後でも話ができる場所を、彼女が選んだ。

カップの縁に手を添えたまま、なかなか口を開かなかった。

何度か言いかけて、首を振って、そしてまた沈黙する。


「……これ、記事になりますか?」


ようやく絞り出した声に、瀬名は機械的にうなずいた。

“素材”としては悪くなかった。

それでも彼女の語る内容には、どこか“引っかかり”があった。

だが当時の瀬名は、それを“読者に伝わりにくい曖昧さ”として処理してしまった。


──あの時の、コートの袖を握りしめる彼女の手。

──声を出すたびに揺れるカップの中のコーヒー。

──誰かに名前を知られることを、恐れているような目。


全部、忘れたふりをしていた。

だが今、ここに現れた彼女の佇まいは、その夜の記憶を容赦なく呼び起こした。


そして決定的だったのは、彼女の左手の指に残っていた小さな火傷の痕だった。

あの夜、コーヒーの湯気に驚いて少しこぼし、慌てて拭ったときに見えた赤くなった指先。


彼女は笑ってごまかしたが、それを見た瀬名は「その仕草も書けたらいいのに」と内心で思っていた──だが、実際には書かなかった。


今、目の前の“彼女”の指に、確かに同じ痕跡がある。

光もない闇の中で、なぜかそこだけが輪郭を持って、瀬名の視界に焼きついた。


──間違いない。


瀬名は、心のどこかでそう確信していた。


彼女は、かつて瀬名が書いた記事の中に登場した女性だった。

正確には──“匿名”で報道されたひとり。


ブラック企業での過酷な労働環境、上司からのパワハラ、そして自殺未遂。

記事は事実を丁寧に描いていた。

組織の実態、職場の異常性、被害者の行動。


だが、そこに“彼女の名前”はなかった。


──『女性社員A』


それが、彼女の全てだった。


「あなたは、私を“例”にした。だけど私は、“実在”だった」


その言葉が、ぐらりと瀬名の視界を揺らした。


思い出す。


あの時、彼女に話を聞いた。

震える声で、過去を語ってくれた。

ひとつひとつ、丁寧にノートを取り、取材を終えた。


だが、記事になるとき、彼女の存在は“情報”になった。


彼女がどんな表情で語っていたか、どんな沈黙がその間にあったか、どんな熱を帯びていたか──

すべては紙面には載らなかった。


“彼女”という存在が、“読者の理解しやすいフォーマット”に切り取られ、磨かれ、分類されていった。


「あなたは、私の“痛み”を整えた。あなたが整えてしまったから、誰も私を“傷んだ人間”として見てくれなかった」


瀬名は、何も言えなかった。


言葉が、喉まで上がってきていた。


「だって……それは……」


──だって、それが“報道”だと思っていた。


──だって、“読者に伝えるため”だった。


──だって、“誰のための記事か”を考えていた。


「誰のため?」


再び、彼女の声が重なる。


「あなたは、誰のために書いていたの?」


それは問いだった。

だが、責めるような声音ではなかった。

ただ、静かだった。


静かすぎて、瀬名は自分の心の音だけが異様に大きく聞こえた。

鼓動が一拍ごとに胸を打ち、呼吸の音さえ耳障りだった。


彼女の問いに、答えられなかった。

それは問いとしてあまりに真っ直ぐで、あまりに重かった。


だが、答えはすでに胸の奥で、熱を持ってうごめいていた。

何も言わなくても、自分は知っている──

誰のために書いていたのかを、どこかで分かっていた。


「……俺は……」


喉が締まり、声がかすれる。

言葉にならないものが、沈黙のなかで形になろうとしていた。


椅子が、ぎしりと軋んだ。

その音が、やけに大きく響く。


闇の中で、彼女の姿がすこしずつ薄れていく。

まるで、その問いに答えられなかったことが、彼女の存在を少しずつ消していくように。


「私は、ここにいたかっただけ」


その言葉は、静かだった。

でも、芯のある声だった。

誰かに理解されたかった、誰かの中に“実在”として残りたかった──

ただそれだけの想いが、その一言に込められていた。


最後にそう言って、彼女は沈黙の闇へと還っていった。


瀬名は、何もできなかった。

立ち上がることも、追いかけることもできなかった。

ただ、その言葉の残響だけが、胸の奥に深く、深く、刺さっていた。


何もできなかった。

立ち上がる勇気も、声をかける言葉も持たなかった。

ただ、残された沈黙に圧倒され、全身が冷たい重力に引きずられるようだった。


だが──

心の奥底に、何かが確かに焼きついていた。


悔いとも違う。

恐れとも、悲しみとも少し違う。

それは、彼女が発した最後の言葉が、骨の内側に染み込んでいくような、静かな痛みだった。


「私は、ここにいたかっただけ」──その一言が、過去に見落としてきた、記事の価値無と捨ててきたすべての人々の代弁のように思えた。

彼女の姿は消えたのに、その存在だけが鮮明に残った。


瀬名は、気づいていた。

これは“忘れられない”ということではない。

“忘れてはならない”という感覚だった。


それは彼の中に、確かに“刻まれた”ものだった。


そして再び、沈黙。

空間は元の無音に包まれる。


だが、その無音は、もう“何もない空虚”ではなかった。


ただの静寂ではない。

それは、音にはならなかった言葉たちの“残響”だった。

声として発されなかった訴え、書き落とされた感情、誰にも届かなかった想い──

そうしたすべてが、この空間の温度の中に、かすかな振動として残っていた。


瀬名の鼓動がそれを打ち消すように響きながらも、その“声”は確かに、胸の奥で共鳴していた。


沈黙のなかに、名前を持たなかった人間の気配が生きていた。

それを、初めて“声”として感じられたことに、瀬名は自分でも驚いていた。


──これは消えたんじゃない。


──聞こうとしなかっただけだ。


そう気づいたとき、無音の奥にあった“誰かの存在”が、確かにここにいるのだと理解できた。


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