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# 第4章:闇の椅子

──断片記録/潜行──

※内部領域への接触、試練の兆候


---


その場所には、入口などなかった。


ただ、ある瞬間、現実が少しだけ“ずれた”のだ。


視界の端が歪み、足元の感覚が抜け落ち、気づけば──

瀬名は、“塔の中”にいた。


なぜそこを“塔”だと確信したのか、自分でもうまく説明できなかった。

目に見える構造物は何もない。柱も壁も、天井もない。


ただそこには、言葉にしがたい“縦の圧力”が存在していた。


重力のベクトルが、身体の中心を引き裂くように真上へと引っ張る。

何かに“持ち上げられている”というより、“上へ引きずられている”ような奇妙な感覚。

背骨が一本ずつ引き伸ばされ、内臓が浮くような不安定さが全身を満たしていく。


見上げても何もない。だが、視線が自然に天井のない空へ向かい、首筋に冷たい汗が滲む。

視界に映るものがなくとも、頭の内側で“高さ”という感覚だけがどこまでも続いていた。


その異常な空間感覚が、夢で何度も見た“あの場所”と重なっていた。


身体が、言葉より先にそれを“塔”だと理解していたのだ。


心の奥底がざわつき、背筋が自然と正される。

まるで、見えない“構造”の中に収められていく感覚。


それは、あらかじめ「ここは塔なのだ」と刷り込まれていたかのような、不可解な“納得”だった。


そして何より──空気が、違っていた。


重く、澱んでいて、何かが“溜まっている”空間。

長い時間、誰にも触れられず、語られず、積もっていった何かが、この場所にはあった。


記録されなかった声たち、掬い上げられなかった痛みたち──

それらが沈殿した“塔”という空間が、確かにここに存在していた。


名前のない場所に、唯一与えられた名が“塔”だった。


瀬名はそう感じた。


この空間を、ほかの何と呼べばいいのか、もう彼にはわからなかった。

だからこそ、それは“塔”だった。


---


空間は、黒一色だった。

それは暗闇というより、光という概念そのものが失われたような“深さ”だった。


どこが床で、どこが天井かもわからない。

ただ、自分の心音と、わずかな呼吸の音だけが耳の奥で反響している。


どれくらいの時間、そこで立ち尽くしていたのか。


──いや、時間というものが、この場所には存在しないのかもしれない。


やがて、空間の中央にぽつんと灯る、一点の光。


その中に、ひとつの“椅子”が浮かび上がる。


壊れかけた木製の椅子。

片脚は傾き、表面には無数の傷が走っている。

塗装は剥がれ、まるで時間に削られたような無惨な姿。


だが、それは──“彼自身”に見えた。


近づけば近づくほど、その椅子は、彼が記者として過ごしてきた時間の堆積のように感じられた。


──誰かを踏み台にして書いた記事。

──声なき者を切り捨てた記録。

──沈黙を“無価値”として葬った筆致。


そのすべてが、椅子の軋みに重なっていた。


瀬名は、無意識のうちに手を伸ばしていた。


指先が椅子に触れた瞬間、世界が“閉じた”。


重たい扉がゆっくりと閉まるように、音も色も、時間さえも遠ざかっていく。


彼は、座った。


その瞬間──


記憶が、流れ込んできた。


否、これは記憶ではない。

記録されなかった“声たち”だった。


---


──女性が泣いていた。

──その横で、テレビの報道が流れていた。

──画面に映る自分の署名記事。

──誰かが拍手をしている。

──数日後、小さな葬儀。

──誰も責任を問わない。


その全てが、淡々と流れ込んでくる。


「これは……俺が……」


声が出なかった。

喉の奥が、氷のように凍りついていた。


胸の内側で、何かが軋む音がした。

それは──椅子の脚だった。


一つ、きしむたびに、彼の中の何かが剥がれていく。


そこに、“彼女”が現れた。


ぼんやりとした人影。

声もなく、ただ、立っている。

だが瀬名にはわかっていた。

あれは──かつて、自分が記事にした女性だ。


彼女の口は、何かを言っている。

だが音は届かない。

ただその動きが、刃のように突き刺さる。


──「あなたは、私を見なかった」


言葉にはならなかったが、瀬名の脳内に、確かにそう響いた。


そして、椅子の背に、風が吹いた。

冷たい、無音の風。


また一つ、椅子の脚が、ひび割れるような音とともに折れた。

椅子が大きく傾き、瀬名の身体は不意にぐらりと揺れた。

視界が斜めにずれ、頭の中に血が偏っていくようなめまいが押し寄せる。


身体は、今にも床に投げ出されそうだった。

だが──椅子は、完全には倒れなかった。


折れた脚の代わりに、別の何か──空気の“重さ”のようなものが、椅子を無理やり支えていた。

それは構造ではなく、意思に近いものだった。

「まだ終わらせてはいけない」と語りかけてくるかのように、傾いた椅子はぎりぎりの均衡を保っていた。


瀬名は背もたれを強く握りしめ、必死に体勢を保った。

倒れてしまえば、何かが終わってしまう気がした。

それが何なのかは分からない。

だが──“向き合うこと”から逃げてはならない。


そう、瀬名は直感していた。


何かが崩れたまま、立て直さずに放置してきた。

誰かの声を無視し、都合の悪い事実から目を逸らし、記事という形に置き換えてしまった。


そのたびに、自分は「記録した」と言い訳してきた。

だが、今この場所では、その“記録”がいかに歪で空虚だったかが、骨の髄まで突きつけられる。


この椅子は、ただの象徴ではない。

自分が築いてきた言葉の層、その下に積み上がった見落としと罪の“重さ”だ。


逃げたくなる理由など、いくらでもあった。

だがここで目を逸らせば、また“誰かの声”を消してしまうことになる。


それだけは、もう二度と許してはならない。


瀬名は、身体が揺れるのを抑え込みながら、心を座らせるようにして、深く息を吐いた。


──耐えなければ。


ここからが、本当の始まりだった。


これまで瀬名が踏み込んできたどんな現場よりも、目を背けたくなる真実が待っている。

他者の痛みに無頓着だった自分、声なき者を無視してきた日々、その全てがここで暴かれるのだ。


これは“塔の試練”──そう瀬名は、なぜか確信していた。


なぜなら、この場のすべてが、ただ“裁くため”に存在しているように感じられた。


逃げ場のない空間。

記憶の断片が勝手に浮かび上がり、語られなかった声が沈黙のまま責めてくる。


物理的な拷問ではない。

誰かの糾弾でもない。

だが、これほどまでに痛みを感じる場所があっただろうか。


そしてその痛みの中心に、自分自身がいる──そう気づかされた瞬間、瀬名は悟った。


これは、これまで記事という形で他者を断罪してきた自分が、その記録の“精度”を試される場なのだ──そう、瀬名は理解し始めていた。


記事を書いてきた。

数えきれないほどの人間を取材し、断片を集め、言葉にし、世に出してきた。

それが“正義”だと信じた時期もあった。

だが今、目の前にあるのは“書かなかったもの”たちだ。


言葉にせず、視界に入らなかった人々の苦しみ。

記録の外側にあった叫び。

自分にとって“記事にならなかった”がゆえに、簡単に切り捨ててきた人たち。


ここでは、どんな論理も理屈も通用しない。

事実を積み重ねたつもりだった言葉たちは、音もなく崩れ落ちていく。


沈黙だけが、裁いている──

言い訳も説明も許されない空気の中で、瀬名は混乱していた。


これは何なのか、自分は何を見せられているのか。

目の前にあるのは、過去に切り捨てた声、見なかったふりをした痛み、名前すら覚えていない被害者たちの記憶の残滓。


ひとつずつが、何の前触れもなく浮かび上がり、沈黙のまま訴えかけてくる。


説明されることは何もない。

だがその不条理さと重さが、むしろ真実のように思えた。


心の奥深くが、“これは裁きだ”と告げていた。

誰かに命じられたわけではない。

けれど、逃げられない問いが、自分に向かって突きつけられている──そんな感覚だけは、はっきりとあった。


ここは、過去を“問い直す機会”を与える場所。

それは誰かのための償いではなく、自分が、自分をどう記録してきたのかを問う場所なのだ。

だが、それは誰かのためではない。

自分自身が、自分をどう記録していたか──その“精度”が、今ここで突きつけられているのだ。


記事という仮面の下に積もった欺瞞のすべて。

見ようとしなかったもの、見えなかったふりをしたもの、それらが一つずつ、目の前に姿を現し始めている。


逃げ道は、ない。


瀬名は、ただ静かに息を整え、闇の中に身を据えた。

記者として過去に切り捨てたすべての“無音”に向き合う場所。


光のない空間で、彼は、彼自身と向き合い始めた。


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