# 第3章:塔の気配
──断片記録/接触──
※記録の輪郭が現実に滲み出す兆候
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塔とは、そもそも何なのか。
瀬名自身、その言葉に明確な像を持っていたわけではなかった。
記事の中に書かれた“塔”──自殺した理事が残した走り書き──
ネットに点在する断片的な噂──
それらはどれも、実体のある建築物を指しているようで、どこか夢のような曖昧さを持っていた。
“塔”が存在する場所について、地図は何も教えてくれなかった。
座標も、名前も、写真もない。ただ、人々が語る「失踪」や「沈黙」の背後に、確かにその存在を匂わせるものがあった。
瀬名は最初、その言葉を比喩的なものだと考えていた。
社会的な“塔”、情報構造としての“塔”、あるいは死を前にした幻想──そういった解釈が頭をよぎった。
だが、夢に現れるそれは、明らかに“場所”だった。
高く、冷たく、見上げるたびに首の奥がひやりと凍るような感覚を残す、輪郭のはっきりしない建造物。
おかしな話だが、形が見えないのに「塔」だと確信してしまう何かがあった。
その空間に立つだけで、意識の奥底から“記憶”のような感覚が呼び起こされる。
塔は見えていない。だが、それを「塔」と呼ばざるを得ない重力のような存在感。
まるで、あらかじめ誰かに“これは塔だ”と告げられていたかのように、思考の中に“名前”だけが先に存在していた。
実体のないまま、確かに“そこにある”という気配だけが、日に日に濃くなっていく。
そしていつしか瀬名は、自分の身の回りに漂い始めた“それ”の存在に、気づかずにはいられなくなった。
知ってしまったがゆえに、見えないものが見え始める──そんな感覚。
誰かの何気ない会話の端に、その存在がにじむような気がした。
街の雑踏の中に、“塔”という音が混じっていたような気がする瞬間もあった。
一度その名を意識してしまえば、そこから目を逸らすのは難しかった。
頭の片隅でずっと、“あれは何だったのか”という問いがくすぶり続ける。
まるで、思考の奥深くに種が植えられ、それが静かに芽吹いていくように。
忘れようとすればするほど、逆に輪郭が浮かび上がってくる──そんな執着のような感覚だった。
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塔は、姿を見せていなかった。
だが、それは確かに“近づいて”きていた。
瀬名の生活の端々に、微かな違和感が忍び込んでくる。
日中、取材先に向かう道で、ふと足が止まる。
見慣れたはずのビルの谷間に、陰のような“縦の空洞”を感じる。
以前なら見過ごしていたはずの風景が、今は妙にざらついて見える。
空気が重く、音が遠く、誰かに見られているような錯覚が、時折、首筋をなぞる。
「おかしいな……」
そう思いながらも、なぜその“気配”を怖がっていないのか、自分でも説明がつかなかった。
むしろ、心のどこかで、それを待っていたような気さえした。
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夜、資料を読みながらウトウトと意識が沈むと、夢の中に“塔”のシルエットが浮かぶ。
それはいつも遠くにある。霧に包まれている。だが、確かにこちらを見ている。
最初はただの夢だと思っていた。
だが、それが三夜、四夜と繰り返されるうちに、瀬名の中でその存在は“幻”ではなく“記憶”のような質感を帯びていった。
目覚めると、心臓が妙に早く脈打っている。
その鼓動が、ただの不安ではなく、“何かが近づいてきている”という確信に変わりつつあることに、瀬名は戸惑っていた。
自分の感覚を疑う反面、心のどこかでそれを否定しきれない自分がいる。
「気のせいだ」「考えすぎだ」
そう言い聞かせるたび、むしろそれが“何かを遠ざけようとする防御”に感じられる。
まるで──
その“何か”を受け入れてしまえば、もう戻れないことを、無意識に察しているかのようだった。
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ある夜。
瀬名は、街を歩いていて、自分が“どこに向かっているのかわからない”ことに気づいた。
仕事帰り、編集部を出て、そのまま帰るはずだった。
だが足は、気づけば知らない道を選び、知らない方向へと向かっていた。
意識は朦朧としていなかった。だが、足が勝手に動いていた。
雑踏を抜け、駅を越え、ビル街の裏手へ。
まるで何かに引かれるように歩き続け、気がつくと、人気のない広場に立っていた。
その中央に、小さな階段があった。
何の変哲もない、石畳に埋もれかけたステップ。
だが、その先には、確かに“縦の気配”があった。
塔の姿などない。
だが、確かにここが“入口”であると、本能のような感覚が告げていた。
瀬名は立ち尽くし、しばらくその階段を見つめた。
なぜだかわからないが、涙が滲みそうになった。
恐怖でもなく、安堵でもない。
長い間、思い出せなかった何かが、ようやく目の前に現れたような気がした。
思考はまとまらなかった。
だが、心のどこかでは知っていた。
「これは見逃してはいけないものだ」と。
そこには“見えない建築物”が、彼の視界の外側に存在していた。
見えないのに、確かに“圧”だけはある。
──ここだ。
心のどこかでそう確信したとき、何かが静かに始まり、もう引き返せない地点を越えてしまった気がした。
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その晩、瀬名は録音機の電源を入れた。
記録という行為の意味が、少しだけ変わり始めていた。
「……これは、誰に残すべき記録なのか」
自問しながら、録音機を机の上に置く。
機械の赤いランプが、静かに点灯する。
何も語らなくても、回り続ける記録装置。
その無音の記録が、瀬名の心をじわじわと締めつけていった。
“塔”という言葉を思い出すだけで、喉が詰まる。
誰にも言えない。
誰にも語れない。
けれど、確かに“何か”が始まっている。
瀬名は、言葉にできない焦燥と期待の狭間で、揺れ続けていた。
「自分は何を見ようとしているのか」「どこに向かっているのか」
その答えが出ないまま、ただ“何か”が近づいてくる気配だけが、日に日に濃くなっていった。
そして──夢の中で、初めて塔の扉が開く音を聞いた。
それは音ではなく、“感覚”として胸に響いた。
目が覚めても、その“開く感覚”は消えていなかった