# 第10章:灰の中の影
──断片記録/認識──
※“自らの姿”との邂逅
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母の姿が灰の帳にゆっくりと溶けていく。
その輪郭が徐々に曖昧になっていくたび、瀬名の胸の奥に何かが静かに崩れていった。
声をかけたいと思った。
手を伸ばしたいとも思った。
だが、身体は言うことを聞かなかった。
目の前で消えていくその存在が、もう二度と触れられない“記憶”へと変わっていくのが分かっていた。
けれど、何もできなかった。
瀬名は、しばらく動けずにいた。
手を伸ばせば届いたかもしれない距離。
けれどその一歩を、彼は踏み出せなかった。
名残惜しさと後悔が、胸の奥で交差しながら、ただそこに立ち尽くしていた。
椅子に座ったまま、両の手は膝の上で固まり、目だけが宙をさまよっていた。
胸の奥が静かに揺れていた。
怒りや悲しみとは違う。
それは、名付けようのない“気づき”だった。
過去が変わるわけではない。
けれど、過去を見つめる視点が変わった──その実感だけが、身体の内側に染み込んでいく。
そして、不意に気づく。
灰の空間に、また“誰か”の気配が漂い始めていた。
声はしなかった。
だが、その存在感は確かだった。
ふと目を上げると、視界の奥に“誰か”が立っていた。
ぼんやりとした輪郭。
だがその姿には、どこか見覚えがある。
否──
「……お前か」
瀬名は、微かにそう呟いた。
その人物は、灰色のローブをまとっていた。
顔は曖昧な影に覆われていたが、なぜかその“沈黙”だけははっきりと感じ取れた。
灰衣だった。
これまで何度も現れては、意味深な言葉を投げかけてきた存在。
だが、今ここに現れた灰衣には、これまでと違う“静けさ”があった。
「もう、お前の言葉はいらない」
瀬名の声は穏やかだった。
怒りではない。
拒絶でもない。
ただ、必要なものをすでに受け取った人間の、それだけの静けさだった。
灰衣は何も答えなかった。
その無言が、どこまでも深く、塔の空間に染みわたっていく。
だが──それでも瀬名には分かっていた。
この存在が、どこか自分と繋がっている──そんな感覚が、言葉ではなく直感として胸に宿っていた。
これまでの対話を思い返す。
灰衣が語った言葉、その抉るような問い。
当時は反発したり、戸惑ったりしていた。
けれど今になって思えば、それは誰よりも自分自身の“内なる声”に近かったのではないか。
他人ではなく、自分。
他者の目線ではなく、自らの良心、記者としての核心、そして、何より人として見ようとしなかった部分。
灰衣の存在は、その“無視してきた部分”そのものだったのかもしれない。
瀬名は、ゆっくりと息を吸い、わずかに肩を落とした。
逃げ場のない静けさの中で、ひとつ、深い納得が胸の奥に灯った。
これまで聞かされてきた言葉。
問いかけ。
皮肉にも似た忠告。
すべてが、自分の中にあった“声”だったのではないか──
そんな思いが、静かに広がっていく。
灰衣は、一歩、瀬名に近づいた。
そして、微かに首を傾けた。
その仕草に、確かに“自分と同じ癖”があることに、瀬名は気づいてしまった。
胸が、静かに脈打つ。
だが、怖くはなかった。
灰衣は、ほんのわずかに口元を動かした。
それは言葉ではなかったが、確かに“語りかける”ような気配を持っていた。
──見ろ、と。
瀬名の中に、そんな感覚が流れ込んでくる。
──見たくなかった自分を、最後まで見届けろ。
それは命令ではなく、祈りにも似た誘いだった。
瀬名は、無意識に頷いていた。
けれど、胸の奥ではまだ何かがせめぎ合っていた。
──本当に見ていいのか?
──この“姿”を、自分は受け入れられるのか?
恐れ、羞恥、拒絶。
それでも、そのすべてを抱えてなお、彼は目をそらさなかった。
かつては、他人の痛みから目を背けてきた。
真実に触れるふりをして、核心を避けてきた。
けれど今は違う──
自分の痛み、自分の醜さ、自分の欺瞞。
そのすべてを、ようやく“ひとつの存在”として認める覚悟が、静かに芽生えていた。
そして、灰衣がゆっくりと手を掲げ、フードにかかる布を──
下ろそうとした。
瀬名は、息を呑んだ。
その瞬間、灰の空間に、一筋の“音”が走った。
──それは、椅子の軋む音だった。
ゆっくりと、深く、そして確かな音。
静寂に満ちた空間に、その響きだけが鮮明に刻まれた。
瀬名は、立ち上がっていた。
気づいたときには、もう体が動いていた。
意識して足を動かしたわけではない。
けれど、その音と共に──心のどこかが、決定的に“動いた”のだ。
それはまるで、自らの意志ではなく、積み重ねた“気づき”が彼の背を押したかのようだった。
だが、もう分かっていた。
これ以上“知らない誰か”に向き合う必要はない。
過去に起きたことは変えられない。
だが、その一つひとつにどう向き合い、どう受け止め、どう“伝える”か。
それは、今の自分次第で変えていけるものだ。
瀬名は思った。
これまでの記事には、事実はあっても“人”がいなかった。
心を持つ誰かの痛みや祈りを、自分は記録の外に追いやってきた。
もう、そんな風には書けない。
自分の罪も、他者の傷も、そしてそれを取り巻く曖昧な現実も──
全部を見据えて、それでもなお“言葉にすること”を選ばなくてはならない。
それが、自分に課された最後の試練であり、新たな責任だった。
──今、この先の“記録”だ。
瀬名は、ゆっくりと灰衣に背を向けた。
そして、歩き始めた。
灰の帳の奥へ。
塔の終わりではなく、塔の“外側”へ。
その背中に、灰衣の声が、最後のように囁いた。
「──まだ、お前は“書ける”か?」
瀬名は、振り返らなかった。
ただ、足元の灰を踏みしめながら、前へと進んでいった。
塔は、崩れなかった。
だが、もう彼の背中には、重くのしかかっていなかった。




