洞窟
田中真一は、東京での忙しい日々を一時忘れて、故郷の小さな村に帰ってきた。
祖父が危篤だという知らせを受けての帰省だった。
家を出てから十年、久しぶりに訪れたこの場所は、どこか懐かしく、同時に少し不安な気持ちを抱かせた。祖父の家は村の端にあり、その裏には山道が続いていた。
子供の頃はよくその山道を登り、洞窟探検をして遊んだものだ。
家に着くと、祖父はすでに寝たきりの状態だった。医者は、もう長くないと言っていた。しかし、祖父は目を開けると、真一ににっこりと笑いかけてきた。
その笑顔は、衰弱しているとは思えないほど、温かくて力強かった。
「真一、来てくれたか…」
その一言だけで、真一は胸が締めつけられる思いだった。
祖父はいつも穏やかで、優しい言葉をかけてくれる存在だったが、その日はどこか違った。目の奥に、何か隠された意味があるように感じられた。
「おじいちゃん、無理しないで。すぐにお医者さんが来るから。」
そう言って手を握ると、祖父はゆっくりと目を閉じた。
「…お前に伝えたいことがあるんだ。あの洞窟のことを…」
祖父の言葉が、真一の心に重く響いた。
真一は少し驚いた。
洞窟――祖父が言っているのは、家の裏にある小さな洞窟のことだろうか?
「洞窟?」
祖父はうなずき、かすかな声で続けた。
「お前、覚えてるだろうか…あの洞窟に行ったことを。あそこにはな、何かが住んでいるんだ。」
真一は少し戸惑った。
子供の頃、祖父に連れられてその洞窟に行ったことがあったが、何も変わったことはなかった。小さな洞窟の壁には、奇妙な模様が刻まれていたが、それが何か特別な意味を持っているとは考えたこともなかった。
「おじいちゃん、もう疲れてるんだ。ゆっくり休んで。洞窟のことは後で話そう。」
祖父は、真一がそう言うと、ゆっくりと目を閉じたが、再び開いて、強く真一を見つめた。
「行け、真一。あの洞窟に行け。そして、壁に触れるんだ。お前ならできる。」
祖父の目は、ただの老いぼれた目ではなかった。何かを伝えたくて必死な目だった。それが真一に深く刺さった。
その夜、祖父の眠っている間に、真一は決心した。祖父の言葉を無視するわけにはいかない。明日、祖父が目を覚ます前に、あの洞窟に行ってみよう。
翌朝、真一は家を出ると、裏山に向かった。
山道は荒れており、子供の頃に感じた冒険心はすっかり失われていた。
しかし、祖父の言葉が頭から離れなかった。
洞窟に着くと、そこには何も変わった様子はなかった。
洞窟の入り口は、以前と同じくひんやりとした空気を吐き出している。
真一は足を踏み入れ、少しだけ中に進んだ。薄暗く、湿った空気が鼻を突く。
手で壁を探りながら進むと、突然、冷たい感触が伝わってきた。
壁に触れると、どこかで微かな声が聞こえたような気がした。
「あなたは…?」
驚いて足を止める。耳を澄ますと、確かに声が聞こえてきた。それは人の声とは少し違う、風のような音に混じって、かすかに響いていた。
「…誰?」
真一は声をかけたが、返事はない。壁に触れたまま、さらに一歩進んでみると、突如として目の前に何かが現れた。壁の中に、無数の顔が浮かび上がっていた。それらの顔は、ぼんやりとした輪郭を持ちながらも、まるで生きているかのように動き、真一をじっと見つめていた。
「誰だ…お前たち…」
真一は思わず後ずさりした。しかし、そのとき、一つの顔が開いた口から言葉を発した。
「お前も、もうすぐ来る…」
真一はその言葉に凍りついた。顔が一斉に動き出し、無数の声が耳元でささやく。
「お前も、もうすぐ来る…」
その瞬間、真一は理解した。祖父が言っていた「何か」がこれだ。洞窟の壁に宿った霊たち、あるいはそれ以上の存在が、彼を呼び寄せている。祖父が言いたかったことが、今、明らかになった。
真一はその場から逃げるように洞窟を出た。
外の光がまぶしく感じられ、息が荒くなる。
家に戻ると、祖父はすでに息を引き取っていた。
その顔には安らかな表情が浮かんでおり、まるで何かに導かれるようにして、静かに死を迎えたようだった。
真一は、祖父が最後に言った言葉を反芻した。
「お前も、もうすぐ来る。」
そして、その日から、真一は確信していた。
あの洞窟には、何かが宿っている。
そして、いつか、彼もその「何か」に導かれる日が来るのだと。