あるはずのない交番
この話は、ひとりの男性、浩司が深夜に帰宅途中で遭遇した出来事だ。
浩司は仕事帰り、いつものように夜道を歩いていた。
疲れていたが、道を選ぶ余裕もなく、ただ無心で足を進めていた。
街灯が薄暗く照らす静かな通りを歩いていると、ふと視界の端に何かが見えた。
交番、だったっけ?
ひときわ目立つ白い建物が、道路の端に建っている。
だが、浩司はその交番に見覚えがなかった。
普段から通る道なのに、そこに交番があった記憶は全くない。
気になった浩司は、その交番に近づいてみることにした。
交番というには、あまりにも古びた、そしてどこか不自然な雰囲気を漂わせていた。まるで時代に取り残されたかのように、周りの景観には全く溶け込んでいなかった。
「こんなところに交番があったか…?」
不安な気持ちを抱えつつ、浩司は交番の扉を開けた。
中に入ると、目の前に年老いた警官が座っていた。
彼の顔は見えないが、目だけが不自然に光っていた。
まるで、誰かに見られているような、いや、見られていない方が恐ろしいような、そんな感覚が浩司を包み込んだ。
「おや、こんな夜にどうしたんだい?酔っているのかい?」
警官は淡々と話しかけてきた。
彼の声は異常に冷静で、まるで何も動じていないかのようだ。
浩司は言葉を詰まらせながら、何気なく尋ねた。
「この交番ってここにありましたっけ? ここには、交番はなかったと思うんですけど…」
警官はしばらく無言で浩司を見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。
彼はどこか不自然な動きで、背後の壁を指差した。
「君がそのことを聞いてしまうともう遅いんだ。ここに来るべきじゃなかった。」
その言葉に、浩司は背筋が凍るような感覚を覚えた。
突然、警官の目が無表情に変わり、その周りの空気が一変した。
「この交番には、来るべき時があるんだ。君がそれを感じるべきだった。」
浩司は急にその場を離れたくなった。しかし、足が動かない。
目の前の警官は、どんどん不気味な存在に変わっていった。
彼の周りには、何か不気味な影が集まりつつあるようだった。
「もう、帰らせてください…」
浩司は恐怖に震えながらそう言ったが、警官はゆっくりと歩み寄り、今度は冷たい手で浩司の肩を掴んだ。
「帰れないんだよ、君はここにいることが決まってしまった。」
その瞬間、浩司の目の前が真っ暗になり、気がついた時には交番の中ではなく、知らない場所に立っていた。周囲は完全に静まり返り、気づけば浩司の周りにはもう誰もいなかった。
やがて、浩司は恐る恐る振り返ると、再びあの交番が目の前に立っていた。
そして、警官がそこに立ち、静かに彼を見つめていた。
その警官の目は、もはや人間のものではなかった。
まるで無数の目が集まり、浩司を見つめているような感覚を与える。
浩司はその瞬間、全てを理解した。
この交番は、過去と未来を繋ぐ、裏世界への扉だったのだ。
どんなに探しても、浩司は元の世界には戻れなかった。
そして、次にその道を通った者が、「あるはずのない交番」を目撃するのだろう。
それは、ひとたび足を踏み入れた者が、決して抜け出せない場所だった。