黒い珈琲
東京の片隅にある小さな喫茶店、「カフェ・リバース」
店内には、古い木製の家具が並び、何も特別な装飾は施されていない。
常連客たちはこの店が持つ独特の落ち着いた雰囲気を好んで訪れていたが、店主の田村という男が一つだけ秘密を抱えていることを知る者は少なかった。
田村は年齢不詳、顔に深いシワが刻まれた男性で、いつも無表情で静かに珈琲を淹れていた。珈琲の腕前は確かで、誰もがその深い味わいに驚嘆する。
しかし、彼には一つだけ奇妙な習慣があった。
それは、毎晩閉店後、店の隅にある古びた黒い壺に「特別な珈琲」を注ぐことだった。
ある晩、常連の佐藤がいつものようにカウンターに座っていた。
外は雨が降りしきり、店内の暖かな空気が心地よい。
佐藤は何気なく、いつもと違う珈琲を注文した。
「田村さん、今日はブレンドにしてみようかな。」
田村は静かに頷き、グラスに水を注いでから珈琲を淹れ始めた。
静かな音が響き、やがて香ばしい香りが立ち込める。その瞬間、佐藤はふと、田村が店の隅に置いている黒い壺に目を向けた。
「そういえば、あの壺、何なんですか?」
田村は一瞬手を止め、壺に視線をやった。
「あれですか…」
田村は言葉を選ぶように続けた。
「あれは、昔からここにあったものなんです。実は、特別な珈琲を淹れるために使う壺なんですよ。」
「特別な珈琲?」佐藤は興味津々になった。
「それって、どんな珈琲なんですか?」
田村は微笑んで答えた。
「お客さんには出したことがないんですけど、もし興味があれば、一度だけお試しに淹れてみてもいいですよ。」
佐藤は少し驚いたが、好奇心が勝り、頷いた。
「じゃあ、試してみます。」
田村は静かに壺を取り出し、そこから黒い液体をグラスに注いだ。
その液体は普通の珈琲とは違い、どこか深い光を放っているように見えた。
そして、グラスを佐藤に渡すと、静かに言った。
「これが、あの珈琲です。」
佐藤は手に取ったグラスを見つめ、その黒い液体がまるで深淵のように感じられた。何かしらの不安を覚えながらも、一口飲んでみた。
その瞬間、彼の体が一瞬で凍りつくような感覚に襲われた。
珈琲は驚くほど濃厚で、深い苦味が舌に広がった。
だが、それだけではなかった。
喉を通るとき、まるで冷たい手が内臓を掴むような感覚が広がったのだ。
佐藤は思わず顔を歪め、グラスを置こうとしたが、その手が震えて動かなかった。
「何だ…これ…?」
その時、店内の時計が突然「カチッ」と音を立て、時間が一瞬で止まったかのように感じられた。佐藤は急に目の前が暗くなり、まるで誰かに引き寄せられるように、グラスの中に引き込まれそうな感覚に包まれた。
「お客さん、落ち着いてください。」
田村の声が遠くから聞こえたが、佐藤はその声に応えることができなかった。
目の前の空間が歪み、壁が崩れ、店の中が異世界のように変わり始めた。
まるで、その珈琲が時間と空間をねじ曲げてしまったかのように。
「この珈琲は、ただの珈琲ではありません。」田村の声が次第に近づく。
「飲んだ者は、その瞬間から『別の世界』と繋がってしまうんです。」
佐藤は震える手で、自分の胸に手を当てたが、心臓の鼓動が異常に速くなっているのを感じた。目の前に現れたのは、誰かの顔――だが、見覚えのない、そしてどこか不気味な顔だった。
「あなたは、すでにこの世界にいるわけではないのです。」その顔が語りかける。
目が、じっと佐藤を見つめる。
「この珈琲を飲んだ者は、もう一度この世界に戻ることができません。」
佐藤は必死に目を閉じ、頭を振り払おうとしたが、足元が崩れ、まるでどこか深い闇の中に引き込まれるような感覚が強くなった。
その時、田村の冷たい声が響いた。
「これは試練です。飲んでしまったからには、あなたもその世界の住人として迎え入れられることになる。」
佐藤はその言葉が意味するものを理解したとき、もうすでに遅かった。
彼の体はすっかり動かなくなり、ただ一つ残されたのは、目の前に広がる異世界の景色だけだった。
「カフェ・リバース」に訪れる者は、決して二度と帰ることはない。
特別な珈琲を飲んだ者は、あの黒い壺の中に取り込まれてしまうのだ。
そしてその珈琲が、次の客を待っている…。
閉店後、店の中には静寂だけが残り、壺の中にはまた新たな珈琲が静かに注がれていた。