第6話 大胆な変化
<氷ヶ峰こおり>
屋上カフェをあとにして、エレベーターを出た。
予期していたかのように爺が車の前で立っている。
「爺、お待たせ。出して」
車に乗り込み、爺に告げる。
勢いよく座席に深く沈み込む。
「何かよいことがあった様子ですね」
む。声色で機嫌を読まれた。恥ずかしい。
けれど、私がプライベートで気の許せる爺にまで本心を隠していたら、それはもう悲しくなるほどに、孤独だ。
私の居場所が消えてしまう。
だから、少しだけ内側を見せてみる。
「……竜太郎は、いつも私の欲しい言葉をくれる」
「ホッホ。それは良かったです。コーヒーは美味しかったですか」
そういえばそのつもりで屋上カフェに行ったんだった。
「……飲むの忘れてたわ。でもいい。色々思い出したから」
爺はどこまで分かって連れて行ってくれたのだろう。
「彼は良い男ですな」
爺も何度か竜太郎と会っている。
でも、いい印象を抱いているとは知らなかった。
「うん。私、竜太郎のこと誤解していたかもしれない」
「と言いますと?」
「私が引退して結婚するってなったら、もしかしたら喜ぶかもしれないって少しだけ不安に思ってたの」
「それはまたどうして?」
どうして? うーん……。
あごに手を置いて少し考える。
「だって私、彼に酷いことばかりしてきたから。氷ヶ峰家のこと隠してたり、勝手に事務所で働くように仕向けたり、毎日冷たい態度取ったり……」
「自覚がおありなら、優しくしてあげてはどうですか。本当にいなくなってしまう前に」
爺が言ってくる。笑いを堪えているように感じる。
なんて意地悪なことを言うの。
だって、私はそれ以外のやり方を知らない。
それに何をしてもついてきてくれるから、甘えてしまっていた。
でも、私も素直になる時がきたのかもしれない。
「……まぁ、そうね。正直さっきは痺れたわ。か、かっこよかった」
なぜか唇がとがってしまう。
でも、竜太郎はここまで心を見せてくれた。
ここしばらくの間、険悪なムードも多かったのに、許してくれたんだと思った。
CDの売り上げ三百万枚という、到底到達不可能なミッションにぶつかっても、一緒に戦ってくれると言った。
────屋上で、夕焼けを背にこっちに目を向ける竜太郎を見た時、私は高校時代の学ランを着た竜太郎を幻視していた。
ああ、あの時もこんな夕暮れだったなって。
彼との未来に希望を抱いていた。
でもその夢はもう叶わないんだと思ったら、気づかぬうちに、涙が流れていた。
『何とかしてって言えよ。何とかしてやるからよ』
なのに、竜太郎はそう言った。
諦めていた私と違い、彼はまだ信じてくれていた。
「……心を入れ替えるわ。できるか分からないけど」
「何事も挑戦です」
爺の言葉が染み入るように入ってくる。
挑戦、か。
……うん。不安だけど、彼の気持ちに応えたかった。
「わかった。頑張って変わってみる」
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<犬飼竜太郎>
同時刻、屋上。
氷ヶ峰が立ち去ったあと、俺は四つん這いになって叫んでいた。
酔いもサッパリ消えていた。
「やっちまったああああああああああああ!!!」
俺は、本当に馬鹿だ。
これじゃあマジで氷ヶ峰の犬じゃねぇか!
日和って文句ひとつ言えなかった。
俺って、情けない……泣ける……。
「あれだけ『やっと自由が来たー!』とか言ってたのに」
「解放される喜びを延々と語ってたのは何だったんだ」
「あのセリフどういう意味? つまり一緒に頑張ろう宣言?」
「えー犬飼は口だけ人間のヘタレくん……と」
「残りあと半年は出勤するだけのチンパンジーになるとか言ってたのは幻聴ですか」
「なに? 結局夫婦漫才ですか?」
「ていうか氷ヶ峰さん美しすぎたな~」
「映画のワンシーンかと思ったよ。犬飼くんもよく見ると実はイケ……」
「あーあ! 犬飼くんも結局美人に弱いのか! ……ちょっと幻滅」
「竜太郎ってとっても優しいからね」
「私は優しすぎる男って嫌いですね」
誰が何を言ってるか分からない。顔を上げる気力もなかった。
「お前ら、好き勝手言いやがって……」
「じゃあそろそろ仕事戻るか~。竜はこれからも氷ヶ峰と仲良くやっていくそうだ。みんな集まってくれてありがとう。先輩方も感謝っす」
佐賀がなんかまとめてる。
ま、待て。解散する気か。俺を置いていくな。
「楽しかったよ~。いいもん見れたわ。がんばれよ犬飼」
「トリプルミリオンって何の話? また聞かせてくださいね」
「今から打ち合わせだりぃ~」
「いい息抜きになったな!」
各々が去っていく。ほとんどが仕事に戻るのだろう。
気が付けば日が落ちて、パラソルに付いている電球が煌めくように光っていた。
最終的に残されたのは俺と佐賀と最上。最初の三人だ。
「とにかく、あんまり無理しないでね。ここ数ヵ月の竜太郎って働き方異常だったから」
「そうだぞ竜。みんな建て前は氷ヶ峰さんとの話を聞きに来たって感じだけど、本音じゃお前を心配してたんだ」
「あったかい会社で涙が出るよ……」
まぁ実際それは感じてた。入社当時は散々イジメられたが、今では仲間ばかりいる気がする。素直に有難かった。
「……で、氷ヶ峰さんに言った言葉、どこまでが本心なの?」
最上の問いに、答える。
「わかんねぇよ」
無言で佐賀が肩を叩いてくる。
本当に、わかんねぇ。
ただ、氷ヶ峰は不敵に笑っていた。
明日から、やる気になったあいつに、どんな無理難題を押し付けられるか不安で仕方なかった。
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習性というものは、恐ろしい。
昨日は丸一日の休日を貰ったから、リズムが崩れるかもしれない、とかいっそのこと寝坊してしまいたい、と思ったが、無事定刻に氷ヶ峰邸にタクシーで乗り付けていた。
鋼鉄の扉を壮年の『家令』さん───俺はその言葉を氷ヶ峰に教わるまで知らなかった───が開ける。
「……ん?」
なんか、どえらい美人がこっちに向かって歩いてくる。
知らない人だ。
毎日ここに通ってるのにまだ見たことない人がいたんだなぁとか、まぁこの広大な敷地には色んな人が住んでそうだしな……とか一瞬思った。
しかしすぐ思い直す。だって、どう見ても知ってる顔だった。
いや、だけどあり得ない。
近づいてくるが確信を持てない。
脳がバグを起こしたかのように、認識できない。
なぜなら────。
氷ヶ峰こおりが、あの自慢のロングヘアをばっさり切っていたから。
思わずタクシーから降りて、彼女の前に立つ。
「おはよう」
氷ヶ峰こおりは、何でもない風にいつもの声で言った。
「お、お前……髪、どうしたんだ……」
氷ヶ峰こおりは、俺の問いに、いつもと違う声色で答えた。
「りゅ……犬飼くん、昔ショートカットが好きって言ってたでしょ」