第3話 同期よ聞いてくれ
<犬飼竜太郎>
あいつは何て言ってた？
引退……？
トリプルミリオン達成しなければ結婚……？
あの、氷ヶ峰こおりが、引退して結婚……？
「嘘だろ……」
氷ヶ峰が出て行ったあと、俺は立ち尽くしていた。
床を踏んでる感覚がしない。
そんな俺に立夏さんが座ったまま胡乱げな視線を向けてくる。
相模立花────チーフマネージャーである彼女はいつだって冷静だ。
マネージャーの立場を超えて社長やプロデューサーに真っ向から進言できる数少ない人でもある。
そう思うと、さっきの氷ヶ峰の引退宣言には珍しく狼狽えていたかもしれない。
だが今は落ち着いた声で俺に話しかけてくる。
「氷ヶ峰の話は衝撃的だったが、それは後で考えるとして……犬飼は何の用だったんだ？」
そうだった。
氷ヶ峰に見られた時、思わず隠してしまったが、俺はこれを提出しにきたんだった。
俺は、本能のままに持ってきた退職届を、ぐしゃぐしゃにしてポケットに突っ込んだ。
「いえ……用が、無くなりました」
立夏さんの頭上に「？」が浮かんでいるが仕方ない。
だって、あと半年耐えれば、終わる。
アルバイト時代を含めて二年以上やれたんだ。あと半年くらいどうって事ない。
この俺の精神を削って削ってぺらぺらのフィルムくらいまで薄くしてくれた生活ともさよならだ。
そして、自由になる。
「う、うおお」
「……え、何その顔、怖いよ」
立夏さんがドン引きしている。
しかし、顔がニヤけるのを止められない。
自由、なんて素敵な響き……。
「うおおおおお！！！俺は自由だあああああ！！！」
俺は雄叫びを上げながら事務所を飛び出し、街を走り出した。
────────────────────
一時間後。ここはある寂れたビルの屋上。
少し古びた南国風のパラソルと簡素な椅子の組み合わせが、数か所ある。
俺は事務所を出たあと、自宅近くにあるこの『屋上カフェ』に来ていた。
屋上にあるから、屋上カフェ。安直過ぎるが、実際にその店名なのだ。
高校時代から行きつけの店で、コーヒーが美味い。
見晴らしも良いし穴場で人もほとんど来ないので気に入っていた。
「で、珍しくオレたちを呼んだってことか。この昼間から」
「んー、氷ヶ峰さんが引退？ 許嫁？ 何それ現代の話？ にわかには信じがたい。というか私忙しいんですけど。気軽に呼び出さないで欲しいんですけど」
そう、俺は昔からことある事にこの屋上カフェに色んな仲間を呼びつけた。
お気に入りの場所には、心を許せる仲間がいるとさらに良い。
今日は会社に同期入社した二人。
この二人に俺は先ほどの出来事を掻い摘んで話していた。
「竜、タバコ持ってねぇの」
「だから俺は吸わねぇって」
一人目、こいつは佐賀。
営業マンのくせに金髪に染めていて、ピアスの穴もボコボコ空いている。
どう見ても元不良だがけっこう良い大学を出てる。
気が短いし興味が無い話題は聞く素振りも見せないような奴だが、不思議とウマがあった。
いつもサボってるように見えるが、二年目にして営業成績も良いらしい。
「でも私、竜太郎は文句言いつつも氷ヶ峰さんのこと好きだと思ってた」
「無い無い」
二人目。この子はIT担当の最上ちゃん。
腑に落ちないような顔で背もたれに体重を預けている。
ちなみに俺は最上川って呼んでるがいつも嫌がられる。
彼女はアイドルのブログやSNS関連の仕事を一手に引き受け、その上オンラインサロンなども手広くやっている。
頭の回転も早いし、氷ヶ峰のワガママで俺があいつのブランディングを手伝うとき、いつも助けになってくれる。
佐賀よりもさらに良い大学を出ていて、本来はこんな一端の芸能事務所に就職するような人間ではないのだが、まぁ色々事情があるのだろう。
つまり二人とも大卒の二年目で今の歳は二十三か二十四だ。
高卒入社でまだ二十歳の俺からすれば、同期だが兄や姉のような存在である。
照れくさいから真っすぐ言えないけど、本当にそう思ってる。
「俺は佐賀と最上川のこと、お兄ちゃんやお姉ちゃんだと思ってるんだい……」
わざと少し気持ち悪い口調で言ってみる。
「突然なんだ気持ち悪ぃ。過労でついに狂ったか」
「最近ほんと顔色悪すぎるから心配だよ。あと最上川っていうのやめて」
まぁ反応はそんなもんか。
「……とにかく聞いてくれ。半年後、氷ヶ峰が辞めたら、俺も仕事を辞める……。それで、頼み事がある。何でもいいから次の仕事紹介してくれ！ 俺は学歴も経験もないんだ！」
座りながらではあるけれど、深く深く頭を下げた。
「うーん、どう思う最上」
「まぁ、この業界なら心当たりはあるけど……というか私と、ごにょごにょ」
私と、何だ。ごにょごにょとしか聞こえなかった。
聞こえた範囲で答える。
「嫌。この業界は無理だ。俺は心底嫌気が差してる」
もう芸能界は嫌だ。テレビも捨ててやる。
「何でもいいって言ったじゃん」と最上が小声で拗ねたように唇を尖らせる。
「オレは別にツテねぇな。ていうかお前まだ二十歳なんだし大学でもいけば？ 竜は頭良いだろ」
「うん、それはありだと思う。竜太郎なら東大でもいけるでしょ」
最上は真顔で冗談を言うから笑えない。
佐賀も頷いてる。頷くな。
「いや無理に決まってるだろ……」
飽きたからって俺のこと投げ出さないでくれよ。
しかし大学か……そんな道も確かにあるのはあった。
まともに取り合ってくれない同期は放っておいて、高校時代を回想してしまう。
そう、あれは。────高校二年生の春だった。
昼休みの教室、俺は口うるさい友人の声を聞いていた。
俺はポケットに手を突っ込み、身体を折りたたみながら机にもたれかかっている。
本当はパーカーのフードを被りたいくらい眠かった。
前の席から振り向き、元気に話す友人に、耳だけ向けながら適当に相槌を打っていた。
「おい、それでな、ついにアイドルデビューしたらしいぞ！」
「へー。え、誰が？」
「……誰だったら驚く？」
「別に誰でもそれなりに驚くだろ」
「フハハ、それなりなんてレベルじゃないぞ。くぅ〜。教室で知らないのは遅刻してきた犬飼だけだ。早く言いてぇ〜！」
「はぁ。早く教えろよ。誰がこの片田舎の自称進学校からアイドルになったって？」
「フーハッハッハ、そう焦るでない。それはなぁ……なんと」
その時、教室の扉が、静かに、しかし確かな速さを持って横にスライドした。
カタン、と音が鳴るはずだったが、聞こえなかった。
それを今でも憶えてる。
なぜ聞こえなかったか。
扉を開けた本人に、ゆっくりこちらに入ってくるその人物に。
一目見た瞬間、五感を奪われていたから。
滅多に表情を変えない、氷ヶ峰こおりが、─────満面の笑みで俺を見つめていたから。
セーラー服を纏った彼女は、不自然なほど美しい。
細い手足の肌は血管が透けるほど白くピンクがかっていて────。
普段は完璧な調律の上に成り立つ、繊細な顔が、笑顔によって見たことのない魅力を醸し出していた。
教室が静まり返る。誰もが息を呑んだ。
そして俺の目の前まで来て言い放った。
この瞬間は、今でも目に焼き付いて離れない。
「竜太郎。私、ついにアイドルになったわ」
読んでくれたすべての方にLOVE！！！
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