第26話 妹は終わらない
<春出水桜子>
────春出水桜子は、昔の記憶の夢を見ていた。
身体は今よりもずっと小さく、細い。
薄着で、部屋の隅に座って壁にもたれている。
そう、まだ幼い頃、私は引き取られた親戚の家で息をひそめて生活していた。
本当の親と違ってこの家の親代わりは私のことを子役として活躍する金儲けの道具としか見ていない。
10歳の頃には私はそれを正確に理解していた。
本当の子供ではないのだから、住処を提供してくれるこの家に貢献するべきだと自分に言い聞かせてさえいた。
私は、私が稼いできた額とは裏腹に、自分の好きなものなど何も買ってもらえなかった。
芸能かぶれの母親面する人の言われた通りに身に着けるもの、行動、すべて管理されていた。
そのおかげか、いつしか自分の意志や気力はとても小さなものになっていったように思う。
暗い部屋では、誰かが消し忘れたテレビがついている。
画面に映るそれは、大家族を特集する番組で、にぎやかな生活が映し出されていた。
「わぁ……」
大家族の生活は、それは今でこそ大変なんだろうと分かるが、幼い私にとっては憧れでしかなかった。
笑顔に溢れる食卓や、続けて起こるハプニング、姉妹喧嘩でさえも私の目には魅力的に映った。
無気力な私の瞳に力が戻る。
何より一番いいと思ったのが、その大家族の長男さんだ。
面倒見が良くて、優しくて、涼しい顔して何でもこなす。
弟や妹たちもみんな彼が大好きだとすぐに分かった。
みんなが呼ぶように、私も口に出してみる。
「おにいちゃん……」
胸が、少し暖かくなる気がした。
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「……おにいちゃん」
「どうした? ちゃんとここにいるぞ」
「……!?」
意識が急速に覚醒する。
夢を見ていたのだと、気づいた。
落ち着け、この状況は、なんですか。
横になったまま、首だけでバババッと周りを見渡す。
な、なんかホテルみたいな場所に、犬飼さんと二人……?
私は、春出水桜子、18歳、蒼樹坂の委員長。
蒼樹坂グループ、最後の良心。
大丈夫、大丈夫。はっきりしてる。
「お、起きたか。……熱もだいぶ下がったみたいだな」
「……ひゃ!?」
犬飼さんの大きな手が私のおでこを触ったのが分かった。
だ、大丈夫じゃない!!
ガバっと身体を起こし、現状をしっかり確認する。
ここは、なんかフカフカの大きなソファの上。
隣には犬飼さんが座って膝の上のノートパソコンを触っている。
「わ、わ、私は、こ、こここで寝てたんでしょうか!?」
「あ、はい。……普通に戻ったんですね。桜子……じゃなくて春出水さんは、ここに丸まって寝ていました」
「そ、そういえば、私は……犬飼さんと喫茶店に行って、そこから……」
少しずつ記憶が蘇る。
こおりさんに犬飼さんに話を聞いてきてと言われて。
駅前で彼女と喧嘩してた疑惑があったけど、相手は犬飼さんの妹で……。
妹、で……。
「どうやら兄という存在が恋しかったみたいで。かなり疲れてたみたいですね」
そうだ……犬飼さんのこと、お、おにいちゃんとか呼んで、甘えて……。
ぎゃーーーー!!
「す、すすすいません。私、色々と失礼なことをッ……!!」
「大丈夫ですよ。人には色んな一面がありますからね。猫屋敷さんにもちゃんと説明しておきました。彼女はもう帰りましたが」
そういえばくるみさんも来たような気がする。
徐々に思い出す。
うわーーーー。私は頭を抱える。
犬飼さんは、妹モードが終わって隣でソファに正座している私を興味深そうに私を見てくる。
ていうか妹モードってなに……普通に異常者じゃないですか私!!!
しかし、知らなかった……。こんな自分がいたとは……。
「ていうか私、すごく汗かいてます……」
「けっこう熱ありましたからね……水分補給してシャワー浴びてきてください」
「は、はい……」
犬飼さんからポカリをもらい、飲んだ。
そして、よたよたと風呂場に向かい、服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
汗を流して、少し冷静になると、余計に恥ずかしくなってきた。
勢いよく水が出ているシャワーヘッドを口の近くに持ってきて、声を出す。
「うがばばばばばばあぅあぅあぅーーーーーーーーーーーーーー」
子役をやってた昔から、役に憑依してしまうことはよくあったけど、こういうことは無かった。
さっきまでの私は、思い返すと、なんだか嬉しくて暖かい気持ちになれたけど……。
犬飼さんは迷惑だったろうな……。
「私だけ満足するなんて。な、なにか返さないと……」
人生は、ギブアンドテイクだ。
身体と頭を洗い終わり、体を軽く拭いて、バスタオルを身に着ける。
こおりさんの言葉を思い出す。
『竜太郎はね、とにかくえっち』
そうだ。この前も水着で喜んでくれた。
今日は水着は無いけれど。
少しだけ胸の部分を下げて、谷間を露出させて、決意する。
「………………よし」
そして、リビングルームに向かって大きめの声を出す。
「犬飼さん、ちょっときてください~」
少しして、犬飼さんがバスルームに顔を出した。
いざ見られると、やっぱり恥ずかしい。
私なにやってるんだろう。まだおかしい。変すぎる。
「じゃ、じゃーん。癒されました……?」
「……もう、何やってるんですか春出水さん」
犬飼さんは、一枚ハンドタオルを取り出して、私の肩口から胸元が隠れるようにかけてくれる。
うー、やっぱりだめですか。最初たしかにちらっと私の胸を見たのに。
「お、お礼をしなくちゃと思いまして……」
「はいはい。座ってください。髪、乾かしますよ」
「えぇ!? そんな、いいですいいですっ」
「ほら、病人は座ってください」
肩を軽く押されて鏡の前の椅子に座らされる。
そして、犬飼さんは本当にドライヤーで私の髪を乾かし始めた。
美容室や現場でプロにされるドライヤーとは違って、手つきは少しぎこちない。
でも、それが良かった。
本当に家族にして貰ってるみたいで。
「…………こんなのずるいです」
「なにか言いましたー!?」
ドライヤーで聞こえてない。
私は、聞こえてないことを利用して、つぶやいた。
「……………すきになりそうです」
「んー?」
やっぱり聞こえてない。
犬飼さんはどこか穏やかな表情で髪を乾かし続ける。
妹さんにもこうしてやってあげていたのだろうか。
妹さんと、そして急になぜか、こおりさんも羨ましいと思った。
思ってしまった。
ぶんぶんと頭を振ってその気持ちをかき消す。
私は、犬飼さんとこおりさんのカップリング主義なのです。
私がそんな感情になるなんて、おこがましい。
髪を乾かし終わったあと、服を着てリビングに行くと、すでに犬飼さんが帰る準備をしていた。
「さぁ、帰りますよ」
「はい……お待たせしました」
改めて部屋を見渡す。
あの時は朦朧としていたが、犬飼さんに甘えられた至高の時間が思い出される。
自然と、もう終わってしまうのか、と思ってしまった。
正直言って今日はイレギュラーだ。
普段の私は体調を崩すことは稀だし、犬飼さんも馬鹿じゃないので、私とこういう風に二人きりになる状況はもう作らないだろう。
私だって理性があるし、もうこうならないように反省する。
委員長ですからね。
つまり、もう二度とこの妹モードの私は出てこない。
それが正しくて、当たり前なのに。
いつもなら割り切れるのに。
……どうしようもなく泣きそうになった。
油断してると涙が出てきそうだった。
うつむいて、小さい子どものように唇をかむ。
すると、犬飼さんがこっちに寄ってきた。
「……春出水さん、いや……」
私の頭を優しく抱えるように身体を屈めて、耳元で続ける。
「桜子、いつでも呼んでくれていいからな」
ぅ……うぁ……。だめこれ。だめ……。
耳と顔が熱く燃えてしまいそうだった。
そのまま犬飼さんの胸に控えめにぐりぐりと顔をこすりつけたあと、私はこたえた。
「うん……おにいちゃん」
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<犬飼竜太郎>
次の日の朝方、目を覚ますと、すぐに身体の異常に気付いた。
「完全に風邪だこれ」
声も掠れて出にくい。
身体も熱い。38.5度といったところか。
春出水さんのばっちり貰ったな。
ぼーっとする頭を無理やり起こして机の引き出しを開き、ロキソニンを手に取る。
いつものようにそれを水で流し込もうとして、止める。
「そういえば、俺って今胃に穴空いてるんだったな……」
そう、あれはまだ氷ヶ峰が独断独走状態だった少し前のこと。
俺が退職届を書くより前の話だ。
俺は激務に耐えられず下血や嘔吐が続く日があった。
それをチーフの立夏さんに相談すると無理やり胃カメラの予約を取られ、氷ヶ峰に内緒で診察にいった。
結果は胃潰瘍、十二指腸潰瘍。合計四つの穴が開いていた。
思わず乾いた笑いが漏れたのを覚えている。
幸い即手術とはならず、内服で様子見となったが……。
もちろん胃にダメージを与えるロキソニンなどの鎮痛剤の服用は厳禁となっていた。
……あれからまだ一月も経っていない。
症状は改善されたが薬はいまだ飲み続けている。
少し考え、スマホを開く。
あて先は、氷ヶ峰こおり。
……まぁ、望み薄だが、休めるか聞いてみよう。
犬飼【朝早くすまない。現在熱がある。鎮痛剤を飲めば出社できるが、もし可能なら大事をとって休みたい。氷ヶ峰さんの予定は~~~~】
スマホを閉じ、どちらにしても後一時間はしっかり寝ようとしたが、返信が来た。
氷ヶ峰【お大事にしてください】
淡白な返信。早いな。
寝起きの氷ヶ峰は超低血圧で誰よりも機嫌が悪い。
俺がそれを一番よく知っていた。
「……こりゃ怒ってるなぁ。どっちだ? 行けばいいのか?」
わかんねぇ。この二択を外すとしばらく面倒だ。
ロキソニンに手を伸ばす。
まぁ飲むか。一回くらい大丈夫だろ。もってくれ俺の胃よ。
「……お?」
と、思ったら追撃メッセージが来た。
氷ヶ峰【大人しく寝てなさい。お昼ごろ、お見舞いにいくので】
お、おお……マジかよ。




