第10話 昔みたいに
<犬飼竜太郎>
「……竜太郎、いつもありがとう」
耳元から氷ヶ峰の声が聞こえる。
(こえーーーーーーーーーーーーよ!!!)
こいつ、どういうつもりなんだ。
俺は、正直言って、今日ずっと恐怖のようなものを感じていた。
今はぎこちない手つきで前髪を触られている。
まな板の鯉とはこの事か、と実感を伴った感情になっていた。
この高級感あふれる個室の岩盤浴、俺はもちろん初めて入ったが全然楽しめていなかった。
肌寒い外と比べてここはぽかぽかして、ただ暑すぎず、居心地は良いのに。
いつ「不純異性交遊!! 死刑執行!!!」とか言って氷ヶ峰家の手がかかった者が乱入してくるか気が気じゃなかった。
……いや、分かってる。
『反省してるの。だからおもてなししたい』
氷ヶ峰が精一杯おもてなしとやらをしようとしてるのは……分かる。
美容院代も払ってくれたしな。
それに、今日何度となく歯切れの悪い申し訳なさそうな顔をしていた氷ヶ峰を思い返す。
俺に気を使ってるのが分かった。
ただ、この二年で俺の身体に沁みついた氷ヶ峰に対する危機察知センサーは、すぐ解除できるようなものではなかった。
前髪を触り続ける氷ヶ峰は、今どんな顔をしているんだろうか。
目を閉じている俺には窺い知れない。
というか……こういうのって普通ぱっぱって軽く払うの一往復くらいじゃないの?
何で三分くらい続けてんの?
いい加減飽きないの?
俺はなぜかフミフミを始めたら一生止めてくれない実家の猫を思い出していた。
「うぅん」
これ以上耐えられないと思い、わざとらしい寝言を呟く演技をする。
そして身体を仰向けから氷ヶ峰と逆方向に横向けた。
氷ヶ峰がおっかなびっくりして手を離したのが分かった。
「……むー」
むーって何だ? 怒った? 怒ったのか?
機嫌損ねたか?
狸寝入りを解除するタイミングか迷う。
逡巡する俺をさらに怖がらせるように、氷ヶ峰が立ち上がったのが分かった。
俺は気配に敏感なんだ。
目を閉じていても分かる。
(……やられる─────!!)
思い切って目を開けようとした瞬間、ふわっと良い香りがした。
ん……?
恐る恐る薄目を開けてみる。
今日は驚きの連続だったが、その中でも今この瞬間、一位を更新した。
───────俺の胸元に、横になった氷ヶ峰がすっぽり収まっていた。
氷河系と言われた、こいつが。
ああ、冷たくない、ぬくもりがある。
何かもう、そんなことしか考えられなかった。
氷ヶ峰は、俺の腕枕にしてない方の手を取って自分の背に巻き付ける。
そして胸板におでこを押し付けてくる。
ぱちぱちと開いたり閉じたりするまつ毛がくすぐったかった。
「……んふふ」
機嫌の良い囁き声が聞こえた。
俺からは、形の良い後頭部しか見えないが、氷ヶ峰が満足気な表情をしている気がした。
そうだと良いなと思った。
そのあと。
俺と氷ヶ峰はお互い数十分ほど眠り、どちらともなく目を覚ました。
起きた氷ヶ峰は慌てて俺についた自分の涎を涙目で拭いたりしていた。
そんな彼女を見ながら────俺は、少し眠れたからか、氷ヶ峰に対する恐怖が薄れていくのを感じていた。
改めて氷ヶ峰を見ると、ガウンが薄すぎて目に毒だった。
今日は猫屋敷くるみの胸元を見たり、それに負けない大きさの氷ヶ峰のを見たり。
ラッキーな役得が多いな。
そんなことを考えながら、少しの気まずさを振り払うようにそそくさと施設を出た。
外は陽が落ち始め、雲が紫色になっている。
道を歩きながら氷ヶ峰が俺に話しかける。
「デートってあと何すれば良いのかしら。まだ時間あるわよね。犬飼くんが良ければ、その、私は」
「もう十分じゃないか。昔みたいに、だろ?」
俺はちゃんと、氷ヶ峰の言葉を正確に憶えていた。
『……ちょっとデートしようよ、昔みたいに』
確かにそう言った氷ヶ峰こおりは、自分が言ったくせに、少し不満そうに唇を尖らせた。
俺はそれを見て薄く笑う。
氷ヶ峰もつられて笑った。
高校時代、ただ一緒にいるのが楽しかったあの頃が、ちょっとだけ蘇ったような気がした。
単純な俺はこんな日がたまにあるなら、もう少し仕事も頑張れる気がするな、と思った。
同時に、そういえば俺────退職届どこやったっけとふと考えていた。
────────────────────
<???>
ここが蒼樹坂の事務所かぁ。
僕のところに比べると小さいなぁ。
周囲をキョロキョロと見まわす。
自社ビルだっていうから少しは期待したけどこんなものかと正直思った。
フカフカの長椅子に深く腰掛け、足を組む
……ん、座り心地は結構良いかも。
あとで注文しようかな。
いや、金払うからウチまで運んで~って目の前の人に言ったらどんな顔するかな。
とりとめのない散漫な思考を欠伸をしながら垂れ流す。
……早くしてくんないかな~。
僕はずっと回答を待っていた。
対面に座る、蒼樹坂の社長だという中年のオッサンに向けてイライラしながら言葉を投げる。
「────で、どうすか? 良い話だと思うけど」
「す、すみません。こちらとしては有難いのですが、本当に良いのですか?」
お、やっと乗ってきた。
まぁ分かるよ。何で? て思うよね。
「うん。良いよ。その代わり条件があります」
「……何でしょうか」
僕がいきなりアポなしで来てから動揺しっぱなしだった表情がピッと張りつめた。
なんかゆるキャラのクマみたいなオッサンなのに、さすがに社長か。
でも能力は関係ない。
ただ意味を理解して、承諾してくれれば良い。
「僕が曲を作るのは氷ヶ峰こおりのため。……だから、彼女との仲を取り持って欲しい。やり方は任せるよ」
「それは……」
「|SUN LIGHT UP────国内最大の男性アイドルグループ────で百万枚連発の専属ヒットメイカーである、僕のこと知ってるよね?」
「それはもう重々承知ですが……」
「とにかく、その若き天才の僕が、恋々坂ではなく蒼樹坂に曲作るって言ってんの」
つい先日、僕が女性アイドル最大手の恋々坂に曲を提供するというニュースが出て話題になった。
恋々坂に追いつけ追い越せポジションの蒼樹坂の人間は全員歯噛みして悔しがったはずだ。
それが、今こうして交渉の場が開かれ、夢のような逆転の目が出ている。
社長は頷く以外の選択肢はない。
手癖の悪い僕は、机の下でさっき手に入れた面白い書類を弄んでいる。
汗をかくオッサン社長を見ながら、僕は思っていた。
あー早く会いたいよ。
氷ヶ峰こおり。
─────────僕、霧島凛空の許嫁の君に。
<???>→<霧島凛空>
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何卒m(__)m




