第三章 理解しえぬ憎悪(3)
揚陸艇から脱出ポッドが射出されたのは分かっていたが、サファイアは敢えて無視をした。
おそらくあれには、クリスタルを狙っている当の本人である、あの老人が乗っている筈だと、彼女にも分かっていたし、彼とは決着をつけなければならない理由が彼女にはあったのだが、サファイアはクリスタルの救出を優先した。
もっとも、直接、救出するのは自分の役目ではないとも考えていた。首尾よくロルゥンがクリスタルを車両用デッキから助けている筈で、車両用デッキが開いたことで、アルバートが小型艇から揚陸艇に乗り移れる準備ができたということだ。あとは、アルバートの技量に任せればいい。困難な救助だが、彼は、間違いなくやり遂げるだろう。
彼女が乗っているのは、ロルゥン達が乗っているのよりも大きな工作艇で、今やアームでがっちりと揚陸艇を捕獲していた。ヴォイド・ビジョン内に、まだ残っていた工作艇があるのを見つけ、拝借したものであった。サファイアのやり方は、基本的に何処か無責任で荒っぽい。それは彼女がそういう風に捻じ曲げられて造られたからだと、彼女自身は思っている。
クリスタルであれば、他人の手の袋からバーガーを盗むような意地汚い真似は絶対にしないし、他人の冷蔵庫を漁るような浅ましい真似もしない。サファイアには、クリスタルと同じように行儀良くはできないし、破壊的、暴力的で刹那的な行動に走るのは、ついぞ直らなかったと自虐する。あとになってもっと安全でスマートなやり方があった筈だと自己嫌悪に陥るのは分かっているのに、いざそういう場になると、決まって直情的で考えなしの行動に踏み切ってしまう。いつだってそうであった。
『相対速度を合わせる。進路を直進コースで固定してくれ』
アルバートからの通信が入る。彼が乗るユーグの小型艇からだ。既に、アルバートは小型艇を揚陸艇の真後ろにつける為のコースに乗せていた。
「了解しました。よろしくお願いします」
サファイアはとりとめのない自虐を止め、現実に意識を戻した。自分のこれまでを振り返ったのは、クリスタルの救出を優先し、あの老人を見逃したことが、自分の破滅に繋がるのだと悟ったからであった。あの男が、これで引き下がるとは、思えなかった。
「クリスタルはかなり破損が酷い筈です。回収後、ブルー・オービットに運びましょう」
アルバートには、予め告げておく。自分がそこまで戻ることはない。その確信からであった。今話しておかなければ、きっと彼等は、そのあとどうしていいか分からなくなってしまう。
「クリスタルのボディーの修理も可能な、メンテナンスルームがあります。念のために、場所は、今、送っておきます」
通信で伝えてから、ブルー・オービットのメンテナンスルームの場所情報を送信する。あとはアルバートが何とかしてくれるだろう。そちらは心配ない。
「あとはロルゥンですね」
どう説明して良いやら。彼についてはここからが問題だ。自分が手を貸す必要があるのか、それとも彼の自主性にすべて任せておけばいいのか、そもそも、彼のこれからの動きが、果たしてクリスタルの未来にも影響するのか。それはサファイアにも分からないことであった。分かっているのは、ただ、彼もまた、ここで死ぬ筈ではないことだけが確実だということであった。
「エメラルド」
と、かつてクリスタルがそう呼ばれていた名を呟く。しかしその意味する響きは、かつてのクリスタルを呼ぶものではなかった。
「大丈夫です。彼も、ちゃんとあなたの所に現れるように、ここで命を落とすことがないように、動いてくれています」
サファイアは、ロルゥンのことも知っている。彼がどういう経緯で、そういう立場になるのかは分からない。だが、確かに彼は、クレイン博士達が、改めて造り上げた、今度こそ正真正銘の彼等のエメラルドを連れて、クリスタルに会いに来るのだ。だから彼はここでは死んではいけない人物なのだと、サファイアは知っていた。
「一緒にロルゥンという男がいる筈です。カラドニスです。彼も一緒に回収をお願いします」
一応、それだけは、アルバートに伝えておいた。言わなくても、アルバートはおそらくロルゥンを置き去りにはしないだろうが。そんなことをするような人物であれば、ユーグの総司令官などやっていない筈だ。
「了解した。船内に他には誰もいないのか?」
アルバートは、むしろ、そう聞いてくるくらいの人物だ。予想通りの質問が返ってきて、サファイアは少しだけ可笑しくなった。思わず、笑いが漏れる。
「スキャンした限りいません。クリスタルとロルゥンを回収できれば大丈夫です」
『……脱出ポッドが射出されて行ったようだが、あれは回収しなくて良いのか?』
気付いていたらしい。アルバートは何かあると気付いているような声色で、確かめるように言った。
「あれがクリスタルを狙っている、張本人です。クリスタルと一緒に回収したいですか?」
少し意地悪く聞いてみた。困らせたかったわけではないが、サファイアは、そういうところがあった。
『君はクリスタルではないのだな』
納得したように、アルバートが答えの代わりに告げた。彼の声はやや残念そうであったが、サファイアはむしろ、それが嬉しかった。
「そうです。私はサファイアです」
もう一度、名乗る。彼女はクリスタルでは、決してない。
アルバートの小型艇が、ピタリとその鼻っ面だけを毟り取られた車両用ハッチに突っ込ませて揚陸艇と速度を合わせたのが確認できた。ぶつけてもいない。揚陸艇と小型艇が離れてしまわないようにする、連結ワイヤーが撃ち込まれた。良い腕だと、サファイアは分かっていたように笑みを零した。
小型艇の緊急用前面ハッチが開く。アルバートは既に真空空間用の救助服を着ていた。宇宙空間で姿勢制御ができるよう、各所にガス噴射ノズルがついているものだ。ユーグでは、制式採用されており、すべての救助艦、小型艇に用意されている。彼は揚陸艇の車両用デッキに入り込んでいき、フックから外れて漂っているマイクを手に取ったのが、スキャン画像で分かった。不測の事態に千切れないくらいには、マイクの線は頑丈にできている。船内から一気に空気が抜ける時の突風に耐えられるのかの試験もあり、そういった耐久試験にクリアしたものだけが、宇宙船に搭載可能の認定を受けられるのだ。だから、マイクが無事であったことには、アルバートも驚かなかっただろうし、サファイアも驚きはなかった。
エアロックを開けて良いかの確認を、船内にしているのであろう。救助に慣れている証拠で、ブランクを感じさせない冷静さであった。船内の減圧が可能であれば、減圧してからでないと、エアロックを開けてはならない。そうでない場合、船内の安全を確保する対処が必要になるのである。その為の簡易エアロックキットが、救助服には収納されている。ガスで膨らんで、空気の減圧、加圧がある程度できる装備だ。基本的に使い捨てであり、一度使用したら、その場に放置する。風船のように膨らむものと聞くと、あたりに漂う破片などで裂けて破損するのではないかと思う者もいるかもしれないが、そのリスクが考慮されていない筈もない。破片などで破損したり、浮遊物の衝突で変形などが起こらないよう、素材、設計両面で対策されており、おいそれとは壊れないように工夫もされている。基本的に危険で過酷な状況でしか使用されないものなのだから、やりすぎな程に安全は徹底されているのである。
アルバートはすぐにはエアロックのドアを開けずに、待機に入った。おそらくは、船内の減圧待ちであろう。ということは、ロルゥンやクリスタルも、船外活動用、非常用の宇宙服を着込んでいることであろう。救出がうまくいきそうで、サファイアは、肩の荷がひとつ降りたような気分になった。
だが、警戒は怠らない。今奪取ポッドが戻ってきて、あの老人が、脱出ポッドを揚陸艇等にぶつける狂気に走ろうものなら、皆が危険に晒される状況でもある。周辺宙域の警戒をしなければならなかった。
レーダーには、今のところ、それらしい反応に接近する素振りはない。脱出ポッドは射出されると自動的に救難信号を発信するようになっていて、止めることはできない。見落とす心配もなかった。
あれに乗っていれば。
ふと、そんな考えが浮かんだことで、自分のその根拠のない仮定に戦慄し、僅かにコックピットシートから腰を浮かした。何故そんなことを思い当たったのかは分からないが、もし乗っていないなら揚陸艇の船内をスキャンした結果にその姿が投影されない筈がない、馬鹿な考えであることは明らかだった。サファイアは船内に隠れているのであれば、投影されないことはあり得ないと、それを馬鹿な気の迷いとして、振り払った。
救出は順調に進んでいるようだ。アルバートが再びマイクで誰かと話している。おそらく相手はロルゥンであろう。
今のところ懸念要素はない。サファイアは深く腰を落ち着け直し、謂れのない不安が消えない自分の思考を、冷まさせた。