第三章 理解しえぬ憎悪(2)
しかし、結局、老人の方が姿を見せることはなかった。
『どうした、自分でやってみろ。さてはお前、そいつが怖いんだろう。情けないジジイだ』
ロルゥンの煽る声が聞こえた。まさかこんな中で反逆し、争うつもりなのかとクリスタルは頭の中で震え上がったが、だからといってそれを止める為に、自分に何ができるのかと考えると、考えの中に浮かぶのは無力感しかなかった。
話を聞いてくれるようなひとたちではないだろう。言葉では止められない、実力行使はしたくない、そんなクリスタルが、ここで出来ることがあるとすれば、普通に考えれば、大人しくしていることだけである。それでも、クリスタルは、言葉が話せるうちは、分かってくれないと自分が諦めてしまうまで、訴えるしかないのだと考えた。
左腕はなく、足元は不確かでいうことを聞いてくれない。それでもなんとか苦労して、クリスタルはエアロックのドアの傍まで行き、力が満足に入らない右手で、マイクを取った。
「何故こんなことをするのか、何故あんなにたくさんの人を巻き込んだのか、それだけ教えてください」
クリスタルは、マイクに向かって、問いかけた。老人の姿は見ていないのと同じだし、ロルゥンが何者なのかも分からない。彼等が何故クリスタルを捕えようとしたのか、憎んでいるのであればなぜすぐに破壊しないのか、クリスタルには理解できないことだらけであった。
『……答えてやれよ』
ロルゥンは答えず、自分はクリスタルに対する回答を放り投げた。クリスタルからすれば、そう感じられる態度であったが、その実、彼もその問いに対する回答は、持ち合わせていなかった。
『いや待て。クリスタル。床に伏せていろ。今すぐだ。でないとバラバラになるぞ!』
その声色が急に変わる。焦ったような、信じられないと言いたそうな、酷く取り乱した口調であった。
誤魔化しや嘘ではないと、クリスタルも思った。だからマイクを離し、言うことを聞かない体をなんとか動かし、床に突っ伏した。その次の瞬間、クリスタルの体が、跳ね飛んだように半分宙に浮いた。航宙艦同士が衝突した時ほどの衝撃ではなかったが、体の中で幾つかのパーツが外れてしまったことが感じられた。
『そこまですんのかよ!』
ロルゥンの声がスピーカーから響く。
今度は酷い振動が、揚陸艇全体を揺るがした。何が起きているのかは分からないが、また何か別の飛行体が接触してきたのだろうということだけは、クリスタルにも想像できた。
相対速度を合わせているのかもしれない。揚陸艇の飛行速度が変わったようには思えなかったし、かといって何事も起きていない振動ではなかった。
天井面の向こうから、がりがりと擦れるような音も聞こえている。それは即ち、同じ速度で飛行している物体が、衝突するのでなく、真上に張り付こうとしている状況であった。
背後から凄まじい破砕音が聞こえてくる。何者かが、無理矢理外から車両用ハッチを開けようとしているのだ。しかし待ってほしい。自分はそこにいるのだ。クリスタルは悟った。ここにいたら宇宙空間に吸い出されてしまう。だが、なんということか。クリスタルはもう立てなかった。左足が動かない。起き上がることができなかった。
『おい』
ロルゥンもそのことに気付いたようだ。短く慌てた声がして、ドアの向こうを、走ってくる音が聞こえた。
エアロックのドアが開く。ロルゥンが現れて、手を差し出してきた。
「捕まれ」
と。クリスタルはもがくようにして、右手を伸ばし、その腕を掴んだ。引き上げようとしてくれるが、クリスタルは重い。彼ひとりの力だけでは引きずり上げて立たせるのは不可能だ。クリスタルはまだ動く右足をばたつかせて、なんとか、床を踏むことに成功した。ロルゥンの腕を掴んだ右手を頼りに、なんとか起き上がる。立ち上がることはできなかったが、なんとか、エアロックのドアの向こうの通路に、転がり入ることはできた。
「畜生、何がクリスタルを通路に入れろだ」
悪態をつき、ロルゥンがドアを閉める。間一髪、直後にバリバリと車両用のハッチが破壊される音と振動が響いた。
「おせーんだバカ。やる前に言え」
「どうなるんですかこれ。これからどうするんですか」
問題はそれだと、クリスタルは疑問を口にするが、ロルゥンが答えられるはずもない。車両格納庫から轟々と響く突風の音に負けじと、ロルゥンは言い返した。
「俺に聞くな」
と答えるのが精一杯であった。老人は通路に現れない。途中に部屋があり、そこにいるのだろうということは分かったが、ドアが開く気配もなかった。
やがて、エアロックのドアの向こうから聞こえる地獄のような突風の音が静かになる。格納庫内の空気がなくなったのだ。
「宇宙服ってないんですか?」
クリスタルがロルゥンに聞くと、言いたいことが分かったように頷いた。
「それならある。立てるか?」
肩を貸し、クリスタルを立たせる。今回はゆっくりでいい。だが、一つ問題はあった。
「ジジイがいる部屋の中にある。普通に考えたら対決は避けられん。我慢できるか?」
最早、反抗の意志を隠しもしない。ロルゥンは、老人を裏切り、仕事を降りるのであれば、今しかないと腹を決めていた。
「……どうでしょう。今この瞬間が、既に現実感がないんです」
左腕はなく、左脚部も動かない。今でもシステムはエラーを報告し続けていて、今にもばらばらになってしまうのではないかと、自分の体が頼りない。覚悟はしていたものの、実際に暴力と危険に晒されたクリスタルは、現実をどう受け止めて良いのか、処理できないでいた。
「私は、壊れるんでしょうか。今にも動けなくなりそうで怖いです」
「今壊れられちゃこまる。もうちょいだけがんばれ。少なくとも上の奴に乗り換えるまで」
言い方が、グロッドに似ていると、クリスタルは思った。だが、グロッドよりもぶっきらぼうで、声色も低い。ロルゥンは背が高く、クリスタルが凭れ掛かりながら顔を見上げると、失われた彼の右目と、顔の右側の大きな傷跡がチラチラと見えた。
「酷い傷です。昔、たいへんな思いを、きっとしたんですね」
「まあ、ろくな人生じゃなかったのは間違いない」
笑い。ロルゥンはそれきり話を切り上げるように、声色を変えた。
「こうしていても埒が明かん。行くぞ。腹をくくれ」
いいな、とは言わなかった。それが彼の流儀なのだろう。クリスタルは軋む首の関節を動かして、頷いた。
ロルゥンは、その動作を、待ってはいなかった。クリスタルが頷こうが頷くまいが同じことで、その部屋に入る以外に助かる道はないのだというように、クリスタルの脇に手を回して、引きずるように歩いた。
クリスタルには左腕がなく、右腕でロルゥンの肩を掴んで寄りかかるしかない。脚部も右足だけしか動かず、歩こうとすると酷くバランスが悪かったが、自分で満足に移動できる筈もなく、ロルゥンに甘えるほかなかった。一歩一歩右足だけを動かして進むと、振動が体を繰り返し突き抜けるようで、その度に、頭に響くエラーの間に、警告が混じった。
それでも、やや時間を掛け、ドアに辿り着く。ロルゥンが開いた手で開閉ボタンを押し、ドアを開けると、果たして、中は無人であった。
「クソッ、あいつ」
と、ロルゥンが毒づく。
「ここは下に降りられる。下にあるのは、緊急時の脱出ポッドだ」
そうクリスタルに説明してから、彼は大きな舌打ちをした。
「つまり、一人だけ、逃げやがった」
無人ということはそういうことであった。それならばもう遠慮はいらない。どうせ報酬を払うつもりがあったのかも怪しい限りである。ロルゥンは心置きなく仕事を降りることに、決めた。
しかし、おかげで面倒が増えたのも確かである。クリスタルを抱え込み、ユーグの手に引き渡すまで、自分が面倒を見ることになると理解していた。途中で置いて行くくらいなら、最初から危険を冒して車両用デッキから通路に引きずりこまなかった。そうすることが、自分も生き残ることに繋がるのであろうと考えた。
『ここで死んではならない』
そのメッセージのことは、ロルゥンの脳裏に、ずっとこびりついていた。
さあ俺は“船”を降りたぞ。彼は、メッセージを送りつけてきた、誰なのかも分からぬ何者かに、頭の中で宣言したのであった。
賽の目がどう転ぶかは、彼にもまだ、分からない。