第三章 理解しえぬ憎悪(1)
電磁ショックによる機能障害は、一時的なものに過ぎなかった。クリスタルの制御機構はやがてその混乱から抜け出し、再起動を果たす。彼女は自分が金属的な材質の床に転がされていることに気付き、起き上がった。
立ち上がることは何とかできたが、その途中、彼女は何度もよろけた。ボディーの破損はますます進んでいて、最早歩行困難に陥る一歩手前の状態であった。
周囲には誰もいない。車輪止めが床にあるそのスペースは、車両を格納する為のデッキなのだろうと思えた。もっとも、車両は止まっていない。
その向こうにドアがある。頑丈そうな金属製のドアだ。その分厚さから見て、エアロックも兼ねているのだろうと思えた。センサーが破損していて、そのデッキの室温は分からない。寒さ熱さを感じる機能も、麻痺してしまっているようであった。
『クリスタルが再起動した。なんとかしろ』
機内のスピーカーから、横柄な老人の声が響く。クリスタルに電磁ショックを加えた老人の声である。自分で昏倒させられる割に、随分他力本願なことだと、クリスタルには思えた。
『自分でやれよ』
別の男が言い返す声がスピーカーから漏れ、だが、しばらくするとエアロックのドアが開き、カラドニスの男が姿を見せた。クリスタルはまだ名前を知らないが、ロルゥンである。揚陸艇は飛行を続けている自動操縦に切り替えだのだろうことは、クリスタルにも理解できた。
彼はクリスタルが立っているのを見て、何とも言えない表情でエアロックのドアを閉め、その傍にあるマイクを手にした。
「確認した。が、俺にどうしろって? 分解する工具もないぜ?」
『壁にあるだろう。それを使え』
老人は答えるが、壁に工具などない。あるのは――
最先端の素材技術を駆使して造られた、だが、あまりにも原始的な、障害物破砕用の、手斧だけであった。片刃で、反対側が、ハンマーになっている。
「手足でも叩き折れってか? こいつは人の力で壊せるのか?」
呆れたように、ロルゥンが聞き返す。あるいは、彼が聞いていた、ク・デの技術で造られたボディーということが真実であれば、カラドニス一人の力で粉砕できる強度をしていないと考えるのは当然のことであった。
『もうすでに破損している。今なら壊せる』
そんな無慈悲な言葉が返ってくる。ロルゥンはマイクをオフにし、
「なら壊す必要ねえだろ」
と悪態をつくのが聞こえた。彼はクリスタルを一瞬だけ流し見て、それからマイクを再度オンにした。
「俺には暴れるような奴には見えないんだが」
当然である。暴れようにも、今のクリスタルの状態では自壊するだけであったし、そも、万全の状態であったとしても、クリスタルには人間相手に暴れるなど、考えたくもないことであった。ロルゥンの評価は正しかったが、老人はそれでは納得しないようであった。
『信用できるものか。安全の為だ。やれ』
ロルゥンは諦めて、マイクを壁に戻した。軽く舌打ちをする。忌々しげにため息をつきながら、クリスタルを振り返った。
「だそうだ。お前に恨みはないが、これも仕事だ。まあ、諦めてくれ」
そう言って、壁に掛かった手斧を取った。思ったより軽いことに驚いた風に、彼は何度か素振りをした。そして、デッキの中を見回す。彼は、車輪止めがある脇に、本来は車両のメンテナンス道具の保管や、微細なパーツのメンテナンスを行う為であろうデスクに目を向けた。
「デスクの前に行け。両腕をデスクの上に置け」
クリスタルには、従う以外の選択肢はなかった。これ以上サ・ジャラに貰ったボディーが傷つけられることを考えると、今すぐ逃げ出したい気分であったが、逃げだせる場所など、何処にもなかった。
「はい」
クリスタルは足を引きずるように移動し、右腕で左腕を持って、机の上に投げ出してから、右腕もその隣に投げ出した。左腕の肩の関節は既に噛みあっておらず、回らなくなっていたのだ。そのあまりにも痛々しい姿に、ロルゥンは顔を思い切り顰めた。
「折るまでもねえじゃねえかよ」
また悪態が口をついて漏れた。クリスタルはそれを無表情で眺めた。何も感じなかったわけではないのだが、表情を作る為のシグナルが、電磁ショックで完全に壊れてしまったらしく、作動しなくなっていた。
「どうぞ」
どうせ抗っても勝ち目はなく、万が一にも勝ち目があったとしても、自分が勝つためには目の前のカラドニスを傷つけなければならない。それがクリスタルには許容できない以上、彼女には彼の意志に任せる以外なかった。
「仕方ないか」
カラドニスは頷き。それから、何処かで盗み聞きされているとでも言いたげな程の小声で、クリスタルに囁きかけた。
「俺はロルゥンという。悪いが今は奴の言う通りやるしかない。中枢は傷つけないようにする。我慢してくれ」
ロルゥンの声は微かで、壊れかけたクリスタルの聴音機能ではひどく聞き取りにくかったが、それでも何とか、彼女にも何と言われたのかは理解できた。
「ごめんなさい、うまく隠れられなくて」
多分、通路で暗号文のメッセージを送って来たのも、彼なのだろうと、クリスタルは想像した。彼の警告通り、すぐに言われたドアに隠れることができていたら、こんな真似をさせずに済んだのかもしれない。クリスタルは申し訳ない思いでいっぱいだった。
「それはいい。俺が遅すぎた」
ロルゥンが斧を振り上げる。相手は機械だ。痛みなどない筈だ。腕の一本でも折っておかなければ、あの老人に裏切りを疑われる。今はまだ、出し抜ける状況ではなかった。
「すまん」
というひと声と共に。
彼の手に握られた手斧は、もともともう満足に動いていなかったクリスタルの左腕に振り下ろされた。それでも内部の通電はしている。つまり、双方向の電気的な信号は、まだ健在である。頭の中を殴りつけられた程のエラーの洪水でクリスタルの思考を塗りつぶしながら、左腕は、肘から先で裂けてなくなった。手斧の刃が当たった部分にあるセンサー類などの微細なパーツが飛び散り、折れて飛んで行った左腕は、その運動速度に耐えきれなかったように空中分解を起こした。
「うう、あ」
クリスタルが呻く。塊となって押し寄せるエラーと警告の渦を、クリスタルは、痛みだと思った。そしてそれは、サ・ジャラに貰ったボディーを大切にできなかった自分への罰なのかもしれないと感じた。だから、さらに呻きそうになる自分を堪え、溢れるエラーの波に抗った。
「お前……痛みを感じるっていうのか?」
その様子は、明らかに失神を堪える生物さながらで、ロルゥンは、謝って自分は機械でない何かの腕を斬り落としたのではないかという錯覚に襲われた。
「……大丈夫ですっ。……あなたの身の安全の為に……すべきことを……してください」
クリスタルは、頭の中を埋め尽くすエラーで、うまく声を出せないながらに、ロルゥンに答えた。自分も生命体ではあっても、自分はやはり機械で。機械を案じて人が危険に晒されることはあってはならないと、信じることは変えられなかった。自分の身が粉々になろうと、ロルゥンが殺されるようなことになるくらいであれば、我慢もできる。その逆は、絶対に、耐えられる気がしなかった。
『さっさとすべて切り落とせ』
だが、老人だけは、何も思っていないかのように、スピーカー越しで冷たく言い放つ。
「こいつよりよっぽど機械みたいな奴だ」
ロルゥンが悪態をつくのが、また、聞こえた。それでも、彼が、やらなければならないことには変わらない。ロルゥンはもう一度手斧を振り上げて、しばらく躊躇った。
「怪しまれる……前に……やってください」
クリスタルが告げると、ロルゥンの、失われていない左目だけが、覚悟を決めるように、大きく見開かれた。
そして――
手斧は、振り下ろされた。
しかし、それは。
クリスタルの右腕には当たらなかった。ロルゥンは手斧を離し、マイクに大股に近づくと、それを乱暴に壁から掴み取り、吐き捨てた。
「自分でやりやがれ」
それだけ告げて、ロルゥンは、コックピットルームの方へ、扉を開けて姿を消した。