5夜、『生きる術を身につけるため、悪を知り、悪を倒す!!』
幼い頃の記憶など普通はそんなに覚えていないものだが、怖いものなら嫌でも覚えてしまう。
和泉晴祐が初めて恐怖したのは、祖母の怒った顔だった。
晴祐の両親は我が子を育てることにうんざりしていた、それを知った祖母は怒り、代わりに幼い晴祐を育てることになった。あんな両親の、一人は自分の子だがその二人の元に生まれた晴祐を大事に育てていた。嫌な顔を一つも見せることなく、笑顔で、怒った顔を見せたのは二回だけだった。
いつも笑顔で、あの時のような怒った顔が嘘のようだと晴祐は思っていた。ただもう一度だけ、晴祐は祖母の怒った顔を見ることになる。
ある日晴祐が祖母の大事な花瓶を割ってしまい、掃除しようとしてうっかり指を切ったところを見た祖母は、怒った顔になった。怒らせたくなかった、しかしさせてしまった。他人が祖母を怒らせる時の顔だけでも見たくない、それほど恐怖だった晴祐は祖母を怒らせないよう注意を払っていた。しかしやってしまった。
ただ、祖母の怒った顔は晴祐が最初に見た顔とは少し違うように感じた。それもそのはず、祖母は晴祐のために怒ってくれた。大事な花瓶を壊したというのに、自分のことでなく、晴祐のために怒ってくれた。
晴祐は純粋に尊敬できた、自分より他人を優先する姿を、自分もそういう人間になろうと決意した。しかし自分の気遣いを必ずしも相手が受け取ってくれるとは限らない、仲良くしていた瑞希は変わってしまう、同級生に自分の気遣いを利用されてしまう。思春期ゆえ、意味のない自分の言動に不満を感じていた。
そんなある日、祖母が倒れてしまった。年ゆえに入院も当然だと二人は理解していた。
このままだと死んでしまうのではないかと密かに思ってしまった晴祐は、せめて何かできないか祖母に聞いてみた。その時初めて祖母は、自分の欲を言ってくれたのではないだろうか。
『はるひろの彼女がみたいわ』
それは一見すると他人の幸せを自分のことのように願う人と捉えるだろうが、育てられた晴祐にはわかる。全てを捧げた晴祐という孫は自分同然、晴祐の幸せが祖母の幸せであるなら当然晴祐のやることは一つだった。
(僕は幸せになる、それがお婆ちゃんの幸せ。迷いはない、なぜならお婆ちゃんの幸せは僕の幸せでもある)
祖母のために、自分のために、交際相手を求めていた。良いことをしていれば必ず報われると信じていた結果、晴祐は殺されかけた。その時初めて、晴祐の奥底に眠った、闇を象徴するかのような獣が目を覚ましてしまった。
「……私は純粋な人間でない者を喰ったというのね」
すると、恵は自分の指を口の奥に突っ込んだ。嗚咽した声がトラック内に響き、わずかながら吐瀉物が見える。さらに恵は流れた血をもう片方の手ですくい、その血で口元を洗った。
「そんなに……、俺を喰ったことが嫌だったのか」
「当たり前じゃない!! 純粋な人間以外を口にしてしまって、人間に戻れなくなったらどうしてくれるのよ!?」
「ハッ! あんなに美味しそうに俺の舌を味わっておきながらよく言える。本物だったはずだ、あの時の僕は間違いなく『純粋な人間』だったろうな! だがあの時の俺は、今まで俺自身も存在することを知らなかった『裏の正体』に変わったんだ。お前が早く喰わなかったのが悪い、もたもたしてたから消費期限が切れた、ただそれだけだ」
「な、何ですって……!?」
「俺はずっと……、目の前で起こっている人の悪意に無頓着だった! 小さいとはいえ、両親が俺を捨てたことを追求しなかった! 頼めば何でもしてくれるからと付け込んできたやつもいた、俺が、口論が苦手ってところを利用して自分の非を認めず調子に乗ったやつも! そして……、お前みたいなやつを少しも疑わなかったことだ!! 俺は悪意に鈍い、だから疑う力が欲しい! そうすれば裏切られることも、殺されることもない。生きる術を身につけるため、悪を知り、悪を倒す!!」
「笑止ッ! やれるものならやってみなさい、ゥオルフェ!!」
「アオォォォォゥゥゥ、ゥオルフェ!!」
また狼に変身する。放った光がぶつかり合い、見ていた健司たちは眩しくて反射的に目を閉じる。
再び目を開けるとそこには見たことのない争いが始まっていた。明らかに俊敏性が違う人狼、室内ゆえ目で追えるほどの立ち回りだが攻撃する腕は全く見えない。
しかし、圧倒的に不利だったのは恵だった。首元に流れた血が止まらない、庇って戦っている結果存分に力を出せていない。月の光を浴びれば問題はないのだが、そのことを知っている晴祐は無論妨害する。もたもたしている間にどんどんと傷を作られてしまう。
「どうして邪魔するの……、どうしてぇ……、私がこんな目に合わなきゃいけないのぉ!! 私はっ、ただ……、人間に戻りたい、それも、完璧な人間になりたいだけなのに……!!」
「止めるに決まってるだろ。人を殺してまで人間に戻りたい? 邪魔するなだって? お前のようなけだものに、そんなオイシイ話があるわけないだろぉ!!」
最後の一発、鈍い音が響いた。
「うっ!! ……どうして、ね……ぇ……ちゃん……」
全てにおいて鼻につく女だった。晴祐の突きが恵の心臓を貫いた時、晴祐は鼻先がツーンと冷たくなるのを感じた。そしてその鼻の近くの毛が、髭まで白かった毛が全て黒くなっていた。
人狼になった晴祐だからわかることがある。今まで人狼は純粋な人間だけを喰べてきた、純粋な人間特有の正の要素を取り込んで負の心の中で中和する、健司の言ったことは間違ってはいない。だが正確には違う。人狼に陥った者が求めているのは、人間になるための仮面だ。人間は仮面を持った生き物だと言うなら、人狼は仮面を持たない獣の姿、そんな本能のままに動くという正直過ぎる姿は社会で生きていけるはずがない。取り繕うとしなければならない、そのために人狼はみな仮面を、それも完璧な仮面を追い求めている。そこで必要なのが純粋な人間、見た目も中身も完璧な人間の素材が必要だった。
(喰うことで素材を手に入れている……、だったら!)
完全に動かなくなってしまった恵の残骸を、晴祐はその大きな口いっぱいに頬張る。骨も残さず全てを牙で細かく噛み砕き、飲み込んだ後晴祐は元の人間の姿に戻った。
(何だ……、これ……!?)
突然晴祐の脳裏を過ぎったのは、恵の過去、それが走馬灯のように反映されてきた。