3夜、『嫌だ、俺は生きたい!!』
それからしばらくして、説明を聞いた晴祐は血まみれのシャツからまた体操服に着替えて帰って行った。人狼の存在を誰にも言わないこと、人狼に襲われないようオシャレをすることを約束した晴祐は、今の天気と同じ曇った顔をしていた。
「良いんですか立花さん? いくらなんでも正直に話しすぎですよ」
「だとしても下手に嘘をついて騙すのは俺の性に合わん。だから正直に話して誰にも言うなと低めに脅す。そのほうが良い、あいつも狼に襲われないよう対策してくれるはずさ」
「だといいんですけどねぇ……。狙いがわかった二年前、ですか。それって例の旧駆除班のやつですか?」
「あぁ。人狼の狙いがわかったあの日、突然別の人狼に襲われたんだ。俺はかろうじて逃げられた……、いや、逃がしてくれた。亡くなった先輩やリーダーのためにも、人狼は一匹残らず駆除するぞ!」
「へい!」
健司の話を聞いた後、晴祐は真っすぐ家へ帰ろうとはしていた。しかし帰り道に問題があった。
先ほどの話、誰でも人狼になる可能性がある。その情報を聞いた晴祐は途端に人を見る目が変わる。すれ違う男、子連れの女、歩道を歩く人たちの誰かが人狼で、人間になってこの社会に溶け込んでいるのだとしたら……。
こんな考え方をしたくはない、しかし晴祐はその疑いが離れない。きっと健司が公言したくないのはこういうことだったんだろう、いくら喰われない対策を考えたとはいえ、人狼が潜んでいるということがわかれば無意識に目が探索する力へと傾いてしまう。人を疑うことに、こんなにも労力を使うと晴祐は思ってもみなかった。
疲れながら帰った晴祐、家に入る途中、家に帰ってきた瑞希とバッタリ会ってしまった。
バッタリ会うといっても幼馴染な晴祐と瑞希の家は隣同士、しかし一緒に帰ることもない二人が同じ時間に帰ってくるのは晴祐が記憶している限り初めての出来事だった。
「おかえりミズキ、毎日こんな遅い時間に帰ってくるの?」
「え、まだ20時じゃない」
「……」
価値観だろうか、門限という家庭のルールだろうか、この違和感を実感するほど今の晴祐には余裕を持っていなかった。
「別にこんな時間に帰ってきても怒られることはないわよ、おじいちゃんたちだって夜遅くまで刀鍛冶の仕事をしてるんだから。あんたこそ帰ってくるの遅かったわね、天野さんと上手くいったの? てか何で体操服?」
「天野……、さん?」
どこかで聞いたことがあるような曖昧な記憶しか晴祐の脳内には残っていない。先ほどの出来事をどうやら忘れてしまったようだ。
「……ハル、何も言わなくていいわ」
そう言って哀れみの目線を向けた瑞希、何か勘違いをしているのは間違いないのだが、相手の顔色に鈍い晴祐は何も気づけなかった。
「あれ、あんた耳に穴開けたの? でもファーストピアスはどうしたのよ?」
「あ、あぁこれは……」
さすがに隊服の男に開けられたなど言えない、そんなことを話すともっとボロが出てしまう。
「実はちょっとした好奇心で開けたんだ。けど意外と痛いんだねこれ」
「もしかして……、消毒してないの?」
「え……、しょうどく?」
「何やってるの、半端な知識で耳に穴を開けるなんて!? 開けた道具ってピアッサー? それともニードル?」
「え……?」
「何でそんなこともわかってないのよ! まさか他の方法で開けたとか馬鹿なこと言わないよね!?」
大声で怒鳴る瑞希を落ち着かせながら、どうにか上手く説明し、ニードルで穴を開けたことを伝えた。
「ニードルならまあ、綺麗な穴になるからいいけど。それでもニードルを使う時は軟膏とか消毒液を浸した消しゴムとか必要なのよ! もっとちゃんと調べてから開けなさい!!」
「は、はい……」
母親のように怒られた。しかしその説教にはどこか懐かしい感じがした。
「ふふっ……」
「何笑ってるのよ?」
「いや、ミズキが変わってなくてよかったなぁって」
「はあ? 何よそれ」
「タツキくんの言った通りだったなぁ、昔あったミズキの優しさ、消えてなかったんだね」
「……」
「昔はお母さんみたいに厳しく優しく接してくれたのに、オシャレが許された二年前……、いや、もっと前から何か冷たかったから……。綺麗になったけど、ミズキの良かった部分がどんどんなくなってるなぁって……」
「あのねぇ、年頃の女ってのはだいたいそうなんだから軽く受け流してくれないかなぁ! ……というか、私が勝手に、あんたのこと嫉妬してただけで……」
「嫉妬……? どこに?」
「……二重と、爪が綺麗なところ」
「え……? それだけ」
「それだけって何よ!? あんたは恵まれた体だからそんなこと言えるわけで、持ってない私にとってはとっても羨ましかったの!! 昔、あんたの前で二重羨ましいなぁって呟いたら、あんた何て言ったと思う? 別に欲しくて手に入れたわけじゃないけどねぇ、って!! そんな何気ない言葉が当時の私を傷つけたのよ!! しっかもこんなオシャレ皆無な男に恵んでくるなんて……!」
「え……、その……、ごめんなさい」
まさかそんなことを根に持っていたとは思わなかった。神経質すぎる瑞希も問題だが、発言に細心の注意を払わなかった晴祐も悪いと捉えられる。
ないものねだりな関係で不運の事故、それだけは間違いないのだがこうして言葉にするのも恥ずかしい。器の小ささが露見してしまう。しかしそれでも、鈍い晴祐にはピッタリな説教だった。
「まあ二重テープとかエメリーボード使えばいいから、今はそんなに気にしてはいないわ。今はね」
「はい……」
「とにかく明日行くわよピアススタジオ! 遅いかもしれないけど今日は軟膏塗って寝なさい、いいわね?」
「はい……、ありがとう」
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
なんだかとても清々しい気分になってきた。昔から悩んでいた瑞希との仲が一段落着いた、一度告白してフラれてギクシャクした空気の壁があったことはあったのだが、それでも気にせず瑞希は接してくれた。明日はとても良い日になるだろう。
今の夜の空と同じくらい、晴祐の心も晴れてきた。月の光が晴祐の背中を照らしてくれた。
「おぉ、綺麗なつき……」
『正しい光を反射した紛いの光が月とあれば、それによって照らされる者はいったいどれだけ地に落ちた存在なのか。しかしその光はとても安心する、時に強すぎる光は眩しくて見ることができない。たとえ紛いの光であろうと、本物を知り、加減を理解して照らしてくれる月はとても素晴らしい。そして私は、そんな光に包まれる中で、あなたを喰らうのがとても清々しい』
月を見ただけで、唐突にこの言葉が浮かんできた。どこで聞いた言葉なのか、そしてなぜ考えるだけでこんなに胸が苦しいのだろうか。
晴祐がその場で膝をつく。途端に地面へ叩かれたバッグから一冊の本が落ちる。タイトルは『月光の夜』、なぜこんなものがバッグの中に入っていた? 瑞希以外の女と面識があまりないのになぜ女の声が聞こえる? そして一番おかしいこと、それは晴祐が今、心の底から憤怒に満ちているということだ。なぜ怒る、何に怒っている、少しずつ原因を思い出していく。
「あまのぉ……、めぐみ……ぃ!」
転校生、天野恵との短時間の付き合い、本屋に寄ってお互いの趣味を知り、姉のことを聞かせてもらい、距離が縮まる甘酸っぱい雰囲気、そしてその時のキスと同時に、血の味しかしなかった。
舌を喰いちぎられ、苦しんでいる間に聞かされた、恵が狼になる原因。ただの悪意に満ちた理由で襲われた、晴祐はとても信じられなかった。意識を失い、恵に担がれた時、心の中で晴祐は思った。
(何で気づかなかったんだ、そんなに話していないミズキですら怪しいと見抜いて……。うまく出来すぎていた、どうして少しも天野さんの違和感に気づけなかったんだろう……、やっぱり僕は、いや、俺は未熟だ。見た目だけで好きになって相手の中身を全然見抜けない、いつまでたっても進歩しない……、嘘を嘘と思わない、悪意に鈍い、利用されて最後は喰われて死ぬ……!?)
必ず生きて幸せになる。そんな想いが晴祐の奥深くに潜んでいた。
(嫌だ、俺は生きたい!! 幸せな人生を過ごしたい!! 悪意という名の火の粉を振り払えるような力が欲しい!! 疑う力が欲しい!! たとえそれが、どんな手段であっても!!)