公爵令嬢は護衛騎士が気に食わない
ようやく恋愛入りました!今回は王太子×公爵令嬢です!
「おはようございます、カトリーヌ様」
聞き慣れた侍女の声に彼女は微笑む。きらりと輝く金色の髪は緩い曲線を描いて腰まで伸び、ガラス玉のように綺麗な碧色の瞳を持った彼女は、この国で四家しかない公爵家の一つ、ルミエーレ公爵の長女、カトリーヌだ。絹のように白く、艶やかな肌はとても美しい。大人から子供、男女問わず彼女の美貌に振り向き、思わず熱い吐息を漏らすほど、麗しい容貌をしている。
「おはよう、顔を洗うわ」
「はい、ご準備致します」
小さな桜色の唇から発せられたその声は、その美しい容姿に似合った鈴のような声音だ。用意された水桶で顔を洗い、準備された朝食を摂る。それから胸元は白地に、ウエスト部分のリボンとスカートは紺色の公爵令嬢としては質素とも言える色合いのドレスに着替えた。
「未だに慣れませんわね。お揃いのドレスというのは」
「そうですねえ。せめて身分に合わせてデザインを変えさせていただければよかったのにと思います」
「まあ、それはいけませんわ! この学園には庶民の出もいらっしゃるのですから。殿下は身分関係なく平等に勉学に勤める環境を望んでこの学園を提案したとおっしゃっていましたもの。私も最初はどうして同じ服を揃って着なければならないのかと疑問に思いましたが、それを聞いて納得しましたのよ。学園に通う生徒全員が同じ服を着れば、身分を気にする気持ちは薄れ、同じ学園に通う者同士で仲間意識が芽生えますでしょう? 初めての試みだというのに、素晴らしい考えですわ」
弾むように語れば、侍女のメリアはにこにこと話を聞いていた。その生温かいとも言える眼差しに我に返り、カトリーヌはわざとらしく咳払いをする。
「カトリーヌ様は本当に殿下のことがお好きですのね」
「な、ななな、何言ってるのよ! そ、そんなんじゃないわ! 大体、この婚約は政略的なもの。私の意志も、殿下の意志も反映されていないはずでしょう? わ、わたくしは、殿下が素晴らしいお人なのはわかっておりますし、王太子妃になるなんて名誉を頂けるんですもの、光栄なことではありますけれど! だ、だけど、それとこれとは、べ、べ別よ!」
言葉を濁しながらも結局は王太子との婚約は名誉であり、光栄と思っている上に、その態度は全開で嬉しいと示しているカトリーヌに、メリアは更に頬を緩ませる。
気高く、優しく、秀才で更に美貌も兼ね備えた彼女は、公爵令嬢の鏡と言っても過言ではない。誰もがその美貌に見惚れ、彼女との縁談を望んでいた。けれども、彼女の父であるサイモンドは朗らかな性格をしているが、それでもこの国の財務大臣を務める人。公爵としての力量も高く、子煩悩でもある。その為、どれだけ婚約の打診をされても、娘にその気がないのなら全て断っていた。お誘いがある度に律儀にカトリーヌの意志を確認していたので、彼女もその自覚はある。しかし、王家からの打診となれば話は別だ。その証拠に、この婚約については父親からの確認の言葉は無かったのだから。
「ですが、殿下だってカトリーヌ様のこと、大切にされていらっしゃいますよ?」
「……いいのよ、そんなこと言わなくて」
見え透いた嘘は、逆に心を痛める。メリアが自分を慕ってくれていることは知っている。だから、彼女の言葉は優しさからだと理解していた。それでも、傷つかないわけではないのだ。
自分と殿下はまだ何の進展もない。婚約者であろうとも、その事実だけがカトリーヌの心を苦しめた。力ない笑みを浮かべて、小さな溜め息を漏らすのだった。
「おはよう、カトリーヌ嬢」
「おはようございます、殿下」
白むほどの綺麗な銀の髪を揺らし、薄い空色の瞳を向けて微笑むその姿に、カトリーヌは胸を高鳴らせた。
彼はこの国の第一王子、レオンハール・ロール・ヴェルランド。現国王の一人息子で、少し前に十五の誕生日を迎え、同時に立太子の儀を受け、正式に王太子となった。学も剣も秀でており、この学園の入学試験でも堂々と主席を修めている秀才だ。そんな国の誇りとも言える彼は、カトリーヌの婚約者でもある。
二人の出会いは十二歳のレビュタントのパーティーだった。以前より父からレオンハールの噂は聞いていた。なかなか心を開いてくれない気難しい性格をしているが、心根は優しく、賢く、そして芯の強いお方だと。その話を聞いているうちに会う前から憧れを抱いていたカトリーヌは、そのパーティーでレオンハールを見た瞬間、恋に落ちた。
姿までも理想的なレオンハールに目を奪われながら、子供用に短く編集された曲でダンスをした。王子がデビュタントを迎えたその日から結婚を迎えるまで、毎年レビュタントする令嬢のダンスを務めるのが王子としての仕事だ。だから、その日のダンスはレオンハールにとって初仕事だったはず。それなのに、見惚れて覚束ない足取りをしていたカトリーヌをしっかりとリードしたレオンハールは、少しぎこちないながらも微笑み、緊張を和らげてくれた。その頼りがいのある姿に、恋に落ちないはずがない。
だから、今でも夢ようだと思わずにはいられないのだ。彼の婚約者になれた、そのことに。
しかし、カトリーヌは夢心地のようなその気持ちにずっと浸ることはできない。
「おはようございます、カトリーヌ嬢」
「……おはようございます、ギルバード様」
レオンハールの後ろに控えていた男が、レオンハールに促されて一歩前に出る。と言っても、レオンハールより一歩下がった状態なのは変わらないが。
彼は丁寧に頭を下げて挨拶をしてきたので、カトリーヌも令嬢らしい挨拶を返した。
黒い短髪に深い緑色の瞳は誠実そうな印象を持つ。カトリーヌとレオンハールの同学年に所属している彼は、レオンハールが唯一心を開いていると言われている従者であり、専属護衛――ギルバード・ウェルソン。七年前に殉職した第三騎士団長のギスヴィン・ローウェイの息子であるのだが、十二歳の時に侯爵家のウェルソンに養子として迎えられた。ウェルソン家は昔王女を降嫁したことがある家で、陛下に変わらぬ忠誠を誓っているところだ。
世間一般には殿下の命を救ったギルバードの才能を買って、ウェルソン家自ら養子として引き入れたという話だが、実際は違うことをカトリーヌは知っている。いくら成果を上げたと言っても、ギルバードは当時十歳。その幼さのギルバードに騎士爵位を授けただけでなく、陛下・殿下共に第一王子専属護衛騎士としてギルバードを望んでいるとなれば、貴族の間で注目を浴びるのは必須。
実際、当時の噂のほとんどはギルバードのことだった。デビュタント前の男爵家の息子に伝手がある者は少ない。その為、当初はそれほど問題が上がることは無かった。
父を亡くし、母は重罪で処刑されてしまったローウェイ家に残されたのはギルバード一人。いくら騎士爵を授かったと言えど、デビュタント前の子供に男爵を継がせるわけにはいかない。その為、ギルバードが大人になるまでの繋ぎのためにギスヴィンの弟に一時的に男爵に置いたのはいいが、元々市井にいた男を引っ張り出しただけだったので、負担が彼に向かってしまった。男爵と言っても領地はない。貴族として必要最低限の仕事を任されていただけなのだが、それでも貴族界で武器を何も持たずに多くの敵に晒されてしまった彼は、早々に限界を迎えてしまった。それを見兼ねたギルバードが自分が原因で困っている叔父を手伝いたいと、殿下の許可を得て傍を離れようとしたのだ。
彼がレオンハールに我がままとも言える言葉を口にしたのはこの一度だけ。だからこそ、ギルバードに起こっている事態をすぐさま把握し、レオンハール自らが陛下へと進言した。
結果、ローウェイ男爵は爵位を返上。ギルバードは陛下の申し出により、ウェルソン侯爵家の養子として迎えられたのだ。もちろん、侯爵家には既に嫡子がいるため、後継ぎ問題に巻き込まれることもない。
その為、貴族の中でかなりの注目を浴びていたギルバードだったが、彼を取り入れようにも王家の息がかかった侯爵家が後ろ盾として存在するため、容易に近付けなくなったらしい。
当時関わりのなかったはずのカトリーヌが、彼を見るだけで彼のルーツが頭に浮かんでしまうのは、今までレオンハールからそのことを何度も聞いたからだ。レオンハールとしてきたお茶会での会話を思い出し、カトリーヌは密かに溜め息をついた。
「カトリーヌ嬢、どうかしたか? どこか具合でも?」
「え、あ、いえ、何でもございません。少し考え事をしておりました」
「それならいいが。具合が悪いようだったら遠慮なく言ってほしい」
レオンハールと二人肩を並べて教室に向かう。思考を飛ばしていたカトリーヌを案じてくれる彼の優しさに、心が温かくなる気持ちになり目を細めた。頬が緩みそうになるのを抑えるのが難しい。
「わかりましたわ。具合が悪くなったら遠慮なく休ませてもらいます。そのくらいで授業に遅れるほど、私は落ちぶれていませんもの」
胸を張って口にしてしまった瞬間、カトリーヌは盛大に後悔する。レオンハールに釣り合う婚約者になる為に日々努力をしている彼女ではあるが、彼と接する度に妙に見栄を張ってしまう癖がついてしまった。見栄でなくとも、もう少し素直な言葉で主張すればいいのに、どうにも嘘くさい言動をしてしまうのだ。毎回それが恥ずかしくて仕方がない。
「確かに。それなら安心だな。カトリーヌ嬢なら、ギルのように熱が出ていることに気付かない、なんて馬鹿なこともなさそうだしな」
「そこで私を引き合いに出さないで頂きたいです」
「熱に気付かないなんてありますの?」
「こいつ、妙に調子悪そうだと思ったら、本当に熱が出ていることにも気付かずに日課をこなしていたんだ。結果、夕刻に倒れているんだから仕方ない奴だろう?」
肩を竦めながら笑うレオンハールに、カトリーヌは切ない気持ちを抱く。そんな風に気安く、楽しく、そして嬉しそうに彼が語るのはいつもギルバードのこと。もちろん、彼の中で一番話題があるのは常に共にいる彼だからというのはわかっている。それでも、その事実が面白くなくて、寂しいと思ってしまう。
殿下の従者に嫉妬を覚えるなんて馬鹿げている。わかっているものの、レオンハールがギルバード以上に自分のことを思ってくれることはないと知っているからこそ、空虚な感情を捨てることはできなかった。
(ただ、好きになってもらいたいだけなのに)
それなのに、それがどうしようもなく難しいなんて。
カトリーヌは俯いてそっと息をついた。
「カトリーヌ嬢は毎週実家に戻っているそうだね」
「ええ、と言っても、王都の貴族街にある別邸の方にですが。父も妹もそちらにいますし。妹の様子が気になるので」
今日の授業を終えて帰り支度をしていれば、近くの席に座っていたレオンハールが挨拶をしに来てくれた。その心遣いに胸を弾ませながら、質問に答える。
「そうか、確かカトリーヌ嬢の一つ下のルナエリーゼ嬢だね? 二年ほど前まで寝たきりだったと聞いていたが、順調に快復に向かっているのかい?」
「まあ、お名前を覚えていてくださっているのですね。ルナが喜びますわ。ええ、ずっと寝たきりだったのでまだまだ体力はありませんが、家の中では一番明るい子なのです。今となっては病気だったのが嘘のように元気になりました。おそらく、来年この学年に入学することもできると思いますわ」
「それはよかった。姉妹仲がいいことは公爵の方からも聞いている。来年、君達二人が仲良く肩を並べて登校する姿を楽しみにしているよ。そうだ! どうせなら今度お見舞いに行ってもいいかな?」
婚約者の妹の為にわざわざ家まで足を運んでくれるというレオンハールの好意にカトリーヌは複雑な気持ちで微笑む。ええ、もちろんと、返事をしながらも、心を支配するのは焦燥だった。
彼が我が家に来てくれることは嬉しかった。王宮とは規模は違うだろうが、華やかに整えた自慢の庭を案内できるし、久しぶりにお茶に誘うこともできる。ゆっくりと二人だけの時間を過ごせる機会ができるのだから、嬉しくないはずがない。
けれども、レオンハールに自分の妹を紹介するのは、正直怖かった。
「じゃあ、楽しみにしているよ。もちろん、その時は……二人でお茶もできるかな?」
「――ええ、もちろんでございますわ。私も楽しみにしております。殿下のご都合がいい日をまた教えてくださいませ」
不安を感じさせないようにどうにか笑みを浮かべて、カトリーヌはレオンハールと別れる。そのまま門へと向かえば、既に控えていた侍女のメリアの案内の元、迎えに来ていた公爵家の馬車へと乗り込んだ。程なくして動き出した馬車の騒音に紛れて、カトリーヌは静かに溜め息をつく。
(ああ、嫌だわ)
レオンハールとお茶ができるのは嬉しいのに、レオンハールを家に招待するのは憂鬱だった。ただ家族を改めて紹介するだけならいいのだが、妹と引き合わせることが怖い。
何故なら、妹のルナエリーゼは、カトリーヌと比べ物にならないくらい可愛いからだ。
「「「お帰りなさいませ、カトリーヌお嬢様」」」
「ただいま帰りました」
使用人に出迎えられながら、カトリーヌは邸の中を歩く。向かう先は決まっている。父はまだ仕事で帰宅していないだろうから、唯一邸にいる家族――ルナエリーゼのところだ。従者の案内で彼女の部屋に向かえばパタパタと騒がしい音が響く。
「お姉様!」
あと少しでルナエリーゼの部屋に着くというところで彼女本人が太陽のように明るい笑みを浮かべて飛び込んできた。
「まあ! こら、ルナ、お行儀が悪いわ。淑女はそのように足音を立てたり飛びついたりしないものよ!」
「ごめんなさい、だって早くお姉様にお会いしたくて」
カトリーヌと同じ輝く金の髪に深い翡翠色の瞳をした彼女は、少し幼さを残す愛くるしいその顔を向けて眉を下げた。あまりにも可愛らしい仕種に、同性であるカトリーヌでさえ庇護欲を刺激される。
誰よりも純粋で可愛らしい、愛しい妹。カトリーヌはルナエリーゼのことが大好きだ。けれども、同時にこんな可愛らしい子相手なら、どんな男性であろうと恋に落ちてしまうだろうとも思ってしまう。
だから、怖いのだ。
「もう、仕方ないですね。ほら、一緒にお茶でもしましょう?」
「あ! それならテラスに行きましょう! 今、とても綺麗なお花が見頃なの! お姉様と一緒に見たいわ」
まるで花が咲くように可愛らしく微笑んで提案する妹に、カトリーヌは苦笑を漏らして頷いた。こうして、週末に帰る度に全力で喜んでくれる妹に、嬉しく思わないはずがない。カトリーヌだってルナエリーゼと会いたくて何度も家に足を運んでいるのだから。
彼女が誰よりも愛らしい存在だと理解しているからこそ、レオンハールに紹介はしたくないのだ。
同じ家の娘。今までは病弱だからルナエリーゼに婚約の打診がいかなかっただけ。けれども、もう体調面の心配がなくなるとなれば、自分よりも可愛らしく愛くるしい彼女にレオンハールが惹かれないはずがない。可愛げのない自分と比較してしまえば尚のことだ。
(でも、殿下はお優しいから……きっとそんなことは言わないわね)
いつだって自分を気遣ってくれる優しい人。それがわかるからこそ、幼い心に芽生えた恋心は育つばかり。自分ばかり彼に思いを募らせて、そして目の前で自分と似ているようで全く異なる妹にもし……恋に落ちてしまうところを見てしまったら。
そんなことになったら、きっと自分は耐え切れない。
「ねえ、お姉様、私とっても元気だったわ! だから明日、いいでしょう?」
可愛らしい声を上げて問いかけてくるルナエリーゼの声にハッとする。すぐに意識を目の前の妹に戻してカトリーヌは優しく微笑んだ。
「ええ、そうね。ずっとこもりきりだったものね。私と一緒に外に出ましょうか」
「本当に! 嬉しいわ! 私、とっても楽しみにしてたの! お姉様、この前お土産に買ってきてくださったオルゴールが置かれているお店に行ってみたいわ! あと、薔薇を象った髪飾りが置かれているお店と面白い色のお菓子を売っているお店!」
「ふふ、ルナ、楽しみなのはわかるけど、そのお店は全部近い場所に固まってあるわけではないのよ? 一気に回ろうとしたらきっと貴方その次の日には寝込んでしまうわ。元気になったのだから、今回は一つに絞って他はまた次の機会に行きましょう?」
まるで幼子のように興奮するルナエリーゼを嗜める。元気になり、かなり体力がついてきたといはいえ、まだまだ彼女は外出の経験は少ない。本人が大丈夫と思っていても、知らぬ間に疲労してしまうだろう。たくさん行きたい場所があるのはわかるが、行きたい店すべてを一気に案内するわけにはいかない。落ち込んでしまうかもと懸念していたが、次の機会という言葉にルナエリーゼは嬉しそうに目を細めて頷いた。
「ええ、わかったわ。でも美味しそうなお菓子は買いたいの。面白い色のお菓子じゃなくていいから」
「ええ、そうね。お土産も買いたいし、お菓子は帰りに美味しそうなところに寄りましょう」
「じゃあ、明日はオルゴールのお店に行きたいわ。他にも綺麗な曲の物があるかもしれないし、直接お店で音を聞いてみたかったの」
とても楽しそうに願いを口にする彼女に、堪らない気持ちになる。ほんの二年前まではこんな明るい顔で出かける話なんてできなかったのだ。
妹と殿下の邂逅とか、自分の気持ちとか、考えること、悩むことはたくさんあるけれど、それはルナエリーゼとは関係のないことだ。今は、彼女が望むように過ごせる日々に感謝するだけ。少しでも明日のお出かけが楽しめるようにと、カトリーヌは笑いながら彼女の話を聞くのだった。
◇
「すごいわ、とっても綺麗!」
幼い頃から病弱だった彼女は邸の外にほとんど出たことがない。出たとしても馬車から外を覗くばかりで、こうして自分の足で下町を歩くなんてなかった。だから、庶民が行き来する場所を楽しそうに歩いたり、素朴な店に興味を惹かれて覗き込んだりするその姿を、カトリーヌは僅かに潤む瞳で見つめていた。
馬車置き場からルナエリーゼが行きたがったオルゴールを扱う店まで少しだけ歩く。まだまだ体力がない彼女を心配したが、来て早々に大丈夫かと問いかけるわけにもいかず、今日は好きなようにさせようと黙って見守ることにした。けれど、それも早々に後悔することになる。
「ルナ、珍しく思うのは仕方ないけれど、店を見かける度に足を止められては目的地に着く前に日が暮れてしまいますわよ」
途中にあった飴細工の店で足を止めていたルナエリーゼに苦言を漏らせば、彼女はハッとして振り返った。すぐさま眉を下げながらごめんなさいと謝ってくる。先ほどから全然進んでいないことに気付いたようだ。
「ずっと楽しみにしてたものね。それはわかるから今まで黙っていたけど、流石にお店にたどり着く前にお昼を過ぎるのは私も困りますわ。お腹が空いてしまいますもの」
「そうですね。すみませんお姉様。お店に行って、ご飯を食べた後余裕があったらまたこの辺り見てもいいですか?」
「それはもちろん。その為に来ましたもの」
そう言って微笑めば、ルナエリーゼも嬉しそうに笑顔を返した。素直で笑顔が可愛らしいルナエリーゼをカトリーヌは愛している。そして、ルナエリーゼもカトリーヌのことを慕ってくれていることはわかっている。貴族の中でこれほど仲のいい姉妹はあまりいないだろうと自慢できるほどだ。何かあったら自分がしっかりと妹を助けなければと、浮かれて前を歩くルナエリーゼを見つめながら気を引き締めた。
そうは言っても〝何か〟なんてよっぽどのことがない限り起きることはない。僅かに緩んだ心でそんなことを思ってしまったのがいけなかったのだろう。
「きゃっ!」
「綺麗な洋服着てるな? お嬢ちゃんさぞかしいい所の子供なんだろう? おりゃあこの前仕事をクビにされてよ、無一文なんだよ。憐れだろう? なあ? 施しでもくれよ」
「いや、やめてください!」
「ルナ!」
一瞬目を離した瞬間に、ルナエリーゼは薄汚れた衣服をまとう中年の男に捕まっていた。傍に控えていた護衛騎士もすぐに反応したが、男はもうルナエリーゼの腕を掴んでいて、無暗に近付けなくなってしまっている。ここは果物や野菜などの食品を扱う店ばかりで、男女問わず多くの人がすれ違う大通りだ。その為、ルナエリーゼが人とすれ違うことに警戒できなかった。
男はクビにされたことで自棄になっているのだろう。昼間から頬を赤らめて泥酔しているように思えた。となれば、怒鳴りつけたり、手荒な真似をしてしたりしてしまえばルナエリーゼにどんな危害を加えるかわからない。護ろうと思った矢先にこんなことになるなんてと顔を真っ青にしてカトリーヌは立ち尽くす。
「何でもいいんだよ。ああ、身に付けている服でもいいんだ。売ればそれなりになるだろ」
「ひっ!」
「や、やめなさい! 施しが欲しいのでしたらルナから離れて!」
二の腕を擦られて顔を青くするルナエリーゼに我慢できないとばかりに声を張り上げた。女性が、しかも貴族の娘が未婚な上に全く関わりのない男性にそのように触れられて平気なはずがない。しかもルナエリーゼは今まで夜会はもちろんお茶会にも参加していないのだ。使用人や父親以外の男性と免疫がほとんどない。そんな妹が脅すように触れられるなんて許せるはずもなかった。
「ああん? 俺はこの嬢ちゃんに言ってんだ!」
「私の妹です! 放して!」
「ハン、じゃああんたがこの場でその服を脱いでくれるのかよ?」
何を言っているのか。お金が欲しいのならお金を直接強請ればいいのに何故着ている服を差し出さねばならないのか。変態な発言に鳥肌を立てながら周囲に視線を巡らせる。人が多いこんな場所には本来騎士団が数名は巡回しているはずだ。それなのに、それらしき人物が見当たらない。
(どういうことよ!)
職務怠慢ではないだろうか。なんて、思わず心の中で悪態をついてしまうが、仕方ない。これからどうやってこの危機を乗り越えればいいのか、カトリーヌにはわからないのだ。
「おい、聞いているのか」
「白昼堂々と追い剥ぎか?」
唐突に聞き慣れた声が耳に届く。反射でルナエリーゼの方を向けば、男の後ろにいつの間にか佇んでいた男が彼女を掴んでいた手を叩き落とし、一瞬にして相手を地面に押し倒していた。鮮やかな手腕に驚きで言葉も出ないでいると、男が離れたことで気が抜けたルナエリーゼの体が傾いた。
「おっと、危ない」
今度は別の人が倒れそうになったルナエリーゼを支えた。男を倒した方は黒、ルナエリーゼを支えた方は白のフード付きの上着を着ている。二人の顔がこちらを向いて、カトリーヌは驚きで目を見開いた。
「ギルバード様と、殿下!」
「しぃー、カトリーヌ嬢、ここでは殿下は禁句だ」
「お忍びですのでギルとレオンと呼んで下さい。カトリーヌ嬢」
麗しい銀髪をフードで隠したレオンハールは優雅な所作で唇に人差し指を立てる。その姿に目を奪われてしまい、カトリーヌは頷くことしかできない。けれども、すぐに我に返る。お忍びだから殿下呼びはいけないことはわかる。けれども、カトリーヌは一度だって彼のことを愛称である〝レオン〟と呼んだことはない。
「カトリーヌ嬢、彼女がもしかして?」
「あ、はい。そうです。妹のルナエリーゼです。ルナ、大丈夫? 怪我はしてない?」
「あ、はい。大丈夫です、ありがとうございます」
ようやく異性の腕の中にいる事実に気付いてルナエリーゼは慌てて身を離した。相手が誰なのかもきっと気付いていないだろう。顔も確認せずに二人に向かって頭を下げる。
「いや、大切な婚約者の妹さんに何事もなくてよかった。偶然とはいえ通りかかれたのは運命すら感じるね」
「……ッ」
(それは、一体誰との?)
甘い微笑みを浮かべるレオンハールにカトリーヌは喜ぶどころか不安で心を揺らす。ルナエリーゼは婚約者という言葉に反応して慌てて顔を上げた。レオンハールの容姿を確認して、ようやく事の重大さに気付いたようだ。驚きで口元を両手で隠し一歩後ろに下がった。
「申しわけありません。ご挨拶もせずに、助けて頂いた上に御迷惑をおかけしました」
「いや、今は非公式だ。あまり気にせずに」
「でも……!」
「大丈夫です、むしろ感謝するのは私の方ですご令嬢」
何処に隠し持っていたのか、縄で男を拘束していたギルバードが唐突に口を開く。自己紹介もなく話しかけた男に怪訝な顔一つせずにルナエリーゼは視線をそちらに向けた。おそらくレオンハールに合わせてフードをかぶっていたギルバードは、邪魔なそれを手で下ろしながら彼女に視線を合わせた。
「貴方のお蔭で仕事放棄している騎士団員がいることに気付けましたので」
「え?」
「むしろ詫びなくてはいけません。すぐに駆けつけることができず申し訳ありませんでした」
ギルバードはルナエリーゼの前で跪き、頭を下げる。唐突なことに狼狽える彼女は、どうすればいいのかと縋るようにカトリーヌを振り返った。
「お、お姉様ぁ!」
「……ギルバ、えっと、ギル様、お顔を上げてください。ルナも私も無事でしたし、貴方は助けてくれた恩人です。謝罪する必要なんてありませんわ」
「いいえ、そういうわけにもいきません」
いつもほとんど言葉を発しないギルバードだが、今回ばかりは違うようだ。人通りの多いこの場所で、しかも騒ぎを起こした後だ。注目を浴びていることには気付いているからだろう。謝罪は取り下げなかったが、頭はすぐに上げてくれた。そして、このタイミングで新たにここに向かって来た人がいた。
「これは何の騒ぎですか?」
ようやくこの範囲を巡回していた騎士団が到着したのだろう。見覚えのある騎士服をまとった男二人が声をかけてきた。
どれほどの範囲を見回っているかは知らないが、これほど時間がかかるものなのか。疑うような視線を思わず向けてしまったのがいけなかったのだろう。駆けつけた騎士は僅かに眉を寄せて睨んできた。
「騒ぎを起こしていたのは貴方ですか?」
「……私は、」
「事件を終えた後でのこのこやってきた癖に見るからに被害者であるご令嬢を睨みつけるなんて、どうやら騎士としての自覚が薄いみたいだな」
「は? 何だ、あんた……は、」
騎士の態度に苦言を漏らそうと口を開いた瞬間、先に騎士を叱責したのはギルバードだった。唐突に暴言を吐かれて更に不機嫌な表情を浮かべた騎士二人は、ギルバードを咄嗟に睨みつけた。が、僅かに目を見開いて、見る見るうちに顔色を青く変えていった。
「あ、貴方は、ぎ、ギルバード副団長……!」
「ど、どうしてここに?」
「はあ、どうして? お前達は現場に駆けつけて何を見てるんだ。それほど視野が狭くてどうやって異変に気付ける? 俺が一人でのんびり休暇を楽しんでいるように見えるのか? たとえそうであったとしても、ここに駆けつけるまでに誰がどのような状況でいるかくらい見てわかるだろう」
そう問われてようやく二人は近くにいるレオンハールの存在に気付いたようだ。青かった顔を更に青くして頭を慌てて下げた。
仕方ないとはいえ、権力者がいると唐突に態度を変えるその姿に嫌悪感を覚える。市井を巡回する騎士が、地位で態度を変えるのはいかがなものだろうか。
(そういえば、城下を見回る役目を担うのは第五騎士団……だから、ギルバード様は謝罪していたのね)
第一騎士団は王族専属護衛やその周辺警護、第二騎士団は王宮内、第三騎士団は貴族街と配属先に寄って配置される位置が決まる。ギルバードは本来なら王太子専属護衛として第一騎士団に所属するのだが、本人の強い希望により、第五騎士団に身を置いている。その若さでは異例の副団長という地位を得ているのは、今までの功績とこれからの期待を込めてもあるが、レオンハールの護衛をこなすために巡回騎士から外す為でもある。
つまり、この街を見回っていた騎士は、第五騎士団に所属しているので、ギルバードは指導者としての責任があるのだ。
「あれほどの騒ぎになっていたのに気付かない上に、この場に殿下がいることにも気付かず、かつ、被害者であるご令嬢に不躾な態度。どうやらそうとう弛んでいるようだ。このことは団長にも報告させてもらう。名前も覚えているからな」
「ヒッ!」
「そんな!」
容赦ない言葉に身を縮ませる騎士二人の姿に、カトリーヌは感心してしまった。副団長とはいえ、ギルバードは騎士二人より大分年下だ。下手をすれば十は違う年齢だろう。それなのに、これほど恐れられているとは、流石だと思った。陛下やレオンハールが信頼するだけある。
そう感心していたのも束の間、黙って様子を見守っていたレオンハールが、疑うような視線をギルバードに送った。
「本当に覚えているのか? 名前」
「……パプリカとマンゴーだったよな?」
「違います! ポプリカです!」
「マンダーですよ!」
「そうか、ポプリカとマンダーだな。ちゃんと報告しておく」
名前を覚えてもらっていたことに喜んでいたのかもしれない。異なる名前を告げられて悲壮感溢れる表情で思わず訂正してしまう二人。しかし、すぐに自分達の失態に気付いた。このまま間違えられていた方がよかったかもしれないと。
レオンハールはやれやれと額を押さえていたので、彼が名前を覚えていないのは元々勘付いていたのだろう。
「お前は相変わらず名前を覚えるのが苦手だな」
「顔なら確実覚えてはいるので、その場で団長の前に引っ立てようかと思ってました」
締まりのない会話をしながらも騎士二人に捕縛した男を引き渡す。再度、後にお叱りがあることを伝えたギルバードとレオンハールに視線を向けていたルナエリーゼは、小さく、そっと、呟いた。
「素敵……」
感極まったようなか細い声に、カトリーヌは息を止めた。そっと視線を彼女に向ければ、白いまろやかな頬を僅かに赤く染めて、うっとりとした視線を彼に向けていた。怖れていたことが起きてしまったと、カトリーヌは顔を青くする。
(仕方ないことではあるけれど……)
だって、誰が見ても魅力的な存在だ。輝かしい容姿はもちろん、性格も、能力も、申し分はない。今まで幾度となくルナエリーゼにカトリーヌ自身がそのことを伝えていたのだ。こうして顔を合わせてしまったらそうなってしまうだろうと理解していた。
しかも、ルナエリーゼはカトリーヌと同じ公爵令嬢。ただ姉妹の違いなだけ。病弱という欠点さえ無くなってしまった今、レオンハールもルナエリーゼを視界に入れてしまうだろう。
焦燥感が襲う。けれど、それを悟られるわけにはいかずに口を強く引き結んだ。
「あ、あの、レオン様……お手間をかけてすみませんでした」
「いや、本当に気にしないでくれ。君に何もなくて本当によかった」
穏やかに笑んで近付いたレオンハールにカトリーヌは思わず頬を染めて俯いた。
「レオン、悪いが俺は他の騎士も同じようにサボっていないか視察しながら城に戻ろうと思うが」
「それなら僕も共に行こう。お前だけだと名前の把握に不安が残る」
「……」
「というわけで済まない。本当は共にいてやりたいのだが」
申し訳ないという表情を向ける彼に、カトリーヌは首を振った。許容範囲を超え過ぎていつもの態度が取れない。このまま一緒にいても令嬢としての顔を崩すばかりで困るのは自分だ。むしろ丁度よかったと安堵してしまう。