王子殿下は寡黙な騎士と未来を据えて
「さあ、皆さん殺しちゃって。本当はギルにやらせようかと思ったけど、ここまで待ってもらったんだもの。皆で競争よ? 殿下の命を奪った人には、特別手当をあげちゃうわ」
耳障りな笑い声と共に述べられた言葉に空気が変わる。途端、武器を構えた男達は一斉に地を蹴った。見る見るうちに距離が縮まる様子に、レオンハールは茫然と見やる。無抵抗で殺されてはいけない。たとえ手練れであろうとも、剣を抜けばレオンハールは簡単に負けない自信がある。けれど、それは普通の精神状態の時だ。咄嗟に剣の柄に手をやるものの、それを引き抜くことができない。手が震えて力が入らない。絶望で狭まった視界では、敵を把握することも叶わず、立ち往生してしまう。そうしている間にも敵が迫り来る。せめて逃げなければと敵を見据えようと視線を上げたその先。そこに、ギルバードがいた。
「あらぁ、やっぱり一番張り切ってるのね? ほらほら、追い付かれてるわよ?」
迫ってくるギルバードに絶望の色が濃くなる。彼しか見えなくなって顔を歪ませた。他の敵よりも前に出て来たギルバードは腰にさがった剣に手をかけた。目の前まで差し迫ったその瞬間、彼は剣を抜き、その身をひねらせた。鋼色の線を描いたそれは、レオンハールに向かって振られ――通り過ぎる。
甲高い音を響かせて剣が宙を舞う。レオンハールに次に近かった敵の剣を弾き飛ばしたのだ。驚愕で身を固くした敵の隙をついてもう一歩足を踏み入れ、胴を斬りつける。次いで左脇を過ぎようとしたもう一人の敵に肘鉄を食らわして足止めする。しかし、これは腕で塞がれた。精々十歳の力だ。ガードされてしまってはあまり決定打にならない。敵はすぐさまギルバードに狙いを変えて短剣を振り下げる。下がって下がって下がって、切り返される攻撃を何度も避ける。
「な、何をしてるの! 貴方が殺すのはそこの王子よ!」
甲高い声が響く。けれど、ギルバードはいつもの無の表情のままちらりとも母親を見ようともしない。それよりもギルバードが視線を向けたのはレオンハールだった。
「剣を抜け! いくらオレでも四人全員は無理だ! 後ろのヤツくらいは殺れ!」
ギルバードの怒鳴り声を初めて聞いた気がする。あまりの衝撃にハッと我に返る。瞬間、溢れんばかりの殺気が背後から近付いてくることに気付き、今まで掴むことができなかった柄を無意識に掴み取る。
相手の姿は確認していない。それでも、反射で刃を受け止めた。
「ぬぅ!」
力が強い。それならば、と力を流すように刃を滑らせて身を屈める。身長の差は大人と子供で歴然だ。素早い動作で死角に入り込めば、まるで消えたように見えるだろう。その証拠に、敵の視線が彷徨った。その僅かな時間で十分だった。敵の懐に入り込むのは。
力が無くても腹に刃が入れば一撃で済む。一秒にも満たない時間でレオンハールは敵を倒した。
「ギル!」
慌てて振り返れば、残り三人の敵の屍が地に伏していた。一人先に倒していたとはいえ、レオンハールが一人倒す間に二人も片付けてしまうとは、流石だと脱力しそうになる。
「何で、どうして、どうしてこんな、嘘よ! あんた何してるのよ! 私の子供のくせに、私の、私の、駒の分際で!」
発狂するように叫ぶギルバードの母親に、レオンハールはびくりと体を震わせる。ギルバードが裏切者かどうか、それはまだ判断が付かなかった。けれど、確かに彼女の言う通り、彼はあの母親の実の子供なのだ。どんな風に扱われていたのかわからないが、この世界の貴族にとって血の繋がりはそれなりに重い。特に、ギルバードは義理固く人情の厚いギスヴィンの息子だ。いくら不当に扱われていても、実の母親を裏切れるのだろうか。
「貴方を殿下に近づけたのも、友人として信頼関係を築くように言ったのも、そういう環境を整えたのは全部全部私なのよ! ちゃんと動きなさいよ!」
耳がキンキンとした声を拾う。その度に心臓が痛むような気がした。もしかして一対一で敢えて対峙しようとしているかもしれない。嘘でも友人となった義理を果たすために。
でも、そうなったら……。
(僕には、敵わない)
稽古中でもギルバードと対戦するとほとんど勝てることはなかった。力の差もあるが、剣捌きが意外にも繊細なのだ。力を削いで、剣の軌道を逸らし、同時に懐に入るその動きが誰よりも鮮やかだ。その剣技を誰よりも近くで見てきたレオンハールだからこそ、子供ながらもこれほどまでの動きができるようになったのだ。
「……ギル」
震える声で名前を呼ぶ。途端彼は視線だけで振り返った。その瞳は今まで自分に向けて来たものと何も変わらない。二年前なら何を考えているかわからないと思っていたそれは、けれど今になれば彼の中で何よりも優しく暖かい瞳だと知っている。
(ああ、大丈夫。だってこいつが僕に笑っている時、一度だって僕に嘘をついたりしなかった。一度だって、僕の信頼を踏みにじるような行動をしなかった)
疑ってはいけない。この二年、彼をずっと傍で見てきたのは紛れもない自分自身だ。
「聞いているの! ギルバード!」
頭に血が上っている彼女は未だにキャンキャン声を張り上げていた。ゆっくりと視線を彼女に向けたギルバードは何も言わずに足を進める。一歩、一歩、進める度に彼の背中から発する空気が冷えていく気がして、レオンハールはごくりと唾を飲み込んだ。
「な、何よ! は、は、ははやく殿下を殺しなさいよ!」
「――――黙れ」
「ヒッ!」
十歳とは思えない低い声で彼女を黙らせる。背後にいても息苦しい程の殺気だ。真正面からそれを受けている彼女はきっと指一本も動かないだろう。カタカタと小刻みに体を震わせて、涙目で我が息子を見つめている。まるで絞首刑にでもかけられるような面持ちだ。
(いや、変わらないか)
数人斬ったままの剣には未だに鮮やかな紅がこびりついている。それを足元で揺らしながらギルバードはゆっくりと歩いていく。
「レオンに近付いたのも、レオンと友人になったのも、レオンとの信頼関係を築いたのも全部あんたの功績だと、あんたからの命令だからオレが従ったと思っているなら、かなりおめでたい頭だな」
「な、何ですって!」
「ただ時期が被っていただけで、オレがレオンと友人になったのはある方からの〝お願い〟があったからだ。あんたの命令なんて関係ない」
迷いなく足を進めるギルバードからは殺気は次第に増していく。僅かに見えたギルバードの横顔は、子供とは思えないほど強い光を帯びた瞳をしていた。まるで戦場を駆ける肉食獣のようだ。ぞわりと背筋に悪寒が走る。本気で彼が怒っている。そして、本気で剣を振るつもりだとようやく気付いた。
(これは、ダメだ!)
「ギル! 待て!」
「駄目だ」
「だけど!」
「レオン、今のオレにはお前以上に大切なものはないし、お前を害するものがいるなら、たとえ相手が誰であろうと容赦をするつもりはない!」
今まで聞いたこともない重い言葉に、全身が震えた。誰よりも大切だと言ってくれた。自分を認めてくれた。大切にしてくれた。そんなギルバードを、一瞬でも疑った自分が許せないほどに、感動で言葉が出ない。
でも、だからこそ止めなければならない。彼の気持ちに応えるべく、王子として、自分も役目を果たさなければ。
「ギルバード! 僕のことを誰よりも思うなら、尚のことだ! そいつを殺すな! 王子暗殺未遂の容疑者として捕え、王妃殿下の罪を自供させるのだ! それが、この国に、僕に、尽くす一番の方法だ! それに、それくらいのことをしなければ、結局お前までも罪をかぶる! そんなのは、僕が許さない!」
深く、深緑のような瞳が自分を射抜く。僅かに見開いたその瞳が、ギルバードの虚を突いたことを教えてくれていて、レオンハールは堪らず笑った。自分を思うなら、ギルバードを思う自分の為に動いてくれという気持ちを込めて。
彼はゆっくりと剣を握ったまま自分の母親に視線を戻す。彼女はすっかり縮み上がっているようで未だに動けずにいた。か細い声で何か呟いているようだが、何を言っているかまでわからない。
「……仰せのままに、殿下」
いつものように静かな口調で囁いた彼は、自分の母親を一撃で気絶させて事件を終息させたのだった。
王子暗殺未遂事件は内容が内容だけにかなりの大事になった。けれども、その噂は王宮内に止めるようにきちんと箝口令が敷かれた。ギルバードの母親と、直接王子に手を下そうとした暗殺者数名は死刑を言い渡され、彼女をそそのかしたとされた王妃メリエラは、ギルバードの家から数々の証拠が出てきたことから特別な塔に一時幽閉され、その後病にかかり息を引き取ったと周囲には報せ、薬殺刑に処された。
メリエラの処刑についてはレオンハールは素直に驚きを見せていた。レオンハールの母、レンテーナが死ぬまで国王は第二王妃も側妃ももちろん愛妾も置くことはなかった。それなのに、レンテーナを失ってすぐに入れ替わりのようにメリエラを王妃に置いたので、それほど国王が彼女を愛しているのだと、そう思っていたのだ。それを素直にギルバードに伝えれば、彼は少しうんざりしたような顔をして直接本人に聞いた方がいいと無茶なことを言ってきた。
まず、自分の父とは言え、一緒に食事をした記憶もほとんどないし、二人きりで雑談することもしていない。国王としての統治力は高く、いつだって凛々しい姿を見せるレイトウェルのことはとても尊敬しているし、親子として絆を深めたいとも思ってはいる。それでも、今までまともな会話をしてこなかったせいで踏み込む勇気が出せない。
今回のことでもう少し会話をするきっかけが得られるかも、そう思っていたが実際は後処理に追われて忙しくなるばかりでお互いに時間が取れるはずもなかった。
「食事? お前と? いつも昼食なら一緒に摂ってるじゃないか」
「まあ。でもお前最近食欲ないだろ。気を紛らわしながら食べた方が食べているって侍女から聞いたぞ」
「ぐっ、何でそんなこと聞いて……はあ、わかった、今日の夜だな?」
「ああ、白鳥の間を借りている。そこに七時頃来てくれ」
何故わざわざ白鳥の間なのか。数ある王族のみが使えるダイニングルームで、白鳥の間は王妃が使うことができる部屋だ。しかし、今王妃はいないので、使う人はいない。だからこそなのかもしれないが、ギルバードのチョイスにレオンハールは苦い表情を浮かべた。そもそも、王宮のリビングでの食事を当然のように誘う男爵令息とは一体何だ。今更な疑問ではあるが、つい考えてしまい、一人真顔になってしまった。
簡単に湯あみを済ませ、着替える。約束の時間に白鳥の間に向かえば、既にギルバードは来ているようだった。
「ギル、待たせたな」
「いえ、殿下、私も今来たところですので」
入ってすぐ脇に控えていたギルバードの声にビクリと体を震わせる。何故こんな場所で待っていると聞こうとして、視界の端に捕えたものに今度こそ動きを止めた。
「……父、上?」
「私がギルバードにお願いしたのだ。そう、微妙な顔をしないでくれないか?」
「いえ、そんな、……へ? え、ギルに、父上が?」
そう、入って真正面の一番奥の席にレオンハールの父親、つまり国王陛下のレイトウェル・ロール・ヴェルランドが座っていた。
どうしてギルバードに嘘までつかせて顔を合わせようとしたのか。そんなことしなくても陛下が呼んでいると言えば断るはずもない。
「陛下からの呼び出しだと知ったらお前身構えただろう?」
「うっ」
「陛下も、ずっとうじうじ悩んでいるようだったからいい加減どうにかしたくてな。だから、オレから仲介しようかと名乗り出たんだ。そろそろお互いに話もしていないのに勝手なイメージで決めつけてたたらを踏まれていてもどうにもならん。この際だ、きちんと腹を割って話し合ってくれ」
ギルバードはレオンハールの背中を押してレイトウェルが座る席の脇の席まで連れていく。椅子を引いて座らせられれば、ギルバードが後ろに下がった。まさかここで二人きりにするつもりかと縋るような思いで振り返れば、暗い緑の瞳と視線が交わる。その瞬間、彼はげんなりとした表情を浮かべた。
明らかに崩れた顔に思わずたじろぐ。しかし、ギルバードの視線が僅かに自分から逸れていることに気付いて、ゆっくりと振り返れば、そこには自分と同じように情けない表情をした父親がいた。
「いなくなりませんよ。夕食、オレにもご馳走してくれるって言ったじゃないですか」
「しかし、」
「ちゃんと一番端の席で頂きます。けど、自分の息子とはちゃんとご自分で話してください。大体、陛下がそんなんだから二年経った今でも、オレがレオンと友達になりに来たのはオレの母親の命令だからって思ってたんですよ? 実際は貴方からのお願いで、強制されたものでもないのに。陛下がレオンのことを心配して子供の中で一番信頼を置いてくれているオレに声をかけ、差し向けたんだってくらいはご自分で説明しといてください! お蔭でレオンの絶望した表情を見る羽目になったんですから」
「う、うむ、それについては、すまなかった」
十歳の子供の言葉に国王陛下が謝っている。そんな異質な光景に開いた口が塞がらなかった。一体何が起きているのか。レオンハールはよく理解できなくて二人の顔を交互に見つめた。縋るようにギルバードを見つめれば、彼は少し悩んだ素振りを見せつつ、溜め息をついた。そして、助け船はこのことについてだけですからねとレイトウェルに前置きをし、口を開く。
「今言った通りだ。オレがレオンに友人として傍に仕えるようになったきっかけは、そもそも陛下がオレを呼んで、レオンの友人になってくれって頼んできたからだ。国王陛下の命令ならばと最初は口にしたが、強制したものに意味はない。一度会ってみて、オレなりに付き合えるか判断して関係を持ってほしい。そう陛下としてじゃなく、レオンの父親として、オレにおっしゃった。ただ、オレの母親がそう命令してきた時と時期がかぶったんだ。レオンに会いに行くっていう理由をどう母親に言うべきか悩んでいたから、むしろ助かりはしたが」
「父上が、ギルを? 本当に?」
「ああ」
「父上は……僕のことを疎ましく思っていたのではないのですか?」
レオンハールの実母レンテーナが亡くなってから今まで、レイトウェルと会話をしたのは数える程度。話しても公務のことや、簡単な会話だけ。しかも、レオンハールの質問に対して、ああ、そうだ、という一言で返ってくることが大半だ。だから、ずっとレオンハールとは話をしたくないと思っているのでは、と思っていた。レンテーナのことをもう愛していないからメリエラを娶り、もう忘れてしまった妻の子供だから愛を注げないのかと。たった一人の息子であっても、もうどうでもいいのかもしれないと思っていた。
「まさか! そんなはずないだろう!」
「ですが、だって……」
「陛下、そう誤解されてもおかしくないと、以前おっしゃいましたよ」
「ぐっ」
「というわけで、今度こそちゃんと話し合ってくださいね?」
無表情の圧力をかけられて親子二人して身を固くした。弾かれるように首を縦に振れば、ようやくギルバードは一番端の席に座った。長いテーブルの端と端。きっと会話など聞こえないだろう。だから好きなだけ話せとギルバードは言っているわけなのだが、レオンハールは困った顔をしてレイトウェルに向き合った。何を話せばいいのか。悩みながらもせめて食事を勧めればいいのかもしれないが、せめて一言くらい交わしてから口にしたかった。じっと料理を見つめて言葉を探していれば、相手の方から声がかかった。
「まず、言っておくが……、私はお前を疎ましく思ったことなど無い」
「……ッ」
「あいつ、メリエラはお前を殺すことで自分との子供を後々作り、その子を王太子として育てる企てだったようだが、それも有り得ない」
「え?」
「私が愛したのは、レンテーナただ一人。あいつ以外の妃など、本当は必要なかった。彼女を愛せたその事実があれば、もう私の代で王妃などという立場は必要ない、そう思っていた。いや、今でもそう思っている。彼女以外、私は愛することも無ければ一緒に眠ることもない。けれど、お前は違うだろう? きっと、母が恋しくなる日が来るはずだ。そう思って、当時一番女性らしく、気遣いのできたメリエラを妃にし、お前のことを自分の子供だと思って育ててほしいと頼んだのだが……上手くいかなかったようだな。それどころか、この世で一番大切な存在を、もう少しで失うところだった」
呻くように訴えられた父の言葉にレオンハールは絶句する。そんな風にレイトウェルが思っていてくれるなんて知らなかった。いつだって国王としての立場で嗜めることはあっても、ほとんど褒めたこともなかった。だからこそ、自分には王子としての価値しかないと思っていたのだ。
「レオンハール……今まですまなかった。こんなにも、お前を苦しませていたのだな。それなのに私は気付かず、お前とどう接していいのかわからぬからとお前から逃げ続けてしまった」
「……いいえ、いいえ、父上。僕も、同じです。僕は父上のたった一人の息子。僕にとって父がレイトウェル・ロール・ヴェルランドただ一人のように、父上にとっての息子も僕一人。お互いに経験のない触れ合いに戸惑い、だからこそ今まですれ違ってしまったのです。ですが、今日、父上の本当の心根を聞くことができました。僕は、それだけで……報われる思いです!」
ずっと、唯一の肉親であるレイトウェルに対して、どこか怯えていた。いつかいらない子供だと、自分は本当に王子としてでしか価値がないと。口にされてしまうかもしれないと。そう思うと踏み込むことができなかった。母はいない。信頼できる従者も友人もいない。きっとこのまま自分は孤独と戦って生きていくのだろうと。
けれど、レイトウェルもまた、同じように悩んでいた。そして、少しでもレオンハールが寂しくないように不器用に動いていたのだ。王妃については上手くいかなかったが、ギルバードをレオンハールに仕向けてくれたことは、本当に救いだった。
親子としての触れ合いが無くても、それでもお互いに愛し合っていたのだと、嬉しくて涙が零れた。今まで、どれほど寂しくても、どれほど悲しくても零さなかった熱い滴を止める術は知らず、ただただ頬に流した。耐えかねたギルバードが食事を中断してハンカチを差し出すその時までずっと。
後になってそのことについて考えると顔を真っ赤に染めて悶えてしまう。十歳になって幼稚な行動をしてしまったと。しかし、そんなレオンハールにギルバードは淡々と言葉を返すのだ。
父親と話をすることをずっと駄々を捏ねていたときよりもよほど素直で年相応だった、と。
レオンハールの唯一無二の友人は、王子殿下である彼相手でも容赦がない。改めて思い知るのだった。
◇◆◇◆◇◆
王族に付きまとっていた黒い影は無くなり、すっかりいつもの日常に戻ってから二年が経った。レオンハールとギルバードはあの時と変わらず未だ共にいる。十二歳になった二人は今年から社交界デビューだ。
「うぅ……気持ち悪い、僕は帰る」
「馬鹿なことを言うな。緊張で気持ち悪い王子なんて示しがつかないだろ。いつも大人相手に議論しているじゃないか。今更自分達と同年代の子供と会話することに怖気づいてどうする」
「そう言うがな! むしろだからこそ! 同年代の子達と何を話せばいいんだ! しかもこれはただ顔を合わせて終わりって言うお気軽なお茶会ではないんだぞ! それに、どうしてお前はそんなに落ち着いてるんだ。僕と一緒にいるだけでほとんど人と関わることのないお前の方が緊張するべきだろ!」
何てことはないだろうと言われて気持ちが楽になればいいが、それよりも呆れているギルバードの態度が癇に障る。レオンハールが言ったように今日のパーティーは社交界デビューを記念しただけのものではない。いや、本来ならその意味でしかない貴族同士の顔合わせのためのパーティーなのだが、このパーティーに王子が参加する時点でそれ以上の意味が含まれている。
貴族同士の顔合わせと同時に、王子の婚約者候補を探すための顔合わせなのだ。そのプレッシャーが知らず知らずにレオンハールに圧し掛かっている。誰かに何かを吹き込まれたわけじゃない。父親であるレイトウェルからは自分と同じように愛し愛される相手と一緒になってほしいから慌てるつもりはないと言われた。それでも、レイトウェルと前王妃レンテーナが婚約者になったのは何と十歳だと言う。その前から親同士が仲良く、幼馴染として交流があったからこその年齢だが、レオンハールが焦ってしまうのは仕方ないことだろう。
何たって、レオンハールはこの国では唯一の王子。つまり王太子になるのは必然であり、決まっている未来だ。彼の婚約者になるということは王太子妃になるということ。早い段階から婚約して、妃教育を受けてもらわねば困るのは本人だ。成人してから婚約するのと、それ以前に婚約するのでは、教育にかけられる時間が全く違う。愛する人と一緒になりたいと思うのは確かだが、同時に相手になるべく厳しい環境を与えたくもなかった。
「当たり前だろう。オレなんか、誰も気にはしない」
「……はあ、あのなあ、その考えはそろそろ捨てろ。お前は大分この国では特例なんだからな」
今度はレオンハールが呆れる番だ。
二年前、王子暗殺未遂事件をきっかけに、ギルバードは少し立場が変わった。本来なら親族、しかも母親が犯した罪だ。同じ刑とはいかずとも、子供であるギルバードも止められなかったことを咎められた可能性は大いにある。もちろん、まだ十歳の子供にそんな責任はないのだが。それでも、貴族の中にはこの機会に見せしめのように口を挟む者はいるのだ。けれども、それを見越したレイトウェルがギルバードに褒美を与えたのだ。
血の繋がり故に本来なら逆らうこともできない母親の言葉に抗い、十歳という幼さで、しかもたった一人でレオンハールを救ったとして、社交界デビュー前に騎士爵を拝命したのだ。個人に与える爵位で、地位としては低いものの、その扱いは異例でしかなかった。しかし、爵位を与えたことでギルバードは正式にレオンハールの専属護衛兼従者として認められた。今まではただの話し相手としか紹介できなかったのが、かなりの出世だ。しかも、護衛という立場も加わったので、騎士団にも名が置かれるようになった。それでも、彼が優先されるのは王子の従者としての立場。合間に訓練に行くことはあるが、ほとんど今までの生活と変わらなかった。
今日のパーティーは王子殿下との挨拶が一番の目的ではあるだろうが、そのレオンハールが認め、そして国王陛下直々に騎士爵を拝命したギルバードに注目が集まるのは必至だ。そのことに、どうして本人は気付かないのだろうか。
「本当、身に余る身分だな……肩が凝る」
「不敬だぞ、それ」
「はは、確かに。ところで、今日のパーティーには確かあのルミエーレ公爵の娘が出ているんじゃないか?」
あっさりと話題変換されて不満顔を見せるが。これ以上何か言っても無駄なことを悟り、その話題に乗ることにした。
ルミエーレ公爵とは四つある公爵家の中では一番下の地位になる公爵家だ。他国から王女が降嫁したり、この国の王女が降嫁したり、または娘が王妃として迎え入れられたりすることがある公爵家ではあるが、このルミエーレ家は唯一王家との血の繋がりがない家だった。実績を積み上げて、侯爵まで上り詰めたその後、王家に多大な貢献をしたことが認められ、公爵へとのし上がった実力を持ち合わせている。
だからこそか、現ルミエーレ公爵閣下は財務大臣を担うほどの実力を持ちながらも、物腰は柔らかで親しみやすい人物だ。王家の血を入れてもいないのに公爵に昇格したことを、今でも恐れ多いと謙遜するばかりで、レオンハールに娘の存在を口にはしたが、売り込むことはしてこなかった。それどころか、レオンハールが手掛けた政策に優しく、けれども的確に評価を下してくれていた。その真摯な態度に密かに叔父のように親しみを持って接している。常に傍にいるギルバードにはそのことに気付かれているのだろう。
「あのルミエーレ公爵がいつも以上に表情を崩して語られるご令嬢だ。レオンも仲良くなれればいいな」
「お、ま、え、はあ! そういうことを言うな! 意識してしまうだろうが! これで上手く会話できなかったらお前のせいだからな! 僕が緊張して噛んだらどうするんだ!」
「ふっ……」
「笑うな!」
顔を背けて肩を震わせるギルバードに怒鳴るように言い返すレオンハールの姿をその場にいる従者達は微笑ましく見守った。いつだって肩を張って王子を演じていたレオンハールの姿はもうない。そしてきっと、これからもそんな姿を見ることはないだろう。
黒く、寡黙な騎士が傍に仕える限り、この国の王太子は自由の羽を羽ばたかせるのだ。
これにて第一部は終わります。
次回は王太子殿下×公爵令嬢のお話になります。
もちろん、主役は護衛騎士なのでそちらも出張ります。