王子殿下は自称友人を追い返したい
王太子+護衛騎士の邂逅編。
幼少期編です。
最初、一話にまとめていましたが、長く文字が続くと読みにくい気がするので一万字前後に区切る作業を行わせていただきました。
雲のない青空が広がる初夏の日のことだった。先日誕生日を迎え、盛大にお茶会を催し祝ってもらったばかりの彼は、八歳を迎えたお祝いと称して、一人の少年を紹介された。黒い髪と暗く、どこか冷めた色の緑の瞳を向けてくる彼の名はギルバード・ローウェイ。第三騎士団の騎士団長を務めるローウェイ男爵の第一子である。
そして、紹介された方は眩い程の綺麗な白銀の髪と、空のように薄い青の瞳をした、大人も子供も性別も関係なく、思わずうっとりと見惚れてしまうほどの美貌を持ちながらも、ギルバートと同じくらい表情が無い。彼はこのヴェルランド王国の第一王子、レオンハール・ヴィル・ヴェルランド。第十三代国王、レイトウェル・ロール・ヴェルランドの一人息子だ。
同い年の二人は、今後遊び相手として交流をしていくために引き合わせられた。それは王妃の提案であり、同時に国王陛下が許可をした……つまり、命令でもある。そのため、真意はどうあれ拒否することは許されない。八歳とはいえ、そのことを十二分に理解している二人はこうして顔合わせの場へとやってきたのだ。
「ほら、何しているの、ギルバード。王子殿下の前よ」
「……お初にお目にかかります。ローウェイ男爵が息子、ギルバードです」
「ああ。レオンハール・ロール・ヴェルランドだ」
お互いに名前を口にして、そして黙る。どちらも真顔である。あまりにも子供らしくない様子に、ギルバートの母も王宮に勤める侍女や護衛も戸惑い顔だった。無言で向かい合う子供に、どうにかしなければと思うものの、侍女や護衛が口を出す訳にはいかない。唯一口を挟めるのはギルバートを連れて来た母親しかいないのだが、彼女はわざとらしく声を上げた。
「すみません、殿下。私、メリエラ様にお茶に呼ばれてますの。私がいてもきっとギルバードと仲良くできないと思いますし、暫く席を外させていただきますね」
では、後は若いお二人で。なんて、どこぞのお見合いのような台詞を残してそそくさと退場してしまった。おいおいと心の中でギルバードの母親に非難の声を上げるその他は、それでも止める権利はないので見送るしかない。残された二人はやはり暫く無言で向かい合った。
重い空気にどうしようと周りの大人たちばかりが焦り始める。流石に誰かが声をかけるべきだろうか。そんな風に思った矢先、まるで痺れを切らしたかのようにレオンハールが口を開いた。
「悪いが、私は誰とも仲良くなるつもりはない。父上の命令で君とは顔を合わせたが、遊ぶつもりは一切ない。私にはやることが多いからそんな暇がない」
「……」
わかったらさっさと帰れと言わんばかりに睨みつけられたギルバードだが、それでも表情は変わらない。もう一度無言が空間を支配する。けれども、しばらくして今度はギルバードが口を開いた。
「……けれど、殿下と話し相手になる命令を受けているので、会わないわけにはいきません。明日から、毎日通わせていただきます」
「は?」
予想だにしなかった返答にレオンハールは目を丸めた。会わないことはできないと言われることは予想していた。レオンハールが何と言おうが、結局は二人が顔を合わせるのは王命があるからだ。だからこそ、この場にもレオンハールは出なければいけなかったし、ギルバードも逆らえるはずがない。レオンハールの友人となれと言われたのなら、どれだけレオンハールが嫌がってもこれから何度も顔を合わせなければいけないだろう。
しかし、それはあくまでも〝友人〟として、〝話し相手〟になれというもの。毎日顔を出す必要はない。というよりも、不可能だ。何故なら、レオンハールは先ほど口にしたように第一王子として、未来の王太子として勉学に励まなければならないからだ。朝から晩まで勉強と稽古でタイムスケジュールは真っ黒と言っても過言ではない。それなのに、この男は毎日顔を出しに来ると言う。つまり、毎日こうして時間を設けろと言っているようなものだ。ふざけているとしか言いようがない。
「何を馬鹿なことを。私はお前のように暇ではない!」
「承知してます。このように、殿下が時間を割く必要はありません。ただ、私が殿下の傍にいるだけです」
つまり、勉強や稽古をするレオンハールの傍に、ギルバードはただただいるだけ、ということだ。
そんなことをして何の意味があるのか。話し相手にする気はないと言ったレオンハールに対しての嫌がらせか。そんな風に思ってしまうほど、レオンハールにとって不快な提案だった。
いくら同い年と言えど、会ったこともなかった少年と何を語れと言うのか。意味もなく、どうして毎日顔を合わせなければならない。しかも、自分は勉強をしているのを、この少年はただ見ているだけの状態だ。意味がわからない。それでは護衛や侍女と同じではないか。いや、自分の世話や守護をするわけではないのだ。それ以下と言っていい。ただただ視線を送って不愉快な思いをさせる銅像だ。
意味がわからない!
「いらん!」
「殿下が何と言おうと、来ます」
「そんなに言うなら、その旨をきちんと父上から許可をもらうことだな! もし、許可をもらえなかったら今後一切お前を話し相手としてここに入れることはない!」
どうせ無理だろう。そんな意味もなく、時間の無駄になることを王が許すはずもない。レオンハールは勢いに任せてそう言い捨てて、ズカズカとその場を後にした。
これでいい。これで煩わしい存在から解放されるだろう。そう思っていたレオンハールだが、予想外なことにギルバードはその日のうちに、王の元へ許可をもらいに自らの足で出向いた。そして、一言二言口にすれば、あっさりとレイトウェルは許可を下したのだった。
◇
こんなはずではなかった。幼い身でありながらも頭痛を覚えてレオンハールは歯噛みしたくなる思いを抑える。
朝から夕方まで、勉学と鍛錬で一日が終えるレオンハールの朝はそれなりに早い。貴族とは言えど、ただの男爵のローウェイ家は貴族街にはない。ギリギリ貴族街に隣接する中級層の住宅地に建っている。父が騎士団長というだけではそれほど裕福な暮らしができるはずもなく、専用の馬車も持っていない。となれば、乗合馬車を使うことがほとんどだ。決まった時間にしか来ない馬車に幼い身で乗り、城に向かうなんてきっと長続きはしない。
どんな方法を使ったのか、あっさりと国王から許可をもらい、宣言通り第一王子に毎日会うことが許されたギルバードだが、きっと一週間もあれば飽きて来なくなるだろう。そうレオンハールは高を括っていた。
それなのに、だ。
「殿下、集中できてませんね?」
専属の教師の苦言にレオンハールは顔を顰めて返事をする。集中できるはずがない。ここ一か月、ずっと、ずっと、無言で背中を見つめられているのだから。気に入らないと思っている同い年の貴族の男に。
ギルバードは自分の言葉を曲げることなくあの日から一日も欠かさずに城に通っている。授業の始まりから終わりまできっかりと。まるで監視されているようで気分は悪くなるばかりだ。もちろん、いつだってレオンハールの周りには人がいる。侍女はもちろん護衛の騎士など、一人になれる時間なんて実質無いも同然だ。それなのに、ギルバードだけはいてはいけないなんて、そんな意見はただの我がままでしかない。特に、国王の許可をもらってしまった今となっては。
レオンハールはちらりと後ろを見やる。すると、漆黒の瞳と視線が絡んだ。すぐさま前を向くものの、たった一瞬視線を向けただけで目が合うということは、彼が一時も自分から目を離していない証拠だ。舌打ちしたい気持ちを押し止め、どうにか溜め息をついて気持ちを宥めた。
気になる。気になって仕方ない。どうでもいい相手なのだから無視をすればいいし、いない者として扱えばそれでいいはず。そう思っているのに、居心地の悪さがいつまでも拭えずにいた。
「……~~! おい!」
「……何ですか」
「お前の視線は気が散る! どうせ話し相手にもならないんだ! お前、ここに座って一緒に受けろ! 友人になりたいというなら、私の苦労を少しは味わってみろ!」
後ろで一方的に視線を向けられているから悪いのだ。そう考えて考え無しに提案をすれば、無でしかない彼の表情が僅かに崩れる。少しばかり大きく見開いた目が驚きを示していて、そんな彼に僅かだが溜飲が下がった。
思い付きの提案だったが、なかなかにいいアイディアじゃないか、とレオンハールはほくそ笑んだ。どの貴族も王子殿下と言って自分を持ち上げ、媚びを売るばかりで自分の苦労をわかりもしない者ばかりだ。実際自分で味わってみれば、こんな風に関わること自体後悔するに決まっている。
(大体、こいつ、本気で僕の友人になる気があるのか!)
自分の友人になるという任務を受けたのに早々に追い返されそうになったから苦し紛れに側近をやっているだけじゃないのか。一緒にいると言っても、ギルバードは無口でほとんど話しもしない。仲良くなる気が微塵も感じられないではないか。
レオンハールがいくら嫌がってもこうして毎日顔を出し、宣言通りに傍にい続けるその様子からだと、我の強い性格に思えたが、それも違うのだろうか。何か思うことがあって傍にいるのなら、今提案したことなど無視しているだろう。
(僕の意見を無視して傍にいるくせに、一緒に勉強をするのには従うのか)
一体何がしたいのか。レオンハールにはわからない。とにかく、今はこの不愛想な男が少しでも自分と同じ苦労を味わって後悔すればいい。そう思ってペンを取った。
「では、ギルバード。この国と友好関係にある隣国は何というところですか?」
「ニューギュー国とレモネード国ですか?」
「……いえ、違いますね。惜しいと言うべきなのか」
「何だその名前は! ミューギュー国とレオネード国だ。お前、それくらいのことなら庶民も知っている常識問題だぞ。それだけじゃなく、貴族の名前もまともに言えてないじゃないか。それでも男爵令息か?」
貴族だからと言って誰もが教養があるとは言わないが、マナーとして公爵、侯爵、辺境伯程度の上位貴族の名前くらいは把握しているのが普通だ。いくら騎士の家で、教養よりも剣術の稽古を優先するような家であっても、社交に出る以上常識として身に付けているものだ。それなのに、誰もが知っている友好国や貴族の名前を先ほどからギルバードはことごとく間違えている。彼の行く末が心配になってきてしまう。
「すみません、横文字が苦手で」
「……? 横文字とは?」
「……いえ、何でも」
不思議な言葉を口にした少年は僅かに固い口調で訂正し、国を覚えようと何度か復唱している。その姿を興味深そうにレオンハールは眺めていた。
そうして、その日から勉強だけでなく剣術や馬術等の稽古事にもギルバードを付き合わせることになった。社会や地理等は絶望的な暗記力を見せたギルバードだったが、意外にも算術や国語は出来がよかった。むしろレオンハールよりも問題を解くのが早いくらいだ。そのことに密かに歯噛みしていたなど、口が裂けても言えない。
稽古事については、想像通り剣術はかなり上手い方だった。同い年でまだお互い体格の差も出ていないことから、これ幸いと打ち合い稽古をさせられたのだが、豪快な剣を使いそうな見た目に反して、剣裁きがとても鮮やかで隙がなかった。押し合うのではなく、弾き合うのではない。レオンハールが振った剣を毎回どんな角度からでも絡め取って奪ってしまうのだ。
「くそ、馬術は私の方ができるのに!」
おかしい。何故苛ついているのが自分なのか。レオンハールは思わず唸る。勉学でも稽古でも、ギルバードに敵わないものがあるなんて、次期王太子として名折れではないか。
声無くショックを受けたレオンハールは、その日ギルバードが帰った後もなかなか調子が戻らず、早い時間にベッドに潜り込んでしまった。
◇◆
それから更に一週間。毎日ギルバードと肩を並べて勉強をし、向かい合って剣を交え、共に馬に跨って走らせた。結局、どれだけ予習復習を頑張ってみても、レオンハールはあれから一度もギルバードに算術で敵うことはなかったし、剣術で一本取れたこともない。逆に未だにギルバードは上位貴族の名前を半分も覚えられていないし、馬も歩かせることしかできない。
お互いに得意としているものは別で、その差が縮む気配はなかった。もちろん、ギルバードは元々争うつもりはないので、特段気にした様子はない。けれども、レオンハールはどんどん不機嫌になっていく。どうして勝てないのか。どうして敵わないのか。
物心ついた頃から毎日勉学と稽古に明け暮れているレオンハールは、同い年のただの男爵家の令息に負けることは許されない立場だ。全て負けているわけではないにしても、それでも敵わないものがあるだけで、自分が許せない。王族として、未来の国王として、まだまだ足りてないものが多い証拠だ。
今のままでは足りないのだ。そう思い、ギルバードが帰ってからの勉強時間を倍に増やした。睡眠時間を削ることになるが、このまま負けたままではいられない。その日やった内容はもちろんのこと、明日やる内容まで一通りの勉強をして、ようやく眠る。そして早朝、いつもより一時間早く起きて剣を振るった。少しでも早く振れるように、剣が自分の手に馴染むように。
そんな生活を続けて一か月近く経った頃。レオンハールの身に異変が起きた。
(何だか、頭が痛いな)
まるで貧血のように頭がクラクラして、鈍い痛みで顔を顰める。熱っぽくはないので、きっと一時的なものだ。そう思い込んでどうにか教師の言葉を聞いていたが、ぜんぜん頭に入らなかった。
昨日あれだけ勉強したのに、今何を話しているのかすら理解できない。これはヤバイと焦る気持ちで耳を澄ます。
(駄目だ、頭が痛い)
そう思ったらそれだけしか考えられなくなる。ズクンズクンと鼓動に合わせて響く痛みに目を強く瞑ると、ガタンと何かが動く音が近くから聞こえた。
「ギルバード殿?」
「……殿下の顔色が悪い」
ギルバードの声が思った以上に近くから聞こえて思わず肩を揺らす。僅かに目を開けて視線を動かせば、ギルバードはすぐ脇まで移動していた。いつも無でしかない表情が、少し強張っていて怒っているように思える。
「無理をし過ぎだ」
「無理など、していない」
「あまり寝てないんじゃないか?」
「寝ているさ」
「目の下に隈がある。それに顔色も悪いし、今は頭でも痛いのか?」
「私に、構うな」
心配してくれている。わかってはいるものの、いつも素っ気ない言葉しか返していないレオンハールは、優しい彼にどう返せばいいのかわからない。頭痛が酷いのは確かだし、睡眠時間もあれからどんどん減るばかりで、起きている時間は常に勉強か訓練に費やしていた。体が限界を迎えていてもおかしくはない。
それでも、張ってしまった意地の解き方を知らない。人との歩み寄り方も教わったことがない。話し相手だと、友人だといきなり言われて、毎日のように顔を合わせて二か月近く経って、それでも未だに彼とどう接していいのか迷子だった。
生まれた時から次期王太子のレッテルを張られていた彼は、素の顔を自分で忘れてしまっているのだ。
「先生、いいから先を――ふぐっ!」
どうせこの場で一番地位が高いのは自分だ。それならこの男を無視して先に進んでくれと頼めばいい。そう思い声を上げた瞬間だった。頭を思い切り掴まれたのだ。
何故? 何故、自分の頭を掴んでいるのか、この男は。そんな無礼な行いをされたことは生まれてこの方一度もない。しかも頭が痛いことを知りながら、だ。
「馬鹿か、お前は」
「な!」
「体調が悪いのに勉強してどうする」
馬鹿と言ったのか、自分を。あまり人と比較されてはいないが、同年代の貴族の子供達の中から群を抜いて優秀だと評価されているこの自分を。
驚きで言葉を無くして自分を見下ろしている男を睨みつける。しかし、その顔を見て違う意味で声を失った。
いつも、無でしかないその表情は珍しく感情を露わにしていた。しかも、怒りの感情を。無表情とあまり差はないものの、深碧の瞳には鋭さを滲ませていて、大人顔負けの迫力を放っている。父親と対峙する時でもこんな威圧感を覚えたことはない。
「思うように動かないのに剣術してどうする。脳も体も何もかも疲労している時に、無理をしても故障するだけだ。疲れたら休む。休んだらまた動く。ただただがむしゃらに頑張ったところで、悪い方にしかいかない上に、時間の無駄だ」
淡々とした物言いにレオンハールは衝撃を受けた。王子の自分にこうして説教をする人間など今までいなかった。更に自分の時間の使い方が無駄だとまで言われて、衝撃以外の何物でもない。先ほどから驚くことばかりですっかり思考は動かなくなっている。硬直していれば、ついに彼は強硬手段とばかりにレオンハールの体を持ち上げた。
「わっ! 何をする!」
「今日はこれで終わりです。寝ますよ」
「何を勝手に! 下ろせ! それに僕が寝たらお前一人で先に進む気だろう! そうはさせないぞ! この僕が、王子である僕が、お前なんかに後れを取ってなるものか!」
今までこんなに苦労していたのは、元はと言えばこの男が原因だ。ギルバードに負けたくなくて、差を広げたくて、ただがむしゃらに突っ走っていたレオンハールは、その原因となる男に阻止されている事実に苛立ちしかない。絶対にこの男はレオンハールが寝ている間に一人勉強を進めるだろう。何の根拠もなく思った。
頑ななレオンハールに普段はあまり表情を出さず、無でいることの多いギルバードもこれには溜め息を零す。
「では、殿下が寝ている間、オレ……あー、私はただ傍で貴方を見守っています。勉強も訓練もしません。それで、どうです?」
何がどうなのか。一体何の妥協なのか。もはや何を揉めているのかもわからなくなってきたレオンハールはついに頭を押さえて蹲った。
「殿下」
「ああ、もう! わかった、それでいい。それでいいから、少し、黙れ」
いつも何か声をかけてもああとかはいとか一言で済ます子供らしからぬ寡黙さを貫いているくせに、今日に限ってそんなに饒舌にならないでほしい。煩わしさに投げやりに答えれば、同時に体が揺れ動いた。
「なっ! にを、して!」
「運びます。動くのもお辛いでしょう?」
「いらん! 下ろせ!」
「すみません、殿下の部屋に案内してもらえますか?」
何故、自分と同じく子供であるギルバードに横抱きにされているのか。意味がわからず羞恥で頭に血が上る。心配する振りをして自分の醜態を見せびらかしたいのだろうか。こんな運ばれ方をしたら瞬時にあらぬ噂が流れるに決まっている。軟弱だとか、自覚がないだとか。今までだって、少しの失態を見せただけで翌日嫌味を言われてきたのだ。体調を崩した時点で覚悟していたことではあるが、それとこれとは話が別だ。
「下ろせ! お前の手など必要ない!」
「それなら振り払ってみてください。いくらオレが多少貴方より体が大きいといっても貴方が本気を出せば逃げることは可能でしょう」
だから、そんな言い合いや争いをする元気がないから黙れと言ったのに。どれだけ罵倒しても、どれだけ否定しても、どれだけいらぬと言っても何も聞き入れない。何が友人か。少しは自分の言い分を聞いて、従う意思を見せてみろ! そんなことも絶対しない彼に、もちろん心を許すはずもない。
実力はある。口にしたことを実行するだけの意志の強さも認める。ギルバードという人物がどんな者か。それさえ理解したら少しは歩み寄れるかもしれない。僅かに心の中に生まれていた気持ちは、けれども一気に消え去った。
こいつとは絶対に相容れない! 一生友人なんてものになるはずがない!
グラグラ揺れる脳みそで、レオンハールは強くそう思ったのだった。
それから丸一日熱にうなされてベッドの中で過ごしたレオンハールの傍らには、宣言した通りギルバードが常に傍にいた。一方的な言い方ではあったが、確かに彼は勉強をしている様子もなければ、剣を振っている姿もなかった。ただ静かに傍にいて、起きた時は侍女より先に水を差し入れたり具合を聞いてきた。実は侍従なのでは、と思う程の甲斐甲斐しさに更に調子が狂いそうになる。
「お前は暇なのか」
すぐ傍にいるのに何も話さないというのも気まずく、つい口に出したのはそんな言葉だった。流石にこれは失言だとすぐに後悔したが、ギルバードはさほど気にした様子もなく軽く首を傾げた。
「元々、毎日殿下との時間で予定が埋まってるので、暇かどうかと聞かれたら、正確な答えは持ち合わせていません」
「……はあ」
違う、そういうことではない。ツッコミたいが、そんな元気までは戻っていなかった。
怠さを残した状態で視線だけを隣に向ければ、無の顔でやはり彼は立っていた。レオンハールがこの部屋に運ばれてから既に半日は経過しているはずだが、その間ギルバードはこうして立って待機していたのだろうか。それはあまりにも大変ではないか。想像しただけでも疲れそうな状態に、つい問いかけようとしたが、どうにか思いとどまる。
(一つ、わかったことはある)
一緒に勉強し、稽古を受けた。けれども、積極的に会話をしたわけではないので、未だに掴めていないギルバードの性格だが、それでも彼がいつだって正直な言葉を口にしていることだけはわかった。言葉数は少ないけれど、たまに長く話した時の言葉は、どれも飾りっ気のない直球な言葉。それは、彼が本当に思っていることを口にしているからだろう。何より、彼が口にしている言葉には何の媚びも打算もないのだから。
つまり、嘘がないのだ。
もちろん、今まで口にしてきた言葉の中に、嘘が一つもなかったかなんて聞かれても、証拠なんてない。それでも、彼の言葉を疑うことは今までほとんどなかった。彼の言葉に反論することはあっても、だ。
親しくはならない。友人には絶対にならない。そう決めていたはずなのに、勝手に意識して、勝手に対抗心を燃やし、暴走した結果、結局心配をかけて世話されてしまっている。どうにもならない空回りっぷりに滑稽だと自嘲する。
「情けないな、これくらいで倒れるなんて」
「お言葉ですが、殿下はむしろ根を詰めすぎです。もう少し気を緩めてもいいのでは? 世間で天才と言われるだけの努力を、きちんとなされているではありませんか」
確かに、世間で自分がどんな評価を受けているのか、きちんと把握はしている。自分にかけられる言葉は、基本的に褒め言葉ばかりだ。しかし、それを除いたとしても、八歳にしては勉学も剣術も馬術も、どれも他の貴族の子供達より上を行っているだろう。だけど、それは当然だ。与えられる教師も、教材も、訓練場も、何もかも一級品なのだ。ここまで揃っていて、他の貴族に後れを取っているようなら王族の沽券に関わる。つまり、この程度のことはできて当たり前なのだ。そんなことを考えていたレオンハールは脇から静かに聞こえてきた深い吐息にハッと顔を上げた。
「納得してないみたいですね」
「……」
「殿下、貴方はまだ私のことを認めて下さってないかもしれませんが、何はともあれ、無茶をしてまた倒れられたら、今度こそ後れが出るかもしれません。ですから、こうしませんか? お互いに、お互いの苦手科目を教え合うというのはどうでしょう?」
「は? そんなことに何の意味が――」
「授業や稽古が終わった後、自主勉学をする時間を、二人で作りましょうってお誘いですよ。得意分野でも、他人に教えるとなれば今まで以上の理解が必要になります。それに、先生に教わるよりも、より積極的に、より深いところまで聞くことも可能では? そうしたら、お互いに抜け駆けすることもありませんし、効率もいいと思いますが」
そう言われてしまうと途端に魅力的な誘いに思う。どれだけ嫌がったところで、結局ギルバードがレオンハールと共にいることは父である国王陛下が許可を出してしまっている。だからこそ、こうして王子の私室に一人入り込める信頼を得ているわけだ。
今更だが、いくら子供相手とはいえ、病に臥せっている王子と二人きりにするなんて不用心が過ぎるのではないだろうか。
「その方法で一か月、続けて効果が見られなかった場合、きっぱりやめてもらってもいいです」
「……」
「それとも、私が殿下に教えることはないでしょうか?」
ないわけがない。だからこそ、躍起になっていたのだから。レオンハールは痛みがぶり返しそうになる頭を押さえる。どれだけ頭を働かせたところで、この男が折れる瞬間を想像することはできない。男爵位の息子とは思えない程、強気で我が強い。つまり、頑固だ。非常に、それはもう面倒なくらいに!
言い出したら聞かないことはもうわかっている。そんな相手に言い返したところで無駄な体力を使うだけだ。
これはもう自分が折れるしかない。そして、そろそろ認めるべきだろう。
彼と共に過ごす時間は、それほど悪いとは思っていない自分の心に。
「お前が私に教えるのは算術と剣術だそれ以外は私が教える」
「はい。一日ごとに交代制でどうですか? それなら二つずつ教えることになりますし、長時間にもなりません」
「ああ」
「あと、もう一つだけ。剣術と馬術の訓練は、間にお茶の時間を挟みましょう。いつか怪我します」
まさか授業の組み方にまで口を出されるとは思わず、レオンハールは今度こそ絶句した。何か言い返そうと考えたが、これも一か月言う通りにして、無効であると説得するしかない。そう自分を説得して、苦々しい表情でわかったとだけ口にしたのだった。
◇◆◇