拝啓、元聖女のお姉さまへ
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世界に数名しか存在できないとされている聖女。それをこのタールベルク王国は幸運にも長年擁し続けることが出来ていた。私は今日も結界に覆われた美しい空の下、城内の一室へと歩を進めていく。行き先はここ数年通い続けている、お姉さまの私室だ。
城内に設置された専用の私室は、王室と同じかそれ以上の広さを与えられている。それはお姉さまが当代聖女であり、生来の豊富な魔力と継承された結界魔法によって国中を守護しているためだ。城内に設置されているのも、国の要である聖女を保護するために他ならない。
だが私はこの部屋があまり好きではなかった。上品ではあるが古臭い家具の数々もそうだが、何故か部屋を入ってすぐの位置に分厚いカーテンが横に大きく広がっていて奥が見えなくなっており、さらにお姉さまの陰気な性格によって部屋全体が重苦しかったからだ。
「お姉さま。今日も顔色が優れませんわね」
「……エリノル」
「言われていた本をお持ちしましたわ。ご希望のシリーズはまだ発刊されてませんでしたから、新規の冒険小説や恋愛小説ばかりですけども」
濁り切った目が実に痛々しい。昔はもう少し明るい方だったと思うが、お姉さまが10歳になる頃には今のような大分暗い性格へと変化していた。もっとも本の趣味は明るい物が多いので、生来の性格は心のどこかに残っているのかもしれないが。
「……いつも悪いわね」
「これは打算ですから、礼など不要ですわ。私が俗世の本をここにお持ちするのも、お姉さまのお心を変化させるために他なりませんもの」
「聖女継承のこと……?」
「他に何がありまして?」
私はこの薄暗い部屋が嫌いだ。だが何としてでも聖女にならなくてはならなかった。何故ならば。
「……殿下の正妃になる夢、まだ諦めていないのね」
そう、エッケハルト王子の正妃になるため。聖女であることが絶対条件である以上、お姉さまから継承して頂くより他に無いのだ。
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『もしかして、エッケハルトおうじさまですか!?』
『え、きみはだれ?』
『わたしはエリノル!グレーティアおねえさまのいもうとですわ!』
私がエッケハルト様と出会ったのは、お姉さまがご婚約してから数年後……私が6歳の頃だった。あの頃は純粋に姉の婚約者として、その意味もよくわからないまま義兄となるエッケハルト様をお慕いしていた。
私が8歳、お姉さまが11歳の頃には、もうお姉さまと同じくらい殿下と一緒に過ごすようになっていた。時々、城にも招待されていたほどだ。
『君は色んな事を知ってるな。別荘地にもよく行くと聞くよ』
『外を見て回るのが好きなのですわ。でもこれくらいは女の子なら普通のことだと思いますよ?』
『普通か……君は面白い娘だな。でもいいことだ。広い見識は実際に見てみないと広がらないから』
暗くジメジメした性格になったお姉さまと、それに合わせたように薄暗い雰囲気の部屋に嫌気が差してきていた殿下は、妹である私とよくお茶会をするようになった。実際のところ、あの部屋のセンスはどうかしている。だから嫌気が差すのもある意味頷けた。
『どうしてお姉さまとご婚約を?』
『彼女が聖女だからだ。生まれつき強い癒やしの力を持つ者に、聖女だけが持つ膨大な魔力を受け継がせることで、国王と国を守護させる……聖女を介して神の奇跡を頂戴することで、国の安寧を図るのだ。この結婚に愛などないよ。まさにただの政略結婚だ』
『結婚とは愛し合った者同士がするものだと思っていましたわ』
『君の言う通りだ。だから本当なら私も好きな女の子と結婚したいのだよ』
共感は同情となり、深く長い同情が異性としての親愛へ変化していった。遠い夢ではあったが、側妃として殿下と結婚することを夢見るようになった。その想いは年月が経つほどに強くなっていく。
10歳の頃には、殿下がお姉さまをどう思っているのかも理解できるようになっていた。そして、お姉さまのお気持ちも同じように。
『ついに君も13歳か。なんだか不思議な気分だよ』
『私もですわ。それにそろそろエッケハルト様のような素敵な殿方を見つけませんといけませんの。姉とは違って、私は聖女ではありませんし……』
『……君が私の婚約者になってくれてもいいんだよ』
『……え?』
『私は君の姉ではなく、華やかで明るい君の事が好きなんだ、エリノル』
『エッケハルト様……!?』
『……だが、君は聖女ではない。きっと正妃には出来ないだろう。それがとても残念だ』
率直な告白だった。この頃には殿下のお心がお姉さまから完全に離れていることは知っていたし、お姉さまが殿下を心から愛せなくなっていることにも気付いていた。だからこそ、ちょうど3年前のあの日、私は覚悟を決めたのだ。
『……殿下。私が正式に聖女となれば、よろしいのですね?』
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あの遠い日の恋心を忘れることは出来ない。……ただし殿下をお姉さまから奪いたい理由は、実はもう一つある。それはまだお姉さまに知られる訳にはいかないが。
「殿下のお心が私にあることは、お姉さまも十分承知していることでしょう?いえ、実のところお姉さまだって、殿下を心からお慕いしている訳でもないはずです。お姉さまから殿下のお話を伺った事がありませんもの」
「……それは」
「それにお姉さまも、この部屋から出て思う存分好きな本を買って読みたいはずですわ。こんなに読書好きなんですものね」
古臭い家具の一つに本棚があるが、その中はお姉さま好みの大衆小説がぎっしりと詰め込まれている。何としてでもとは言ったものの、私に出来ることと言えば、お姉さまが手に入れられない物を餌にして外へ連れ出そうと誘導することくらいだ。
「もうお姉さまも18歳……もうとっくに体は出来上がっていますのでしょう?ご結婚されれば、殿下とお世継ぎを作ることも考えなくてはなりませんのよ」
「……っ!」
「まあよくお考えくださいませ。私はいつでも歓迎しますわ。では、ごきげんよう」
どこか迷うような表情を浮かべたお姉さまから目線を切って、私は堂々と部屋のドアを開けて出ていった。聖女であるお姉さまは私を追う事など出来はしない。あの陰気で、迷いと愁いに満ちた目から距離を離せるのは、まだ聖女ではない私の特権だ。
「……エリノル」
すがるような声を無視して、不快さを両手で握りつぶした。
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タールベルク王城に設けられた一室は、一人の聖女のために設けられた特別な作りとなっている。質素だが品が良い調度品で占められており、しかしやや厚いカーテンによって遮られているため奥が見えない。
一箇所だけ私が顔を見せるための隙間が設けられており、面会はそこで行われている。今日は婚約者であるエッケハルト・タールベルク王子との面会日だが……。
「相変わらず辛気臭い顔だな、グレーティア」
「……殿下は今日も麗しくありますね」
「ふん。心にもないことを言ってくれる」
婚約者同士とは思えない乾いた会話。僅かに私の方が憂いに似た感情が乗っている気もするが、殿下の声は棘そのものだった。
高貴な雰囲気をまとってはいるが、ここはまるで収監所の面会室だ。
最初に面会した時、私達はまだ5歳だった。その時はまだ初々しくも好意を探り合っていたはずなのだが、殿下が10歳になって妹への初恋を語りだした頃から歪んでいった。
「全く、どうしてお前が私の婚約者なのやら。同じ癒やしの力を持つなら、君の妹であるエリノル嬢の方がよほど愛想がいい」
「……そうでありますか」
「何より、こんな薄暗い部屋で会う必要もなく、テラスでお茶を飲みながら談笑できるからな。君に同じことができるか?」
妹とテラスでお茶会を開いたと聞くのも初めてではない。だが治りかけた傷に爪を立てられるような痛みが、シクシクと胸に響く。
「……いえ、私には出来かねます、殿下。私はこの部屋から出ることが出来ませんから」
「はっ!そうだろうな」
それだけ言うと、殿下は今日に限って身に着けていた指輪をこれみよがしに外すと、私の方へ放り投げてきた。
「この指輪は返す」
「……よろしいのですか?」
「ああ。それを身に着けていると、君の辛気臭い空気が漂ってきそうで気が滅入る。もういらないから、処理してくれ」
それは私が殿下につい先日お渡ししたプレゼントだった。私は何も言わず指輪を拾い上げる。
「全くいつまでも私の好みがわからないやつだな。本当に鈍い女だ。エリノル嬢はお前と違って最近の流行をよく知っているぞ」
「……私は」
「わかっている。どうせここから出られないから流行などわからないとでも言いたいのだろう?だが、そんなものは言い訳に過ぎん。時間は幾らでもあるのだから、誰かに調査を頼むなりして流行の最先端くらい把握できなくてどうする。これだからエリノル嬢の方が良いと言っているのだ」
それはあまりに暴論だ。仮に流行の最先端があるとして、それを知るためにどれほどの人と税金を使うことになると思っているのだろう。それこそ、この部屋に囚われているだけの私のために使っていいお金と手間ではない。妹のエリノルはよく本を買ってきてくれるが、あれはあくまで善意だから受け取れるのだ。本人は、打算だと言って聞かないけども。
5歳の時に殿下と婚約して、もう13年。……そう、13年だ。私の境遇を少しは理解してくださってもよいものだが、これほど長い時間をかけても、その程度の信頼関係も築けないというのであれば、確かに私は殿下に相応しくないのだろう。
「……わかりました」
「物分かりだけは良くて何よりだ。ではな」
殿下が席を立ち、部屋のドアを無造作に閉めて出ていったのと同時に、私の目から大量の涙が流れ落ちた。
「……私…どうして、こんな……っ!私だって、出来ること、頑張ってる、のに……っ!エリノルに、だって……っ!!」
聖女になればこの部屋から出られないことは説明してきたはずだった。外の流行については妹が持ってくる本や風聞だけが頼りだった。少ない情報の中から殿下の好みそうな物をお贈りしたり、お話をしたりしてきたはずだった。そのプレゼントを妹に頼んで買ってきてもらう時は、ひどく惨めで、申し訳ない気分になった。
殿下を慕っているはずの妹を利用する、自分の汚さにも嫌悪した。これがこの国の聖女、聖なる女だというのだから、なんという皮肉だろう。私より汚い女なんているのだろうか。それほどまでに私は、私が嫌いだった。
それでも……私は私なりに出来ることはやってきた……と、思う。
たくさん我慢してきた。外の空気を好きな時に吸いたかった。陽の光を全身で浴びたかった。好きな本を自分で選び取って買いたかった。好きな人と一緒にテラスでお茶を飲みたかった。
妹と一緒に、外で遊んでみたかった。
全部我慢することが当たり前だった。当たり前だと教わってきた。誰も、それを褒めては、くれなかったけども。
「……ええ、では、お望みどおりに」
悲壮な覚悟と共に、私の気持ちも一緒に零れ落ちる。そして部屋の奥にある便箋を手に取った。2通の手紙を書くために。
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「エッケハルト」
「はい、父上」
「グレーティア嬢との結婚へ向けて、きちんと話し合っているのだろうな」
またそれか。
「父上、何度も言わせないでください。私はこの婚約が大変不服なのです。あの広いだけで辛気臭い部屋も、彼女の後ろ向きな気持ちも、それにより纏う空気もです。出来れば婚約を破棄し、彼女の妹であるエリノル嬢と婚姻を交わしたい。彼女の方が聡明で明るく、未来の国母に相応しい」
これも今まで何度も言ってきたことだ。どうして分かっていただけないのだろう。しかし、今日の父上はいつもとは少し様子が違った。
「貴様こそ、何故私の言う事がわからないのだ。彼女は聖女だ。もし彼女がこの国に対して愛想を尽かせば災いに包まれることになる。彼女が常に神へ祈り、広範囲の結界魔法を展開してくれているからこそ、王都周辺の魔獣はその数を抑えることが出来ているのだ。聖女とは傷を癒やす存在でなく、神からの寵愛を受け、国を守護する存在なのだと何度も言っているだろう」
「ですから、それならエリノル嬢が聖女の力を継承すれば良いだけのこと。何故父上もそれがわからないのですか」
彼女をそこまで神聖視する理由がわからない。確かに聖女グレーティアが疾病傷病を治癒する力、展開する結界魔法は他の追随を許さないだろう。だが彼女の妹にも治癒は出来るし、聖女の力を継承する儀式をすれば結界の方も問題ないはずだ。
そうすれば私とエリノル嬢が結ぶ深く固い愛は結ばれ、国は安泰。国としても聖女を輩出する名家と繋がる意味ではそれでもいいではないか。
「聖女継承の権限と権利は、聖女を輩出し続けているあの家だけのものだ。たとえ国王であろうともそれに口出しは出来ぬ。神の不興を買う可能性があるからな。それにだ……そもそもグレーティア嬢が暗くなる原因は、お前にもある」
「はい?何故です。私は幼少の頃から彼女と交流してきました。彼女にとって私は理解者であるはず――」
「どの口が言うのだ。エリノル嬢への恋に狂ってからのお前は、彼女と比較し続けている。自分の言葉に棘があることを自覚していないとでも言うのか?」
小うるさい人だ。だが、確かに必要以上に棘を含ませていたかもしれない。あの部屋とグレーティアを見ていると苛立ちが強まるのは確かだ。
「……失礼しました。善処いたします」
「最近、魔獣達の動きが活発化してきている。いざという時に神のご加護が無ければ話にならない。肝に銘じておくのだな」
そう言う父上の声は、これまで聞いた中で最も冷たく、息子に対するものとは思えないほどの軽蔑で彩られていた。だが、それがどうした。
私はエリノル嬢を諦めるつもりはない。エリノル嬢も同じだろう。父上であっても、この恋を否定させはしないぞ。
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ヴァグナー王城の執務室で、俺は6時間ほど休みなしに執務をこなしていた。闘病中の父上に代わり、大量の仕事を捌く必要があるからだ。そしてその仕事量は、隣国タールベルクによってさらに増大していた。
全く、隣国から追い払われた魔獣がこちらに来るせいで、防衛計画の調整や隣国大臣連中との会合、夜会という名の非公式会談が重なるばかりだ。準侵略行為として開戦準備せよと叫ぶ好戦的な貴族もいて、なかなか頭が痛い。
あれは準侵略行為ではなく、単に魔獣を任意の方向に追い払う技量が無いだけだ。あの国は折角貴重な聖女とその血筋を抱えているというのに、それに頼り切った結果内政や軍備強化がお粗末で、文字通り神頼みで運営され続けている。あのままではいずれ手痛い思いをするのではないか。
俺は大きな溜め息とともに、書類仕事を手伝ってくれている壮年の側近に声を掛けた。
「マテュー、今日はこの後どれくらい自由時間を取れそうかな」
「この書類が片付けば2時間ほどは取れますよ、殿下」
2時間か。少し頑張ったおかげで食事と仮眠くらいは取れそうだな。俺は僅かな癒やしを希望にして、残務処理にスパートをかけようと体を伸ばした。
すると、開けていた窓に白い小鳥が止まり、こちらをじっと見つめてきた。……鳥は自由で良いな。少し羨ましい。
「……ん?あの鳥、随分人懐っこいな……」
そう呟くと、小鳥は机の上に止まり……なんと便箋へと化けたではないか。
「手紙でしょうか」
「そのようだ。随分と古風な郵便方法だが、それゆえに高度な魔法だな。開けて読んでみろ。誰からだ?」
「はっ。……こ、これは……!?」
彼は比較的寡黙で、こうして表情を出すのも珍しい男だ。それほどまでに衝撃的な内容なのだろうか。そしてさらに驚くべきことに、彼が笑みを浮かべながら俺に手紙を渡してくるではないか。この男が最後に笑ったのはいつだったろうか?
「これは是非、殿下が直接お読みください。吉報です」
「うん?……おお!グレースちゃんからじゃないか!元気にしてるのかなー」
思わぬ相手からの手紙で、つい童心に戻ったような声が出てしまった。グレースちゃんとは、隣国タールベルクお抱えの聖女様にして、ある意味俺の幼馴染みにあたる女の子だ。この呼び方も彼女から許してもらった呼び方で、俺も彼女にアルと呼ぶことを許している。
かつてまだ隣国が聖女に頼り切っておらず、我が国とも比較的良好な友好関係を築けていた頃、父上の外遊に付き合う形で俺たちは出会った。あの時はわずか一週間程度の滞在だったが、その後も外遊のたびに俺とグレースちゃんは部屋で遊んではおしゃべりし、美味しいお茶とお菓子を食べて過ごした。今まで見てきた女の子の中で一番かわいくて、明るくて、よく笑うグレースちゃんのことが大好きだったんだ。
その数カ月後に王子と婚約したと聞いた時は、子供ながらに大きな喪失感を覚えたものだ。
それからは徐々に会う機会も減り、最後に会ったのはちょうど一年前だったはずだ。婚約者のことで元気がないようだったから心配していたのだが……。
改めて手紙に目を通す。そこには王子との信頼関係をついに築けなかったと嘆く言葉と、聖女の力を全て妹に譲ってから婚約を解消する予定であること、そして全て片付いたら我が国に移住したいという旨が書かれていた。
「……そうか、凡愚の息子は、立派な暗愚になったのだな。どうやら聖女の力に護られることが当たり前になり、恩恵の何たるかを最後まで理解できなかったらしい」
だが、俺にとってこれは確かに吉報だ。
「マテュー、今すぐ魔道士に言って、俺の手紙を同じ方法で届けさせろ」
「小型の鳥は少々難しいと思われます。カラスでもよろしいですか」
「ならせめて、愛らしいカラスにしてくれ。グレースちゃんを怖がらせるなよ」
俺はそれだけ言うと、執務も放り投げて返信の手紙を書いた。それは、俺から彼女への求婚の申し出でもあった。そして、もう一通……これも結婚するために必要な手紙だった。
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「お姉さまの方からご招待くださるなんて、珍しい事もありますね」
「ええ、そうかもしれないわ。今日はいい天気ね、エリノル」
お姉さまは相変わらず影の濃い、しかし前に見たときよりは少し良くなった顔色で私と対面した。それにしても相変わらず薄暗く、湿っぽい部屋だ。特にこのカーテンが良くない。どうしていつまでも取り払わないのだろう。規則に囚われず、こんなもの聖女の命令ですべて取り払ってしまえばよいものを。
「エリノル。前に話していた聖女の力を譲渡する件、受けようと思うわ。儀式の準備をするよう、お父様……いえ、神官長に話してもらえるかしら」
……っ!!ようやく決断したのか!!
「さすがお姉さま、熟慮の上で素晴らしいご英断をなさいましたわ」
3年前からずっと提案し続けていた聖女の力の継承!元々私もお姉さまも、生まれつきの魔力量も癒やしの力も大差はない。この国を覆う保護の力さえ継承出来れば、それでよかったのに。
お姉さまにとっても渡りに船だったはずの提案を飲むのに3年もかかるとは……。
「もちろん、エッケハルト様とのご婚約も?」
「ええ。エリノルが引き継ぐことになるわね。おめでとう、エリノル」
やった……やった!やったッ!!これですべてが手に入る!聖女として国と民を守る力!そして何よりも、エッケハルト様との結婚を成就できる!
「だけど何度も言ってるけども、聖女になれば人生の大半をこの部屋で過ごすことになるわ。出られるのは行事の時の数時間だけ……あなたが思うよりも、ひどい孤独を味わうことになるのよ。本当に大丈夫?」
「ありがとうございます、お姉さま。ですが私は何としてでも殿下と添い遂げたいのです。それくらいのことは覚悟しておりますわ。では早速、神官長たちに伝えてまいります。せっかくのご決断ですから、善は急ぎませんと」
逸る心を抑え切れず、すぐに席を立った私は小走りで場外の馬車へと戻っていった。
だから気付かなかったのだ。部屋を出る直前、お姉さまの顔が真に晴れやかなものになったことに。そして窓に一羽のカラスが止まったことにさえ。
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「何、エリノル嬢が聖女に?……それは真か?」
「はっ。エッケハルト殿下との信頼関係を築けず、殿下から10年もの時間をお奪いしてしまったことに対する責任を痛感したとのこと。妹君は殿下との仲もよろしく、聖女の力を継承すれば過不足ない実力を持つはずなので、そちらと婚約を結び直す方が万事良い方向に進むだろうとのご提案です」
私はその話を聞いて、軽く目眩を覚えた。別にグレーティア嬢が聖女でなくなることも、婚約者がその妹になることも、正直言って大きな問題ではない。我が国に聖女が居続けてくれるのだから、それで良しとすべきだ。
私が問題としているのはそちらではない。
「わかった。エッケハルトを呼べ」
「はっ!」
呼び出された息子の口元はニヤついていた。恐らくエリノル嬢から既にある程度聞かされているのだろう。口の軽い女に惚れたものだ。
「お呼びですか、父上」
「その様子ではお前ももう知っているようだが、グレーティア嬢が聖女の力を妹へ継承するようだ。よって自動的に婚約も妹と結び直されることになる」
「おおっ……!ではやはり!」
「そうだ、お前の望み通りとなる。だがなエッケハルト、これはお前の敗北に等しい婚約破棄と知っておけ」
深い笑みを浮かべていた息子が表情を一変させ、隠す気もない不快感で染めあげた。
「敗北?私は特に勝負事をした覚えはございませぬ。仮にそうだとして、グレーティアと結婚することが勝利であるはずが――」
「そうではない、愚息よ。お前はたった一人の少女の心ですら変えさせるに至らず、少女の方から決別の一手を切らせてしまったということだ。お前はグレーティア嬢から見限られたのだ」
つまりは交流能力の欠如。己を鑑みず、結果よりも感情と目先の利益を優先する浅慮な性分。私が憂慮したのはそれだ。エッケハルトは私に似過ぎている。
「不快な物言いですな。とはいえ先にあの女を見限ったのは私ですが」
「だからお前の負けだと言った。お前が真にこの国を導こうと考えているならば、たとえ不服であっても結婚を成立させるべきだった。そうすれば妹の方はいざという時の代用品として使えたからな。だがもうそれも叶わぬ」
「愛の無い結婚などに意味はありますまい」
「それは隣国ヴァグナーが相手であってでもか?」
愚息もその言葉の意味は理解できたのか、口を噤んだ。我が国が資源の多くを依存するヴァグナー王国なくして、国家運営などあり得ない。隣国ではあるが同盟ではなく、敵国ではないが友好国でもない彼の国を相手に、グレーティア嬢と同じように接して損なうつもりかと問うたのだ。
「いずれにせよ、これは当代聖女たるグレーティア嬢から提案されたことだ。そしてお前の傾倒ぶりは教会も承知しているし、継承者たるエリノル嬢も快諾したという。もはや応じるより他にあるまい。これからは心を入れ替え、愛のある結婚の中で国を導くことを考えよ」
「……はっ」
ふてぶてしい態度で退室するエッケハルトを見届けてから、一通の黒い手紙を開いた。隣国ヴァグナーの王子にして、次期国王の筆頭であるアルフレート・ヴァグナーからの会談の申し出だ。議題は今後の国交推進について。そしてそこには、何故かグレーティア嬢も同席するように書かれている……というより、それが前提条件であるように読めた。
あまりにもタイミングが良すぎる気がしたが、必要以上に隣国を刺激するのも良くない。取り急ぎ、グレーティア嬢が間もなく聖女ではなくなる旨、それでよろしいかどうかを確認してから出席を許可することにしよう。
……だが、どうにもこの黒い手紙が、死神の鎌に見えてならなかった。その刃が誰に向いてるのかまではわからなかったが。
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「エリノル、もうすぐ念願の聖女になれるんだね。おめでとう」
「ありがとうございます、エッケハルト様。これでやっと、殿下の正式な婚約者として胸を張ってお隣に立てますわ」
聖女継承の儀式の前日、エッケハルト様は私を心配してわざわざ屋敷まで来訪してくださった。殿下のお心が姉ではなく私にあると見て間違いないだろう。
「しかし、お姉さまのお言葉を信じるのであれば、聖女になればあの部屋にいる時間がとても長くなるらしいですわ。私、寂しさに耐えられるか少し不安ですの」
「大丈夫さ、君に寂しい思いなどさせはしない。何度でも来訪するし、君が好きそうな調度品も揃えよう」
「まあ!ありがとうございます、エッケハルト様!私は幸せ者ですわ!」
「君はグレーティアとは違う。きっと素晴らしい聖女であるのと同じくらい、素晴らしい伴侶となってくれるだろう」
間もなく。そう、間もなくだ。聖女として殿下の隣に立つ日が本当に待ち遠しい。
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「では、お姉さま。私にその神聖なる血をお譲りください」
「ええ。我が身に流れる聖なる血を、その力と共に譲り渡しましょう」
エリノルはまさに聖女に相応しい、美しくとも凛とした姿で周囲を魅了している。
聖女継承の儀は、その言葉の重さとは裏腹に非常に簡素な儀式だ。お互いに継承の意を確認し、神に祈りを捧げ、最後に聖女として流れる血の一滴を溶かした聖水を次期聖女が飲む。本来なら老境に入った聖女が行うこの儀式は、お互いに10代という異例の若さで行われたのもあり、これまで行ってきた儀式よりも華やかなものに思えた。
私が継承される側としてこの儀式を行ったのは、ちょうど13年前。当時の聖女は老境どころか終末を意識させる曖昧さで、聖女の代理として立った女性が口頭で誓いを立て、聖女の指から一滴の血を流させた。まだ5歳だった私はその意味がよく分からず、気持ち悪くて少しぐずっていたと思う。あまりいい思い出でもないが、こうしてここに立っていると懐かしく思えてくる。
「……!?こ、これが……聖女の力!?」
聖水を飲み干したエリノルの身が光り輝きだした。同時に私の身体から力が抜け落ち、ズンと体が重くなる。恐らく彼女は逆に、体が羽のように軽くなった気分を味わっているだろう。だが、私はこのけだるさにむしろ安堵感を覚えていた。
「……肩の荷が下りたわ。あとは頼んだわね、エリノル」
「お任せください、お姉さま。聖女としての責務、私が立派に果たしますわ。……今までお疲れ様でした」
全てを手に入れた達成感からか、ここ数年見られなかった生来の素直さで私を労ってくれた。あまり一緒に過ごせなかったけど、やはり血を分けた妹なのだと改めて感じる。もっと長く姉妹として触れ合っていれば、こんな結末にはならなかったのだろうか。あるいは私には過ぎた妹だからこそ、妹を犠牲にするような決断が出来たのだろうか。
今更になって、自分の身勝手さに震えが走る。寒気すら感じる後ろめたさから、元聖女としてでなく、姉としての言葉をかけたくなってしまった。
「孤独に負けず、いつでも皆を頼るのよ。もちろん私も姉として出来ることはするわ。……あなたの幸福を心から願っているわね」
「……はい。ありがとうございます」
「さあ新たな聖女様。私室へとご案内いたします」
神官たちに城へと案内されていくエリノルを見送り、私も屋敷に向けて歩を進めた。陽の光の下を一人で歩くのは何年ぶりだろう。
……さあ、とにかくこれで私も自由だわ。まずは屋敷に戻って、荷造りをしなくては。大した荷物は無いでしょうけどね。
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私の主人であるアルフレート様は、隣国タールベルクへ向かう馬車の中で常ならぬ様子だった。時々笑みを浮かべ、あろうことか鼻歌を披露している。ここ数日、この日のために寝ずに公務を執り行ってきたとは思えないほどの溌剌さだ。
「アルフレート様、あまりおはしゃぎにならぬよう」
「ふふっ…!すまない、許してくれ。こんなに嬉しいことは、父上がお倒れになられてからは初めてだったものだから」
それは確かに、そうかもしれない。隣国との政治情勢が悪化し、グレーティア嬢とお会いになることが少なくなってからすぐに、国王は病にお倒れになった。それからは激務に次ぐ激務。休日はおろか、満足に熟睡できる日も少なかったのだ。
「ああ、グレースちゃんに会ったらまずは何を話そうか……一緒に住む部屋に置く調度品のこと?いやいや、聖女ではなくなったのだから、きっと色々な所へ行ってみたいに違いない。旅行計画を立てるのもいいな」
これほどまでに幸せそうなお姿を見るのは、本当にいつぶりだろう。そしてグレーティア嬢にお会いした時、どれほどの幸福感に包まれることだろうか。ちゃんと会談は出来るだろうか。それが怖くもあり、待ち遠しくもある。今の殿下に残された真の幸福と言えば、恐らくグレーティア嬢との結婚に他ならないだろうから。
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「では、聖女様のお部屋と御仕事についてご説明いたします」
私は聖女継承の儀を終えた後、聖女専用の部屋に通されて絶句した。この部屋を使うことは知っていたが、調度品もベッドの位置も、あの忌々しいカーテンすら全てがそのままだった。
「……いえ、説明の必要などないわ。私は何度もこの部屋に来ていたもの」
「それはただ、この部屋の間取りをご存じであるというだけでありましょう。まずこちらをご覧ください」
そう言って神官は、カーペットをはがした。するとその下から巨大な魔法陣の一部が現れる。上級治癒魔法よりもさらに大きく、複雑で、常人が一見しただけでは何の魔法かわからないはずの強大な魔法陣。痕跡からして何百年も前に書かれたものに違いなかった。
「こ、これは!?」
しかし今の私の身体には聖女の力が宿っている。だからなのか一瞬でこれが何なのかわかってしまった。
「流石聖女様、お分かりになられましたか。そうです、これこそが守護の陣。国民に持続的な治癒術を掛け続けることで壮健な肉体を与え、神聖な結界魔法により魔獣どもを遠ざける力がございます。聖女様はこれより、この魔法陣からなるべく離れずに過ごして頂きます」
ことさら説明口調で話す神官にイライラさせられる。そんなことは聖女になった私にわからないはずがない。私が問題視しているのは、これの強度と持続性だ。
「なるべくですって!?こ、この状態でよく聖女継承の儀式を外でやってきたわね!?この部屋でやるべきだったのではなくて!?……ちょっとまって、今まではどれくらいならここから離れても大丈夫だったの?」
あまりにも大きく、緻密で、非常に古い魔法陣だ。もしわずかでも魔力供給を断てば、機能しなくなるかもしれない。先程まで聖女継承の儀式で誰もいなかったことが信じられない程だ。
「そうですな……過去に月2,3時間ほどであれば離れても支障はなかったようです。それ以上となると、現在張っている結界に綻びが生じます」
「そうでしょうね……呪文をカーペットや家具で隠しているのは風化を防ぐためかしら?」
「ご明察です。ええ、実際のところ魔法陣の保護こそが神命とされています」
やはり相当繊細な魔法陣らしい。もちろん今の私に流れる膨大な力なら維持するのは造作もない。日常生活は問題なく送れるだろう。だがこの部屋にいなければ、常時展開するだけの強度を保てない。遠距離からの魔力供給は流石にリスクが高すぎる。
「他の場所に同じ魔法陣を書きましょうよ。そうすれば聖女たちも少しは長く外に出られるでしょうし、予備にもなるでしょう?」
「おお、それは名案ですな!では是非、聖女様に書いて頂きたく存じます。我々にこの複雑な魔法陣は理解出来かねますので」
傲慢な言い様ではあったが、事実ではあったため何も言い返せなかった。確かにこれは複雑すぎて、常人には理解できない。転写するのにも相当の時間がかかるに違いない。いや、ただ写すだけでは駄目だ。この魔法陣に書かれた呪文の意味を理解しないまま似せて書くだけでは、誤った魔法が広範囲に発動してしまいそうだ。
だが、この部屋をこのレイアウトのまま使うのは無理だ。これでは気が滅入ってしまう。
「……せめて、このカーテンは取り除いても構わないわよね?この部屋は暗すぎるわ。私の見立てでも、これは魔法の発動には関係ないはずよ」
「いえ、間取りの一切を変えてはなりません。このカーテンも含め、この部屋は初代聖女の間取りそのままに維持してまいりました。万が一にも何かの位置をずらした結果、結界に綻びが生じたとあれば、その時は――」
最後の一言は、極めて冷たかった。続く言葉は言わずともわかるだろうと、その目が語っている。
「では聖女様。これにて失礼いたします。何かあればドアの外にいる守衛までどうぞ」
私は呆然としたまま、事務的な神官の背を見送るより他に無かった。
「魔法陣に関係のない家具ですら動かせないですって……?」
私はついに確信した。お姉さまはこの部屋を薄暗いままにしたかったのではない。まさにこの部屋こそが、聖女を……お姉さまを薄暗い存在にしていたのだ。
「そんな……じゃあ、お姉さまはそんな窮屈な空間に、5歳の頃から閉じ込められていたの?こんな、上品な牢獄とも言うべき部屋に、たった一人で?」
私が5歳の頃はどんなだっただろうか。朧気ではあるが、まだ体を動かすのが大好きな年頃だったことは確かだ。少なくとも晴れている日は外で遊んでいた。お茶だって、テーブルを窓の側まで動かして外の風景と一緒に楽しんだ。お姉さまが付き合ってくれないことに不満すら感じていたほどだ。
だがここでは一切を動かせないのだ。テーブルどころか、椅子の一つでさえ大きくずらせない。窓を開けるのにも許可がいるだろう。カーペットの上に結界魔法をもう一枚張れば家具を新たに置くことはできるだろうが、それを当時まだ5歳の幼女が思いつくとは思えない。ただ大人の無理難題を愚直に守り続けるしかなかっただろう。当時の幼いお姉さまの絶望感は、想像するだけでも筆舌に尽くしがたい。もし私が逆の立場だったならどうだったか。恐らくは狂うか、感情のまま暴発していたのではないだろうか。
『だけど何度も言ってるけども、聖女になれば人生の大半をこの部屋で過ごすことになるわ。出られるのは行事の時の数時間だけ……あなたが思うよりも、ひどい孤独を味わうことになるのよ。本当に大丈夫?』
『孤独に負けず、いつでも皆を頼るのよ――』
「流石ですわね、お姉さま」
自嘲の笑みを抑えられない。このとき私は、改めてお姉さまのことを心から尊敬した。
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「では聖女……いや、グレーティア嬢を娶りたいと?」
「アルフレート様、本気なのですか!?」
「はい。元聖女でもある彼女を娶ることは、我がヴァグナー王国との友好関係をより強固なものとすることに繋がります。もちろん、幼い頃より彼女を慕い続けてきたことは確かですが」
グレーティア嬢を交えての会談で、私は目の前に座る青年を見て、唖然とさせられていた。発言内容に対してではない。愚息とそう変わらない年齢でありながら、相当な修羅場を潜り続けてきたらしいその顔立ちは、ある意味私よりも引き締まり、芯のあるものだった。
「我が国が聖女の力を宿していたグレーティア嬢を手放さないとは考えなかったのか」
「もちろんです。神の寵愛を一身に受けられるのは一生に一度だけですから」
「え?それは……」
一度聖女継承した者は、二度と聖女の力を宿せない……確かに事実だ。だがそれは国家機密の一つだったはずだ。
かつて強欲な元聖女が、高齢を理由に半ば強引に自分の娘へ力を継承させられた後、娘を脅して血を一滴聖水に垂らして、飲み干す事件があった。だが聖女の力は取り戻せず、むしろ年不相応な美しさを保ったままだった顔立ちは崩れ、思考は曖昧になったという。
神は一度愛した女を二度愛するような真似はしないのだ。
「よく勉強されているようだ。誰に教わったのかな?」
「恐れながら、まだこの城に通っていた幼い時期に親切な御仁から教わりまして」
それはありえない。神官にせよ聖女にせよ、そういった秘密は絶対に口外しない。口にした瞬間に神罰が下るとされている。実際には教会か、我が国の懲罰部隊が秘密裏に処理する訳だが。
……つまりは諜報、か。どうやら軍備、資源、諜報活動等、我が国では敵わない分野は相当多岐にわたるらしい。これも聖女の加護に頼り切った報いというわけだな。
「それにまだ年若い元聖女を我が国で保護することは、お互いにとって利のある事と思われます。婚約解消された彼女の新しい婚約者を見繕うよりも確実です。如何でしょうか」
さらにこの青年は、我が国に対して頭を下げつつも刃を首に突き付けている。この国には今、次期聖女継承候補となる適性者がいない。ある意味で後がない状態であることを彼は知っている……もし聖女がエリノル嬢一人しか適性がない状態だと、他国が知れば何が起こるかは想像に難くない。結界から追い出された魔獣に困っているのは、ヴァグナーだけではないからだ。
ヴァグナーにとっても、元聖女を嫁に迎えることで二重の意味で他国への牽制に使える。ヴァグナー王国の豊富な資源を狙う国もまた、タールベルクだけではない。
結婚の提案自体は年若い男のそれだったが、実態としては非常に計算高いものだ。だが豊富な資源を人質にしてこないだけ、まだ彼の国は誠実と言ってよかった。この青年、確かに王の器を持っている。一方で聖女に頼るしかない私はどうだ?
つまるところ、私にできることなど限られている。精々次期国王となる男に、望み通り恩を売るだけだ。それ以上の駆け引きができるほど、私の思考は非凡ではない。
「そういうことであれば、私から言うことはない。若い二人が親愛を持って結ばれるなら喜ばしいし、私にとってもグレーティア嬢は娘のようなものだ。……父親らしいことは、何もしてやれなかったが」
「陛下……」
だが高度な政治判断以上に、何よりもグレーティア嬢の純粋な……そう、あまりに純粋な瞳が私の胸を刺した。この娘は13年もの長い時間を城で過ごしていたが為に、この会談での本当のやり取りが理解できないのだ。言葉通りにしか捉えられず、ただ自身の解放と、昔から好きだった男の子との結婚を許すやり取りにしか見えていないに違いない。赤く染まった頬と、煌めく瞳が希望で揺れている。
そして理解できないように育てたのは、他ならぬ我が国であり、私自身だった。それを否定できるほどの恥知らずになれなかったことも、私が凡庸であることの証だった。
「国王として結婚に賛成する旨、グレーティア嬢の生家である公爵家には伝えておく。後は公爵家と話して日程を決めるが良いだろう」
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『グレーティア嬢。なにか不足はないか?』
『おうさま……!わたし、いえにかえりたいの!いもうとはわたしがだっこしないとねむれないの!おねがいします!おうちのいもうとにあわせてください!』
『……すまない。それは出来ない。でもそれ以外のことならなんでも叶えてあげるから。我が国を守る為、この部屋でいい子にしておくれ』
『おうさま!?おねがいします!!いいこにしますから!!わたしをおうちにかえしてください!!おうさまー!!……う、うあ……うわあああーん!!』
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思えば、息子よりもずっと長くこの娘を見てきた気がする。それこそ、自分の血を分けた娘のように。その娘に対し、私に出来ることといえば巣立ちを快く見送るだけだ。対価は彼女の妹であることを承知の上で。
「感謝いたします、タールベルク王」
……それでもこの小僧のしたり顔は少々気に入らない。さっきからこの小僧は、私としか話していないではないか。確かに私相手であれば、何を言っても言い負かせるという自信があるのだろう。グレーティア嬢にいいところを見せてやろうとでも思っているのか。
なら、少し困らせてやろうじゃないか。お前が絶対に勝てない相手とぶつけてやる。
「決まりだな。ではしばし、若い二人だけで今後のことをよく話し合うがいい。じき夫婦になるのだからな」
「はい。………はっ!?ふたりきり!?え!?今からですか!?」
「へ、陛下!?アルフレート様と二人きりって!?ま、まだ心の準備が!?」
「そこな側近も、少し席を離れてほしい。私と共に隣の部屋に来てくれ。紅茶を用意しよう」
「わかりました。ではアルフレート様、ごゆっくり」
「マテュー!?ま、待ってくれ!まだ俺も何を話せばいいか!?あ、おい!?」
ざまあみろ。これが年の功というものだ。
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「………」
「え、ええっと……い、いい天気だね!?」
「え!?あ、はい……」
一体何が起こっているのだろう。聖女でなくなった後は あくまで一人の女の子として生きるつもりだった。だからエッケハルト様の次に親しく、隣国の王子でもあったアル……アルフレート様に、移住の許可だけを頂いたつもりだった。
それがまさか、久しぶりに再会したと思えば結婚を申し込んでくるなんて。もう何が何やらわからない……アルフレート様の顔もまともに見られない。
「あの、アルフレート様」
「待って、グレースちゃん。俺のことはアルと呼んでよ」
昔の呼び方だ。なんでかな、ちょっと恥ずかしい。
「……アル。どうして私と結婚したいの?さっき王様に言ってたこと、嘘でしょ?アルは嘘を吐く時、表情が固くなるから」
「うわ、バレてるんだ!?さ、流石だね……ごめん、政治的理由は確かに後付けだったんだ。馬車の中で考えてきた。二度聖女になれないことについては、割と最近知ったんだけどね」
『アル、もしかして貸してた本をわすれてきちゃったの?』
『えー!?グレースちゃん、なんでわかるのー!?』
『あははは!アルってばわかりやすーい!』
もう、昔からこういうところは変わらないんだから。
「本音を言うと……昔からグレースちゃんのことが好きだったんだ。君はあの部屋から出られないのに明るくて、俺にも優しくて、笑顔がすごくかわいい子だったから。だからエッケハルト王子と婚約したと聞いた時、ずっと泣いてたんだよ」
「そんな昔から!?」
「うん。でも、君が俺の国に来てくれるなら、もう遠慮はしない。もうあの日のような後悔はしたくないんだ」
アルの手が優しく私の手を包み込む。そうだった。こんな風に遠慮なく私に触れてくれるのは、アルだけだった。
忘れていた。ううん、あまりにも幸せすぎる思い出だからこそ、忘れようとしてきたんだ。そうしないとエッケハルト殿下との結婚が辛いものになりそうだったから、閉じ込めてきたんだ。
閉じ込めていたものが、新しい幸せで解放されていく。心の枷が取れていくのと同時に、私の目から気持ちが溢れ出てきた。
「グレースちゃん。俺と結婚してほしい。俺が王様になるまで、色んな所に旅行しよう。王様になったあとも、二人で色んな国を訪問しよう。今まで外で得られなかった君の幸せを、二人で取り返していこうよ」
目の前の幸せが、あまりにも眩しくて。目をまともに開けられないまま、ありのままの気持ちを乗せて。
「……はい、喜んで!」
「いっぱい旅行しようね?」
「はい!アルと一緒なら、どこへだって!」
私はついに本当の意味で、13年間閉じ込めてきた檻から外へ飛び出した。愛しい妹を檻の中に残したまま、自分の幸せを掴むために。きっとこれから先、妹を思い出しては後悔するのだろうという、確信にも似た思いを抱きながら。
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「二人が心配かね?もしかしたら、二人揃って暗殺されるかもしれないと、そう考えているのだろう?」
私は若いお二人が再会する隣の部屋で、お茶を飲んでいた。他国の王子の側近に過ぎない身でありながら、何の冗談か隣国の王と一対一でだ。
「心配ではないと言えば、嘘になりますが……正直なところ、今の状況の方がよほど嘘のように思えます」
「面白い。それはヴァグナー流の冗談かね?」
「いえ、てっきりタールベルク流かと思っていました」
無表情のまま答えたのに、隣国の王は大笑いした。腹を抱えて、本当におかしいかのように。
「いや、すまない。面白いのは君の方らしいな。確かにあの優秀なアルフレート殿がそばに置くだけのことはある」
「……お褒めに与り光栄です」
ただの皮肉かもしれないがな。
「拗ねるな。これでも賞賛しているつもりなのだから。さて、もちろん君をここまで誘導したのは意味があってのことだ。この高い茶を飲ませるためだけに、この部屋に連れてくるはずがないだろう?」
油断ならない眼光が私を貫く。この国王は何者だ?これまでの国政を見る限り、この王が施政者としては凡愚、あるいは凡人であることに疑いはない。だが、私の奥底にある部分が油断するなと絶叫を上げている。ただの凡愚ではないことを予感し、再評価しようとしている。
凡愚があの場で、あの二人を置いてくるような真似をするはずがないのだ。
「単刀直入に聞こう。君の主君は、グレーティア嬢を真実愛しているのだな?」
「無論です」
これは即答できる。そして恐らくはグレーティア嬢も。
「あくまで私は、我が国の鉱山を管理する公爵家との政略結婚を勧めてきました。それでも殿下は頑として応えず、今日までグレーティア嬢との結婚を夢見てきたのです」
「それはやはり、アルフレート殿が愛の無い結婚に意味はないと考えてのことか?」
「いえ、我が主人は本来恋愛に対して冷静なのです。常日頃から愛が無くとも結婚は出来ると豪語してましたし、候補者も自ら決めていました。もしグレーティア嬢が貴国の王子と結婚していれば、我が主君もすぐに政略結婚に乗り出すつもりでした」
ただし婚約者候補のプロフィールを見る時の目は、情熱とは無縁の商売人か、鑑定士を彷彿とさせる冷酷なものだったが。
「それでも我が主君は、グレーティア様に心惹かれ続け、グレーティア嬢がご結婚されるその日まで、自らもご婚約しようとはなさらなかったのです。ギリギリまで恋を、諦めなかったのです」
やや言葉が過ぎたかもしれないと思い、言い終わってから青ざめた。だが、隣国の王が見せた表情は……あろうことか羨望だった。
「恋が人を狂わせるとしても、愚かな道を誰もが選ぶ訳ではないのだな。もし我が愚息にも、君のような側近や……あるいは、アルフレート殿の一部でも見識があれば、間違いを犯さずに済んだのだろうか」
「間違い、ですか?」
その表情は深すぎる悔恨に彩られている。
「我が愚息は、グレーティア嬢の妹と添い遂げようとしている。いや、既に婚約は果たされたも同然だ。だが私は、それを誤りと信じているのだ。あの薄暗い部屋で正気を保ち続け、聖女たらんとし続けたグレーティア嬢こそ、この国の未来の王妃に相応しい。すでにこの国は聖女なしには成り立たぬのだから。だが……あの小うるさく、エッケハルトの見た目と口に惚れただけの妹に、聖女の任は堪えられまい。私は何度も愚息にそう言ったのだが、あれは私に似て頑固でな……」
私は呆然としたまま、目の前の男の愚痴を聞いた。……愚痴。そう、愚痴に過ぎない。だが内容は国家機密そのものだ。私はおろか、騎士にさえ話すべきではないだろう。
やはりこの男はアルフレート様の言う通り、凡庸な男なのだ。不満があれば他の誰かにこぼさずにはいられない。たとえその相手が、隣国の次期国王の側近であろうとも。
そこにいたのは国王ではなく、娘と息子を持つ一人の父親だった。そんな父親に私が言えることなど、たかが知れているではないか。
「……あくまで私人としてお答えしてもよろしいですか?」
「あくまで私人として聞いてよいのであれば」
国王に公私無く公有るのみ。その禁をたやすく破る凡庸な父親に、少なくない尊敬の念を抱きながら、率直な気持ちを話した。
「私にも息子がいます。畏れ多くも幼少よりおそばで見守り続けてきた、血の繋がらない高貴で優秀な息子が。しかし優秀でいながら、過ちも犯します。例えば幼少からの恋心を忘れられず、幼馴染みの元聖女からの移住申請を見たその日に娶ろうと決意するような、愚かな行いを」
「それは随分と困った息子がいたものだ。下手をすれば国際問題じゃないか。まさに若さゆえだな」
「ええ。しかし私は信じているのです。たとえ大きな間違いを息子が犯そうとも、必ずそれ以上の功を以て挽回し、国を思い続け、自分だけの幸せで終わらせることは無いだろうと。そして結婚相手の少女を必ず幸せにするだろうとも。一度の過ちは一度の功で取り返せば良いのです。人は、間違えるものですから」
「人は間違える……か」
「そう。私達のように」
……この国王が、私をこの部屋に呼んだ理由がようやく分かった。これまで何度か会っている内に、私が殿下を息子のように慕っていることを看破していたのだろう。だから私から話を聞いてみたかったのだ。あくまで一人の父親として。
「そうだな。誰しもが間違えるのだ。大事なのは間違えた後、というわけだ」
殿下。この国王は施政者としては凡庸かもしれませんが、仁君ではあるかもしれませんぞ。
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「すまないな、少し遅くなった」
「いえ、とんでもない。私の方こそ、このような時間を頂き恐縮の限りです」
俺はグレースちゃんとの再会を堪能した。いや、むしろ愛の告白をし、今後の生活についても話し合った。グレースちゃんは今日の今日まで俺の気持ちに気付いてなかったようだが、結婚にはすぐに頷いてくれた。
こんな幸せな日がくるとは夢にも思わなかった。まだ会談中にも関わらず、仮面の笑みではなく本物の笑みが溢れてしまう。
「いいのだ。それよりアルフレート殿、一応会談の目的は今後の関係推進についてだったはずだ。婚約を証として、まずは友好関係を強化する点で合意したのは良いとして、後日資源の輸入関税の調整と、我軍との合同演習についても話し合いたい」
なんだと?前者は予想内だったが……。
「合同演習、ですか?」
「ああ。我軍は練度が低く、魔獣を払う際にヴァグナー方面に追いやってしまうことが多いことと思う。魔獣を倒すか、あるいは優位な状態で撃退できるよう、指導して欲しい。見返りとして、今後貴国が有事の際に我が国の結界内へすぐ避難できるよう、受け入れを円滑化できるよう法案を制定しよう」
なるほど、同盟を組みたいのか。確かにタールベルクという盾と、ヴァグナーという剣が合わされば他国とも有利に渡り合える。この会談でそんな踏み込んだ提案をしてくるとは思わなかった。
「少し考えさせてください」
「もちろんだ。ああ、たとえこの話がうまく行かなくとも、二人の結婚式には呼んでほしい。娘の結婚式に顔を出さないと孫を抱かせて貰えなさそうだからな」
「まあ!陛下ったら!」
意外と食えない御仁だ。凡庸と侮りすぎるのは結構危険かもしれないな。
「公爵家とも結婚の許可を頂けて何よりでしたな」
「まあ、ある意味勅命だしな。それにあの両親、恐らくだがグレースちゃんより妹の方と長く過ごしたせいか、随分あっさりと許可してきたように見えた。もっと惜しむと思っていたのだがな」
俺は帰りの馬車の中で、グレースちゃんの境遇に思いを馳せた。親からの愛も満足に受けられない中、一体どれほどの孤独を味わってきたのだろう。出会った頃のグレースちゃんはいい子ではあったけど、今よりずっと明るく、元気な女の子だったのだ。
そう考えると、父親代わりを自称しつつ彼女を囲った張本人であるタールベルク国王に思うところが無いわけでもないが……ある意味恩人でもあるわけだし、ひとまずは置いておこう。
それよりグレースちゃんを裏切った男のことが気にかかる。あの見る目のない男のことだ。先手を取ってグレースちゃんを保護しないと、何をしてくるかわからない。妹の方はよくわからないが、エッケハルトに夢中であるらしいし、あまり期待できないだろう。
「帰り次第、グレースちゃんとの婚約を発表する。グレースちゃんとの旅行日程も立てるから、帰ったら早速公務を処理するぞ」
「御意」
それにしても、マテューはタールベルク国王と何を話したのだろうか?気になった俺はグレースちゃんとの結婚後にそれをマテューに尋ねてみたのだが……。
『同じ息子を持つ父親同士、腹を割って話しただけですよ』
としか言わず、詳しくは教えてもらえなかった。その後、マテューには娘しかいないことを知ったのは、俺とグレースちゃんの間に子供が出来た頃だった。
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私が新しい聖女になり、殿下と結婚して数ヶ月が経った。あの日から、この部屋を出たことは一度も無い。わずか数ヶ月で、お姉さまが私に聖女の力を譲渡した時の気持ちがわかった。そして、頑なに3年間も継承を拒否し続けてきた優しさと、13年間ずっと継承を私に持ち掛けなかった高潔さも。
ここは牢獄に等しい。圧倒的な力を持ちながら、それを行使するのはこの部屋の魔法陣に対してだけ。そして、それはこの国にとって当然のことであり、誰も褒めてはくれないのだ。唯一陛下と年配の守衛さんだけは労ってくれるが、肝心な殿下の方は聖女ならここから出られなくて当然だと考えているようだった。
「聞いたかい、エリノル。今日、君のお姉さんとアルフレート王子が結婚したらしいよ」
「それは良かったですわ。お姉さまには幸せになってほしいですもの」
本心だった。私は望んでこの場所に居ることを選んだけれども、お姉さまの場合は半強制だっただろう。聖女の地位を渇望し、毎日のように殿下が来訪してくださっている私でさえ、今の環境に少し滅入っているのだ。今思えば、幼少からずっと閉じ込められていたお姉さまが正気であった事は、それ自体驚くべきことだった。
しかも殿下は善意のつもりだろうが、最近の流行衣装についてや、新しい演劇の感想をよく話し聞かせてくださる。確かに聖女になる前の私は流行について敏感だった。だが、心配りがずれている。手を伸ばしても得られない物を語るくらいなら、いっそのこと本の一つでも差し入れて、その中身を共有してくれた方がまだよかった。これでは殿下の自己満足だ。
まだ幼かったお姉さまは、このズレた親切とずっと付き合っていく内に、心を閉ざしていったのかもしれない。
ですがお姉さま。私は自ら望んだ物をお姉さまから奪っておいて、あなたに泣きつくような無様な真似はいたしません。だって私は、お姉さまと違い外を知っているのですもの。
「もうこんな時間か。そろそろ行くよ。次に来るときは、新規開店した宝石店を視察してくる。君は新しい物が好きだったものな」
「ありがとうございます、殿下」
「エリノルのためならどんなことでもするさ」
「……まあ!その言葉、忘れませんわ!」
ええ、絶対に忘れません。忘れさせるものですか、殿下。あなたにもお姉さまの孤独を少しでも味わって頂きますわよ。
殿下が機嫌よく部屋を出てからしばらくして、私は部屋の外に立つ新人守衛に声を掛けた。一方で昔から顔見知りの守衛さんは、ニヤリと笑っている。私が何をする気か、大体わかっているのだろう。
「何か御用ですか?」
「この手紙を陛下にお渡ししてほしいの」
「国王への手紙、ですか?しかし陛下はお忙しく――」
「その手紙は、国の行く末を左右する大事な内容が書かれています。もし多忙を理由に渡さなかったら、何かあった時に私はあなたを思い出すでしょうね。例えば神へ祈るときとかにね」
実際は毎日祈る訳ではないし、神と会話するわけでも無いのだが、何故か聖女は毎日暇さえあれば神に祈っているイメージがあるらしい。
「す、すぐにお渡ししてきます!」
「別に今日中に渡してくれれば夜でもいいのよ?」
「いえ!聖女エリノル様からの神託であると思えば!」
「あらそう?じゃあお願いね。今日のお祈りではあなたのことを思い出すことでしょう。もちろん、親切な人としてね」
慌てたように、しかしどこか意気揚々と走る守衛を見送ると、年配の守衛さんと苦笑いを交わした。
「いよいよですか」
「ええ、始めるわ。苦労をかけるだろうけど、よろしくね」
そしてほんの少ししか開けられない窓際から外を覗きこんだ。実に良い天気だ。きっとお姉さまも、隣国でこの青空を堪能してくださっていることだろう。
--------
私は久しぶりに臣下として父上の前に跪いていた。私室ではなく謁見の間に呼ばれた時は、息子として接することはできない。
「お呼びでしょうか、陛下」
「うむ。エリノル嬢との新婚生活はどうだ?」
「はっ。一切の問題なく、円満そのものであります」
あの部屋で会うのでなければもっと良いのだがな。まさかエリノル嬢までグレーティアと同じく、古臭くジメジメした部屋のまま過ごそうとするとは思わなかった。せめてカーテンだけでも取り払えばいいのに、それも規則だから無理だと聞き入れない。まるでグレーティアを見ているかのようだ。
しかも最近の流行についても興味を失ったのか、情報を新たに取り入れるでもなく、持ち込むのは私ばかりで正直つまらない。どうして聖女になった途端に姉の方に似始めたのやら、理解に苦しむ。
「そうか。では13年ほど夫婦水入らずで過ごしても支障ないな」
「はっ。……は?一体、どういう?」
「教会から特別許可証が発行された。今後最低でも13年間、つまりお前に王位継承する予定の年まで、外出せざるを得ない時以外は全てあの部屋で過ごしてもらう。聖女様がお前と一緒に暮らしてみたいと言うのでな、私も出来る限り協力させてもらうことにしたのだ」
何!?13年間もあの部屋でずっと過ごせというのか!?
「陛下!あの部屋は神聖な部屋であり、執務室ではありませぬ!家具の持ち込みなど出来るはずが!!」
「それは問題ない。聖女が床と壁一面に常時結界魔法を展開し、家具程度なら乗せても保護呪文に干渉しないようにしてくれている。流石に今ある家具は動かせないが、意外とあの聖女も機転が利くようだな」
エリノル、なんて余計なことを……!
「ですがあの部屋から出られないということは、夜会等にも出られなくなりますぞ!貴族間交流が途絶えてしまいます!」
「それも大丈夫だ。夜会にも私が代理で立つから出なくていい。お前と繋がる重要な貴族は、全て私を通じて知り合った者たちだろう?私から既に話は通してあるので安心せよ。ああもちろん、あの部屋に客を呼ぶのは構わないと聖女も言ってくれてたぞ?良かったな、エッケハルト王子」
「よくありませぬ!!いくら執務に必要なものが揃っているからと言ってあの部屋にずっといるなどとても――」
「耐えられぬというのか?不思議なことを言うではないか。お前が私に言ったのだぞ?自分は聖女の理解者であると。理解した上で先代聖女の努力不足を非難してきたのでは無かったのか?」
「そ、それ、は……」
確かに、言ったが……!
「それにお前がそれほど嫌がる部屋に、愛する妻を一人で住まわすのも心が痛むだろう。愛のある結婚とは、苦しみもまた二人で分け合ってこそだ。少なくとも私は、亡き妻とはそうしてきた。さて騎士団長、エッケハルト王子を直ちに聖女の部屋まで連れて行け。部下には部屋から出ようとしたら剣を使ってでも止めるよう厳命せよ」
「はっ!さあ殿下、参りましょう」
そんな、馬鹿な……!?まさか本当にあの部屋で、13年も!?私は臣下の礼を執ることも忘れ、呆気にとられたままトボトボと騎士団長の後を歩くしかなかった。頭の中にはこれまでの自由な生活と、何故かかつての陰気な少女が浮かんでいた。
重苦しい気分で部屋のドアを開けると、妻となったエリノルが美しい笑顔で迎えてくれた。促されるままカーテンの向こう側に入ってよく見渡してみると、部屋は意外と広く、父上と母上が暮らしていた部屋と同じくらいの広さがあるように思えた。古臭いが清潔感はあり、既に私の私物や執務に必要な道具や資料が運び入れられていた。
確かに広く、天井も高いが、開放感はない。むしろ部屋の広さがより孤独を実感させた。
「お待ちしていましたわ、エッケハルト様。今日から夫婦水入らずで過ごせますわね」
「エ、エリノル……その……」
「わかっています、とても不安なのですね。でも大丈夫ですわ。エッケハルト様の言う通り、外の者に言えばなんでも手に入りますもの。夜会に出ない分、時間は増えましたでしょう?流行の最先端くらいなら把握できますわよ」
……な…に?何故、先日グレーティアに言ったことをエリノルが知っている!?エリノルには話していないはずだぞ!?
「ま、まさか、それはグレーティアから聞いたのか?」
「いいえ?私は初めから全て知っていたのですよ、殿下。殿下がお姉さまを虐げてきたことも、聖女の辛さを何もご理解されていないことも、殿下が私に恋したことをお姉さまに話して絶望させたことも、全部ね」
改めてエリノルの目を直視した私は、戦慄を覚えた。まだ可憐な少女だった頃、エリノルの瞳は私への恋心で燃え上がっていたはずだ。だが今の彼女の瞳は、確かに燃え上がってはいるようだが、それは少なくとも恋によってではないように見えた。
「エリノル……!?」
「私、10歳くらいの頃に外の守衛さん達が愚痴をこぼしているのを聞きましたの。殿下がお姉さまに言ったひどい言葉の数々について、ね」
「なんだと!?」
「特にご年配の方は、すごくお優しい方でね。お姉さまのために泣いてくださっていたのよ。だから私も一緒に泣いちゃって……何も知らないまま、純粋に殿下を慕っていた自分が凄く恥ずかしくなりましたの。その日からは守衛さんに頼んで、面会の時に何があったのかを逐一教えて頂いてましたのよ。報酬は……私がお姉さまをお救いすること。そして守衛さんは、私のお願い事をなんでも叶えてくれること。聖女になった後も、ね。お姉さまは昔から遠慮しがちで、守衛さんをあまり頼ってくれないって残念そうにしていましたわ」
馬鹿な!?で、では、エリノルは10歳の頃から私のことを憎み続けていたのか!?あの熱い瞳は、恋する娘のものではなく……!?
「さて、私のためならどんなことでもしてくれるのですよね?ちゃんと約束は守って頂きますわ、殿下」
「ま、まて!許してくれ!私が悪かった!なんでも言う事を聞くからこの部屋から出してくれ!そ、そうだ!心を入れ替えて、君の姉も第二夫人として娶ろう!彼女もこの部屋に招こうじゃないか!姉妹で過ごせばこんな部屋でも寂しくは――」
「お姉さまは既に自由の身。隣国ヴァグナーの次期王妃候補ですわ。どこまでお姉さまの幸せを邪魔すれば気が済みますの?でも、まあまだお願いを言う前ですから、その戯言も特別に許して差し上げます」
……え……?
「こ、この部屋で、一緒に住むことではないのか……?」
「あれは国王へのお願い事ですから。私のお願い事は唯一つ……毎日寝る前に、お姉さまとの思い出を話してくださいまし。それで許して差し上げますわ」
冷酷な目が、口が、嗜虐的な笑みで歪んでいく。それは今まで見てきたものの中で最も恐ろしく、そして最も美しかった。
「よくも大好きなお姉さまを虐げてくださいましたわね、旦那様?まあでも、旦那様を直接攻撃したり、言葉の暴力を振るったりはしませんから、そこはご安心くださいな。その必要もないでしょう?さあ、どうぞ自由にお過ごしくださいませ。私は紅茶をご用意いたしますわ」
エリノルの目が燃えている。恋にではなく、復讐心によって。それは愛する者に向けるものではなく、愛する姉の敵を見る目……紛れもなく、憎悪と敵意だった。
エリノルは人生を懸けて私に復讐するために、私と結婚したのか。最も近い距離で、最も痛みを与えられる方法を採るために。
あまりの絶望感で、この時の私はすっかり忘れていた。13年とは、グレーティアがこの部屋で過ごした年月と同じであるということを。
毎日思い出を話すということは、すなわち――。
--------
私とアルが結婚して数年が経った。聖女の頃のように必要以上に縛られることなく、王妃としての教育を受けつつ自由を享受する日々。自由と言っても一日に数時間だけれども、自由に外へ出られるし、月に数時間しか外に出られなかったことを思えばどうということもない。今は幸せの絶頂だった。
だけど、幸せの中でも気にかかっているものはある。妹、エリノルのことだ。
エリノルからは定期的に近況報告の手紙が届く。実際に聖女になったらどうなるのだろうと内心少し心配していたのだけれど、特に目立ったトラブルも無いらしい。聖女になればあの部屋から出られず、誰からも距離を離されて、孤独に苛まれるはずなのだ。だけど手紙からはそれは読み取れず、エッケハルト殿下との結婚生活は順調だという。私が得られなかった幸せを自分の手で手にした妹が誇らしくもあり、ちょっとだけ妬ましくもあった。
「意外だな」
「アル?」
「グレースも同じことを思っていたのだろう?君から聞く限り、エッケハルトは君とあの部屋を重ねて見ていた。君の本質である賢さと愛らしさに触れず、まるであの部屋が君であるかのように誤解していた。少なくとも俺はそう聞いている。その彼が、数年経っても妹君と円満夫婦を続けているというのは、少々奇妙に思えてね」
アルは一度も会ったことのない妹ではなく、エッケハルト殿下が気になるようだ。つまり、お互いそれぞれの人物に対し、違和感を抱いているということだ。
「気になるのでしたら、確かめてみますか?」
「……帰ってみるかい?」
「ええ。あくまで、嫁いだ姉としてですけども」
多分、それではっきりするはずだ。野次馬のようで気が引けるけども、妹が幼少の私のように気持ちを殺して過ごしているだけだとしたら、それはそれで不憫だ。元聖女として言えることは殆ど無いけども、姉として出来ることがあるならばしてあげたい。
「安定期に入ったとは言え、君ももうすぐ母になるんだ。なるべく無理せず、すぐに帰ってくるのだよ」
「ええ、あなた。行ってきます」
「行ってらっしゃい、グレース」
私は自身の幸せを実感したまま、タールベルク城へと馬車を走らせていた。
が、数年ぶりに来訪したタールベルク城で、私は信じがたいものを見た。
「あら、お姉さま!お久しぶりでございますわ!」
「え……エリノル……と、殿下!?な、何故この部屋に!?」
「やあ……グレーティアか。久しぶりだね」
殿下と妹が、あの部屋の中で二人缶詰になって、書類に埋もれていた。いや、埋もれているのは殿下だけで、妹は整理された書類の横で優雅に紅茶を飲んでいる。その表情は実に晴れやかで、この陰気な部屋で過ごし続けたとは思えないほど明るい。
「エッケハルト。その書類の山も私が手伝って差し上げますから、一時間ほど外の空気を吸ってきなさいな」
「え!?ほ、本当に良いのかい!?」
「ええ、最近はよく頑張ってたし、ご褒美よ」
「ああ……!ありがとう!ありがとうっ!!ちゃんと一時間後には帰ってくる!!おみやげも買ってくるよ!!」
「まあ!楽しみだわね!ところで、後59分よ」
涙ながらに歓喜の表情を浮かべたエッケハルト殿下は、私に対して会釈だけすると、すぐに走り去っていった。数名の護衛騎士も同行しているが、ちょっと数が多い気がする。一体、何がどうなっているのだろう?
「ちょっと散らかってますけど、どうぞこちらにお掛けになってください。今、お茶とお菓子をご用意しますわ」
「あ、ありがとう……ねえ?エッケハルト殿下はどうかしたの?なんか、様子がおかしいけども」
「結婚した後、ここで一緒に暮らしてるだけですわ」
「ここに二人で!?」
「ええ、夜会も控えてずっと一緒にいてくださるのですわ。素晴らしい夫を持てて幸せですわ」
そう笑うエリノルは、本当に心から幸せそうに見える。でも、あの殿下の様子はちょっと尋常じゃない。
「ずっとって、どれくらい一緒に?」
「文字通りずっとですわ。ここで聖女と同じ生活を送って頂いてます。つまり月に数時間だけ外に出て、後はずっとここで過ごしてもらってますの。でも執務がある分、殿下の方がむしろ聖女より充実した日々を送れていると思いますわ」
もう何も言えず唖然とするしかなかった。この窮屈と言うほかない陰気な部屋で、あの殿下と二人きりで過ごすことがどれほど壮絶なものであるかは、13年間ここで暮らしてきた私にはよくわかる。いくら二人が愛し合ってると言っても、外に出られないストレスは耐えがたいものがある。まして、聖女の力と覚悟を持つエリノルはまだしも、常人にすぎない殿下には。
「い、一体……」
「ねえ、お姉さま。お姉さまは今、幸せですか?」
ハッとして顔を上げると、エリノルの目がこれまで見てきた中で一番優しい光で輝いていた。かつて見た女としての彼女ではなく、妹としてのエリノルがそこにいた。あまりの懐かしさから気が緩み、疑問を全て横に置いて姉としての自分で接することが出来た。
「ええ、とても幸せよ。お義父様…ヴァグナー陛下もご健康を取り戻されたし、タールベルクとも同盟を結べて平和そのもの。それに、私ももうすぐ母親になるの。女の子よ」
「まあ!おめでとうございます!お姉さまとアルフレート殿下の娘なら、きっと世界一可愛らしい娘に育つに違いありませんわ!」
「エリノルが女の子を産めば、世界で二番目になっちゃうかもしれないわね」
「私は男の子しか産むつもりがありませんもの。問題ありませんわ」
「またそんなことを言って!そういえば、タールベルク王とはどう?」
「実に良好な関係ですわ!特にエッケハルト殿下のことに関しては、よく二人で相談しているのですよ。多分、殿下が国王になるのはもう少し先になるでしょうね」
そう言って笑うエリノルは実にリラックスしていて、本当に幸せそうに見えた。彼女は彼女なりの幸せを手に入れたのだろうか。私が姉として心配することは何も無いのかもしれないと思うと、少し寂しかった。
「ねえ、エリノル。貴方のおかげで私はすごく幸せになれたわ。でも、貴方は幸せなの?」
エリノルの顔が、満面の笑顔で輝いた。それは幼少の頃、まだ私が聖女になる前に見せた笑顔のようだった。
「ええ!幸せですわ!だからお姉さまはもっともっと幸せになってくださいね!お姉さまのお子様を抱っこできる日を楽しみにしていますわ!」
ああ、神様。私は自分の幸せのためにエリノルを犠牲にしたと思っていました。でもそれは、私の思い違いだったのかもしれませんね。聖女の宿命を背負っても尚、誰かの幸せを喜ぶことができる彼女こそ、真の聖女に相応しかったのかもしれません。
自分の幸せのために妹を聖女にしたことは一生忘れられません。だけど……妹が幸せを掴むきっかけになれたことだけは、認めてもよいのでしょうか。
「エリノル。私はこれからもあなたの幸せを祈っているわ。今日はお腹の子のために早めに帰るけど、産まれたらまたじっくりと話し合いましょうね。その時は私の娘を抱っこしてあげて頂戴」
愛する妹と、幸せを分け合う家族として接する日がくるなんて思わなかった。あまりの喜びで、うっすらと涙が浮かんでくる。
「もちろんですわ、お姉さま!心より楽しみにしております!」
私たちは最後に強く抱き合って別れを惜しんだ。帰ったらアルに、噂通りの円満夫婦だったとお伝えしなくてはならない。次に会う時にはもっとお土産を持ってこようと、妹と殿下のさらなる幸せを願いながら帰路に就いた。
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「ただいま帰ったよ!3人で一緒にこのお菓子を食べようよ!……あれ、グレーティアは?」
「遅いわ、エッケハルト。お姉さまの服装から身重だったのがわからなかったの?こんな重苦しい部屋に妊婦が一時間も滞在できるはずがないでしょう。本当に鈍い男だわ。よくもあの時お姉さまを鈍いだなんて嗤えたわね?それについて今はどう考えているのかしら?」
「え!?す……すまない……あれは、自分が見えてなかったんだ……」
「ふぅ……まあいいわ。陛下も『間違いを犯した後が大事だ』とよく言っているわけだし、今回は許してあげる。それにお姉さまのお菓子も買ってくる気配りが出来た部分は認めてあげてもいいわ。気付きの悪さは、次にお姉さまが来るまでに改善しておきなさい」
「あ……ああ!ありがとう、エリノル!君に少しでも認めてもらえて本当に嬉しいよ!」
「そういうのは国民に認められる男になってから言いなさいな。さあ、こんな簡単な書類仕事は二人でさっさと終わらせましょう。そしたらこのお土産は、二人で一緒に食べましょうね、旦那様?」
「ああ、そうだな!さあやるぞー!」
実に単純な男ですこと。復讐のために殊更嗜虐的に接してきたというのに、逆にそこに快感を見出すとはね。でも、エッケハルトにとってはその方が良かったのかもしれないわ。自分より下だと思った存在につらく当たる傾向にあるわけだし、妻である私よりも下であると思わせ続けておかないとね。この人の場合、無駄に伸びがちな鼻は都度叩き折っておかないとロクなことを考えないから。
もちろん国王になるまでには、王とは国民を下から支える存在だとよく認識させる必要がある。本当なら聖女依存の体質を改善させるためには、今の陛下以上に上から引っ張り上げる存在が欲しいところなのだが、他に王位継承権を持つ者がいないのだから、致し方ない。
……王位継承権、か。一応保険も用意しておいた方がいいかもしれないな。
「ねえ、エッケハルト」
「なんだい、エリノル?」
「そろそろ私達も世継ぎを作らないといけないわね?」
「え!?そ、それって……!?」
「ああ、でもお互い仕事で疲れたら夜は眠るほかないわねぇ」
「き、君はやっぱり休んでてくれ!こんな簡単な仕事、私が一人ですぐに片付けるさ!そしたら今夜は床を共にしよう!」
「あら素敵な言葉だわ!じゃあ私も精がつくものを用意するわね♪」
過去にも一世代超えて王位継承させた例はある。ひとまず子供を作っておけば、息子にせよ娘にせよ王位継承権を持たせることが出来るだろう。それにもしかしたらエッケハルトも父親になることで、もっと色々自覚を持てるようになるかもしれない。もしお姉さまを虐げたことを心から悔い改め、聖女依存が過ぎる現体制を改革できるだけの気骨を持てたなら、任せてみても良いだろう。駄目なら神のお告げがあったとでも言って引きずり下ろせば良いだけだ。
「見ててくれ、エリノル!これが私の本気だぁぁぁ!!」
……まあ、なんだかんだ、私もこの男を愛し始めているということか。私も人のことを言えない、度し難い女だ。
「……拝啓、元聖女のお姉さまへ。私は――」
凄まじい勢いで書類を処理していく旦那様を紅茶片手に眺めながら、次に書く手紙の原稿をぼんやりと考えていた。
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