スノードロップの本音
朝、学校に行くと、机の上に花が置いてある。
白くて小さな花が一輪。
それは今日だけの話ではなく、昨日も一昨日も、ずっと前から続いている。誰がやっているのか、何のためにそうしているのかは分からない。ただ、僕が学校に来て自分の席を見ると、決まって同じ白い花が置いてある。クラスのみんなに聞いても、誰もが知らないと言って首を横に動かした。
そんな中でも、僕は一人だけ心当たりがある。僕はその心当たりの、隣の席に座っている少女に視線を向けた。
雪ノ下雫さん。
彼女こそが、この花の贈り主だと思っている。なぜなら、
僕がその白い花を手にすると、いつも必ず微笑みかけてくるから。
本人に直接聞いたわけではない。だけど、毎日僕より早く学校に来ている彼女ならありえるし、何より、いつも見せてくれるあの微笑みが、そう言っているような気がしたから。
雪ノ下さんとは、二年のクラス替えで初めて一緒になった。
病気なんじゃないかと思うほど肌は白く、腰まで伸びている二本の三つ編みは、対照的に艶やかな黒色をしている。華奢な体で椅子に座っているその姿を目にしたときは、一瞬、精巧にできた人形と見間違えるほどだった。
ただ、それもあながち間違いでもなく、殆ど表情を崩すことがない彼女は、どこか本当に人形のように思えた。クラスの誰とも話そうとしないで、いつも一人で窓の外ばかり眺めている。
そんな雪ノ下さんが、誰かと関わり表情を変えるのは、僕と目が合ったときだけ。言葉は交わさないけれど、それでも目が合えば、いつも優しい笑みを向けてくれる。
僕はそんな彼女のことが、少しずつ気になり始めていた。だからこの白い花の送り主が彼女であって欲しいと思うし、この不思議なやりとりが、毎日学校に行く楽しみになっていた。
「ふーん」
「ふーんって、それだけ?」
昼休み。僕の話を聞いた祐介の反応は、あまりにも素っ気ないものだった。
「だって、それが雪ノ下だって確証は、どこにもないんだろ?」
「それでも、目が合うと必ず笑いかけてくれるし、絶対に雪ノ下さんだよ」
「やれやれ、その自信はどっから来るのやら」
祐介は呆れたようなため息をつくと、さりげなく僕の弁当箱からおかずを取っていく。
「何でもそつなくできる朋也が、俺に相談だっていうから聞いてみたけど、まさか恋の相談だったとはな」
僕から奪った唐揚げをそのまま口に放り込んで、ニヤついた笑みを浮かべてきた。
「何だよ、その顔は。……それで、どう思う?」
「どうって、何が?」
「だから、雪ノ下さんはその、僕のこと、どう思っているのかな……って」
「……朋也それ、聞く相手を間違ってるぞ。そんなの本人に聞けばいいだろ」
「ばかっ、そんなことできるわけないだろっ! 大体、それができたら相談なんかしないよ」
「まぁ、どうでもいいけどな」
「どうでもいいって、祐介……」
「そもそも俺、あいつのことあまり好きじゃねーんだよな。いつも暗いっつーか、何考えてんのか全然わかんねーし」
そう言いながら祐介は、さらに僕の卵焼きを持っていき、代わりにトマトを置いていった。
「雪ノ下さんのことを悪く言うな。あと、僕の弁当からおかずを取るな。自分の嫌いなものを置いていくな」
でも祐介の言う通り、誰とも関わろうとしない雪ノ下さんは、クラスでも浮いた存在となっている。彼女のことをどこか遠巻きに見て、避けている人もいるだろう。
「そんなのが好きっていう朋也も、変わった趣味してるな。あいつのどこがいいんだよ?」
「どこがって言われると……うーん……」
好きという気持ちははっきりとしているけど、どこがと聞かれるとなかなか難しい。可愛いとか、物静かな雰囲気とか、そういうのもあるけど、でもそれをいざ言葉にしてみると、何か違う気がする。
気づいたときには、いつも彼女のことを考えていたり、無意識に目で追っていたりしている。彼女のことを想うと、ふわふわと落ち着かない気分になる。
ときには、いろいろな想いが溢れ出しそうになって、心がかき乱されることもある。でもそんな時間さえも、不思議と心が踊ってしまう。
ただ、好きだ。
そんな漠然とした大きな気持ちだけが、僕の心を埋め尽くしている。
正直、こんな経験は初めてだから、どうしたらいいのかまったく分からず、気持ちを持て余している状態だ。
「会って間もない、会話もしたことない。んでもって、どこがいいかもわからない。そんなんでよく好きになれたな」
「別にいいだろ。それに、人を好きになるのにいちいち理由つけるのも、何か理屈っぽくないか? 感情が込もってないっていうか」
「ま、それは個人の自由だからいいけどさ。で要するに、朋也は雪ノ下のことが気になっていて、毎日花をくれるのも、彼女かもしれないって思ってるんだろ」
「まあ、そういうことだよ」
「それならせめて、花のことだけでも聞いてみればいいだろ?」
「それは、そうだけど……」
でも、もし彼女じゃなかったときのことを考えると、やはり躊躇してしまう。それに、話しかけることによって、今の関係が終わってしまいそうで怖かった。
「まあいいや。それで、その花ってのは、どんな花だ?」
僕は今日貰った白い花を祐介に見せる。
「図鑑とかで調べて見たけど、いまいちわからないんだよな」
「これは多分……スノードロップだな」
「相変わらずいろんなこと知っているな」
祐介は普段の素行や態度に似合わず、意外と博識だったりする。
「まぁな。何だったら、クラスの女子全員の誕生日とスリーサイズも教えてやろうか」
でもその殆どが、ろくでもないものや無駄な情報ばかりで、実際役に立つことはあまりない。
「もっとも、雪ノ下のだけは知らないけどな」
本当に役に立たないなと、残念がっている自分がいた。そんな自分を何となく咳払いをしてごまかす。
「ごほん。へ、へぇー。この花、スノードロップっていうんだ」
「ああ、確か花言葉は、『希望』『慰め』。あと、『初恋のため息』なんてのもあったっけな」
「初恋……か」
自分で復唱した言葉に、なぜだか動悸が激しくなり、体温が上昇していくのを感じた。
「あともう一つあった気がするけど、なんだったっけ……」
そのあとも、祐介はなにか言っていたが、僕の頭の中は『初恋』の二文字で一杯になっていて、後半はまったく耳に入ってこなかった。
それからも、僕の机の上にスノードロップが贈られている日々は続いた。
暖かな日も、冷える日も。雨の降る日も、風が強い日も。一日だって途絶えることはない。
そして僕が花を手に取ると、雪ノ下さんは優しく微笑んでくれる。言葉も交わさない。触れることもない。一瞬の出来事。
だけど、最近はその笑顔を見る度に胸が苦しくなる。話をしたい。距離を縮めたい。その先に進みたい。でもそれを望むことによって、今の関係が壊れてしまいそうで怖い。戻れなくなることを考えると、それだけで気持ちがざわつく。そんなジレンマに悩まされるのも、一度や二度だけではない。
それでも、受け取る白い花の数だけ、彼女に対する僕の想いは強くなっていた。
そんなある日、一つの変化が起きた。
いつもと同じように学校に行くと、僕の席にはスノードロップが置いてある。でも今日はそこに、ノートの切れ端のような紙が添えられていた。不思議に思い、花よりも先にそっちの方に手を伸ばす。
内容を見た瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
『今日の放課後、教室に来て』
慌てて横に座っている雪ノ下さんに視線を向けた。でも彼女はいつもと同じで、優しく微笑み返すだけ。それ以上は何も言わないし、何も語らない。
僕がその場で硬直していると、授業開始のチャイムが鳴り、先生が教室に入って来た。席について教科書を広げたが、午前中の授業はまったく集中できなかった。
昼休みになると同時に、今朝のことを祐介に相談した。
「なあ、これって多分、告白されるってことだよな?」
「まあ、多分そういうことだろうな。相手が雪ノ下かどうかは別として」
「やっぱりそうなるかー」
「朋也、お前、めっちゃ顔がニヤけてるぞ……」
「そ、そうかな」
そんなことは祐介に言われなくても分かっている。でも、もし本当に雪ノ下さんから告白されると思うと、気持ちが舞い上がり、自然と頬が緩んでしまう。
「男子のいたずらって可能性もあるけどな。……なあ、朋也。その手紙の相手が本当に雪ノ下だったら、やめた方がいいぞ」
「……どういうことだよ?」
いつになく真剣な表情の祐介の言葉に、僕も声を低くして聞き返す。
「あいつの噂が色々と出回ってるんだけど、どれもいいもんじゃなくてな。……特に、人を殺したとか……」
「……は? 何だよそれ」
心底馬鹿らしいと思った。そういうことだったら僕もいくつか聞いたことがある。でも、そのどれもが信憑性のないものばかりだ。
「雪ノ下さんがみんなから少し浮いているから、根も葉もない噂を流して楽しんでいるだけだろ」
そういうのは本当に不愉快だ。たとえ、雪ノ下さんじゃない他の誰かだとしても、僕はこの手のことを快く思わない。
「そうかもしれないけど。でも、何か引っかかるんだよな」
「いい加減にしないと怒るぞ」
「……わかったよ。でも気を付けろよ。これは親友としての忠告だ」
祐介の言葉を最後にして、昼休み終了のチャイムが鳴った。
放課後になり、僕は約束通り教室で待っていた。ただ、時間までは書いていなかったから、四時から待機して、もう一時間以上になる。
どこか気持ちが落ち着かないのは、きっと教室の雰囲気がいつもと違うからだろう。誰もいない教室は、外の喧騒が遠くに聞こえ、暮れる夕日が室内を緋色に染め上げている。
時計を見ると、そろそろ五時半になる。だけど、人の現れる気配はない。
やっぱりいたずらだったのか。そう思って、帰ろうと後ろを振り向いたとき――
ドアのところに、一人の少女が立っていた。
病的なまでの白い肌。腰まで伸びた二本の三つ編みは、艶やかな黒色をしている。その華奢な体つきは、今でも精巧にできた人形じゃないかと思ってしまう。
雪ノ下雫さん。
彼女が来てくれた。
「あ、あのっ! ……えと、その……」
何か話しかけないと。そう思っても上手く舌が回らない。体中が一気に熱くなった。興奮と高揚で、心臓が張り裂けそうなほど脈打っているのが分かる。
そんな僕とは対照的に、雪ノ下さんはいつものように、静かな笑みを浮かべて、一歩、一歩と僕との距離を縮めてくる。
手には、いつも僕の机の上に置いてある、白いスノードロップと、赤く染まった包丁を持って――
「――っ!?」
一瞬、腹部が冷たく感じた。
そのあと、今度は焼けるように熱く感じ、徐々に痛覚を刺激してゆく。触れてみると手には、ぬめりとした赤い液体が着いて、さっきまで雪ノ下さんが持っていた包丁が、綺麗に刺さっている。
遅れてやってきた激痛に、その場に倒れ込んだ。
どうして? どうなっているんだ? 何で僕、こんなに痛いんだ? 今朝、手紙で呼び出されて待っていたら、雪ノ下さんが来てくれて。それから……
だんだんと頭の中がぼやけていく。そのとき、ポケットにしまっていたケータイが鳴った。意識が朦朧とする中、なんとか通話ボタンを押して耳にあてる。
『おい、朋也! 早くそこから逃げろっ!』
いきなり、緊張を含んだ親友の声が聞こえてきた。でも今はそれも遠くに聞こえる。
『あの女はマジでヤバイって。あいつと同じ中学だったやつから聞いたんだけど、あいつ中学のとき、授業中にいきなり発狂したりとか、教師を襲ったりとか、いろいろ問題起こしてて。警察沙汰にもなったことがあるって』
なんだよ、祐介。まだそんなこと言っているのかよ。
『それと、あの花の花言葉。初恋とかそういう意味もあるけど、もう一つ、人に贈るときは違う意味になるんだ。いいか、よく聞けよ。スノードロップ、その花言葉は――』
「あなたの死を望みます」
意識が暗闇へと沈む寸前、今までに聞いたことのない、とても美しい響きが耳に届いた。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。