一難去って
これから出勤という時だった。突然、家の電話が鳴った。
「えっ!父が!」
それは病院からだった。私はその足で慌てて駅の近くの市民病院に向かった。
タクシーから降り、病室までを走る私は、なんだか全身がふわふわとして、自分の体が自分の体ではない感じがしていた。もしも、もしも父までが死んでしまったら・・。頭が痺れるような不安が全身を覆っていた。
受付で病室を聞き、息が切れるのもかまわず、慌てて走って行くと、父は全身包帯まみれで病院のベッドに無残に横たわっていた。
「父さん!」
私は父さんの傍らに走り寄った。父は意識が無く、全く反応が無かった。
「酔っぱらって階段から転げ落ちたようです」
ベッドの傍らにいた少し背の高い医者が言った。
「あの、父は、父は大丈夫なんですか」
私は医者とその隣りにいた看護婦を、すがるように見上げた。
「大丈夫なんですか。父は」
「今は薬で眠っていますが、意識はあります」
私は医者の顔を食い入るように見つめた。その口から、最悪の言葉が出て来ないかどうか胸いっぱいの不安を抱えて。
「とりあえず検査の結果を待たないと何とも言えないのですが、まあ、命には別状は無いと思います」
医者は私を安心させるように言った。私はその言葉を聞いて全身の力が抜けるようにほっとした。
「ですが」
「ですが?」
「全身打撲と骨折も複数個所ありますので、手術をしなければならないと思います」
「手術・・」
「入院も長期間になるかもしれません」
「・・・」
「それ以上のことは今の段階ではまだ何とも言えませんが、そういったことも覚悟しておいてください」
「は、はい」
その後、医者は、隣りの若い看護婦に何事か言いつけて病室から出て行った。
私は全身包帯まみれで横たわる父の姿を再び見つめた。
「・・・」
こんな弱弱しい父を見るのは初めてだった。私は不安と悲しみで胸が張り裂けそうだった。
「愛美、三百万円必要なんだよ」
殆ど眠ることもできず病院に一泊し、昼頃とりあえず家に帰り、さてこれからどうするかと悩んだまま玄関の開き戸を開けた瞬間、突然母が裸足のまま玄関に飛び出してきて私に哀願するように迫ってきた。
「三百万必要なんだよ」
母の強烈に動揺した目が私に迫る。
「三百万!」
「どうしても必要なんだよ」
母はかなり興奮し、殆ど錯乱状態だった。
「お兄ちゃんがね。お兄ちゃんが地獄へ行ってしまうんだよ」
なおも母は怖いくらいに私に迫って来る。
「地獄?」
「炎に焼かれてしまうんだよ。お兄ちゃんが地獄の炎で焼かれてしまうんだよ」
母はその場に泣き崩れた。
「龍善様にちゃんと供養してもらわないと、お兄ちゃんが・・」
泣きながら母は絞り出すように、呻くように言った。
「でも、三百万なんて無いよ」
貯金などする余裕もなく、当然そんな大金など欠片も全くなかった。
「お願いだよ。愛美。お兄ちゃんが。お兄ちゃんが地獄の炎で焼かれてしまうんだよ」
母はまた私に哀願するようにその涙でぐちゃぐちゃになった顔を向けた。
「・・・」
母の悲しむ顔は見たくなかった。でも・・。
「でも三百万なんて・・」
「ああああぁぁぁ」
母は、何とも言えないうめき声と共に、叫ぶように泣き崩れ玄関に突っ伏してしまった。
「・・・」
私はまた目の前が真っ暗になるような錯覚を覚えた。父のこと、母のこと、今のこの目の前の現実。私にはもうどうしていいのか分らなかった。