終
「ひとつ言っておきますけれど、マザーは本当の意味では死んでいませんよ」
事が終わって落ち着いた後で、レンはそんなことを言い出した。
「えっ、どういうこと?」
驚いたアステルが聞き返す。
「それはですね――」
レンの言葉を遮るように――あるいは応えるように、二人の眼前に光が降りた。
霧が凝るような、淡く幽玄な光の集結。乳白色の光。言葉を失い見入る彼らを置いて、それはある形を取り始めた。
予感に身を任せ、二人は見守る。
人のかたちだった。やがて細部が明らかになる。それは、見慣れた……
「マザー」
アステルが、感極まったように呟いた。
乳白光の人型、マザーは言葉を発しない。ただそれはゆらゆらとたゆたい、暗く沈む塔の空気を照らしている。
幽かなその姿、表情は判然としない。
だが、そのとき、二人には見えた。
マザーが、にやりと――笑ったように。
ついに目にしたことのなかったマザーの表情に、二人は我を失った。次の瞬間、マザーの人型はどこからともなく取り出した箒――マザー自身のブルームにまたがると、上天に向かって凄まじい速度で上昇し、塔の壁をすり抜けて、いずこかへと飛び去った。
声も出せない二人を置いて、レンは語る。
「滅んだのは、マザーの肉体だけです。マザーは、ついに完成させた長年の研究を、実践したまでのこと」
「……長年の研究」
「そういえば、それってどういう」
ようやく二人は我を取り戻す。
確かにマザーは、そう言っていた。研究が完成したと。しかし二人は、結局その詳細を一度も聞いたことがなかった。
「マザーの研究は、御自身を <偏在> させることです」
「偏在?」
「はい。知覚を遍く世界に行き渡らせ、この世のあらゆる事象を余すことなく取り入れること……だそうです。そう、だから、今この瞬間もお二人は、マザーに見守られているのでしょうね」
「……へえ……」
壮大なことだ、と二人は思った。なるほど確かに、そんなことが目的であれば、肉は枷にしかならないであろうと納得する。
「お二人がブルームを完成させ、ひとまずは一人前になったのが直接の契機となったようです」
「ひとまずは、っていうのが気になるけど」
「マザーは、ぼくらのことを気にかけてくれていたんだね、やっぱり」
「そうですよ。お二人はマザーの、たった二人のお弟子さんですからね」
たった二人の弟子。
その何でもないフレーズが、二人にはとても誇らしいことに思えた。
魔女に師弟の情など存在しない。
だけど。
偉大なる師、<枯れ箒> マザー・タタリの名に恥じない魔女になる。
そんな言葉を、高みを目指す上での支えにするくらいは、許されてもいいのではないかと思うのだ。
+
「ねえ、これからどうする?」
「そうだね……」
マザーはもういない。
だから、これからは自分たちの足だけで立って、歩いて行かなければならない。
わずかに考えて、リクは言った。
「魔女には、高みに至るための、相応しい『研究テーマ』が必要だと思う」
「なるほど。確かにその通りね」
アステルは腕を組んで、顎に指をやる。考えるポーズ。
「……でも、どうやって決めればいいのかな? そのテーマって」
「まずは、マザーの研究室に行ってみない?」
「あ、それいいね。いいよね、レン」
「いいんじゃないでしょうか。特に禁じられてもいませんし……というか、お二人の行動を束縛する者は、もう何者もいませんよ。自由です」
「そっか」
アステルは微笑む。リクも笑った。
自由。
心躍る響きだと、二人のちいさな魔女は思う。
「それじゃ、行こう。リク」
「うん」
「わたしのことも、もう少しだけ忘れないでくださいね。いましばらく、お二人のお世話をさせて頂きますから」
「当然だよ。忘れるわけないでしょ」
「うん。レンはだいじな――仲間だよ」
「そう言って頂けるとありがたいです。では、改めて。どうぞよしなに」
二人の魔女は、タタリの研究室への扉を開く。
それは偉大な高みへと続く道の、第一歩だった。