四話
マザーが自らの死を予言して、数日が経った。
その日、二人が与えられた魔法の修行課題は、すこしいつもと違っていた。
「二人で協力して、ですか?」
幻獣との模擬戦を行う修行。それを、二人で共に行えという。
幻獣相手の戦闘修行じたいは、二人とも何度もこなしてきている。しかし、二人で協力して一体の幻獣と戦えというのは、初めてのことであった。
この未知の課題に対して、アステルは
(チャンスだ)
と思った。リクと共に行うこの修行で大きな手柄を立てれば、マザーの評価はぐっと上がるに違いない。しかも目的は幻獣打倒。魔法の攻撃的な側面を得意分野とする自分としては、これは千載一遇のチャンスに違いない。
アステルは心中で密かにほくそ笑む。
対照的に、リクの表情は不安げだ。
幻獣との戦闘が不安なわけではない。確かに危険な修行ではあるけれど、これまでに何度もしてきたことだ。なのに何故不安なのか。
マザーが死を予告したことと、無関係ではないとリクは思う。精神的に動揺しているのだ。だから、新しいことに対して、妙な不安を感じたりする。
「マザー。その幻獣とは、どのようなものなのでしょう」
不安のままに、リクは質問を投げていた。
だが、マザーは明確に答えない。
「その特性を判断し、的確に対応することも修練の内ゆえ、詳細は言えぬ。だが、油断すれば大きな傷を受けることにもなろう。重々注意せよ」
「はい……」
リクにとって、その答えは予想の内だった。ゆえに驚きこそないが、結局不安は解消されない。彼の返答する声は、より深く憂鬱に沈んでいくようであった。
マザーの言葉が重く響く。大きな傷を受けるかもしれない。
危険な修行だ。
当然である。まさにその為に修行しているのだ。命の危険が大きければ大きい程、魔法の力はより強く、鋭く、磨き上げられる。魔力とは生命力。人の身に宿る神秘、生命がもたらす特別な力だ。なればこそ、進んで死地に身を投じることが、短時間で魔法を上達させることに繋がるのだ。
そうだと、分かっていても。
……自分が傷付くだけなら、まだいい。
だが、アステルが傷付くのは。
(守ろう)
そう、リクは強く思った。これまでとは違う、二人一緒なのだから、自分がアステルの盾になればいい。そうすれば、アステルは傷付かない。
二人それぞれに思う中、マザーは修行の開始を告げる。
「始める」
マザー・タタリは、自身のブルームを掲げた。巨大な棒の先端に、枝のような何かが大量に密集した形――例えるなら箒だ。リクたちの持つ練習用のブルームを、より一層複雑高度に改造するとこのような形になるかもしれない。いや、むしろ、リクたちのブルームが、タタリのブルームを簡略化したものなのだ。
<枯れ箒> 。それがタタリのブルームの名だ。
タタリの第三眼が光る。額から漏れる光は、偉大なる魔女という呼び名からは想像もできない程に、弱い。
しかしそれは、タタリの魔力が弱いことを表さない。
その意味するところは、魔力制御の精密さだ。
サードアイの光は魔力の光。しかし、その光そのものは、何らの魔法も顕さない。つまり、サードアイから漏れる光は、魔力の損失、浪費なのだ。
高位の魔導師たちは、その精緻な魔力制御術で、魔力の浪費を最小限に抑えている。ゆえに、何の効果も持たぬ光などは殆どの場合、一切生じることはない。
それにも関わらず、今タタリの眼から淡く光が漏れているのは、これからタタリが行使しようとしている魔法の規模の巨大さゆえだ。
リクとアステル、二人の人間を取り込むための幻界の顕現。及び、幻獣の召喚。一つ一つ高度な魔法であるそれらを二つ並行して発動し、かつ精密に制御しようとしているのだから、いかに超高位の魔女と言えども魔力制御にむらが出来てしまうのだ。
タタリのブルームが変型する。一切の音を立てず、<枝> が伸びて二人を囲う。得体の知れぬ材質から成る、複雑怪奇な神秘の魔道具。絡み合う軸・歯車・螺子・発条、歪に節くれだったその構造は、まるでタタリ自身の体躯のようにも見えた。
リクはそのとき、<実感> した。これが、魔女なのだと。ブルームと共に生き、ブルームと共に在る者。その言葉の本当の意味。高みを極めた魔女にとって、もはやブルームは単なる道具ではない。己の体そのものなのだと。
二人を囲むブルームの枝が、わずかに囁くような音を立て始めた。同時に淡い白光が広間を満たす。
リクとアステルの視界が歪む。
一瞬の目眩、酩酊感、視界が完全な闇に閉ざされ、気付いたときには幻界への移動が完了していた。
そこは静かな森だった。
うすい白霧に包まれた、異形の森。
地面近くは特別に霧が濃く、ねじれた木々の根、現実には存在しない不気味な植物たちが、その中にぽつぽつと浮かんでいる。まるで霧海に沈む島々のようだった。
風はない。
のみならず、本来森にあるべき一切の音が、聞こえてこなかった。
マザーの作り出した修行の舞台、幻界である。
「……よし」
アステルがちいさく呟いた。口に出すことで気合を入れ直そうとしたのだろう、だがその声でさえ必要以上に大きく響き、リクは若干不安になった。
葉擦れはない。動物たちの気配も感じられない。時間が止まったような静寂。
だが、異常な静寂そのものは不思議ではない。ここはマザーの作った幻の世界ゆえ、不要なものは存在していないのだから。
不安を感じるのは、ここに居るはずの、自分たち以外の生物――幻獣の気配が感じられないせいだ。
霧のせいで視界がよくない。奇襲を受ける可能性がある。早々に位置を把握しなければならなかった。
リクは幻獣の気配を探査するため、サードアイに集中した。
隣のアステルはすでに魔力を解放し、額に強い緋色の光を灯している。だが、ブルームはまだ展開していなかった。索敵のような地味な作業はリクに任せるつもりなのか、それとも索敵自体が頭にないのか、彼には分からない。
リクはブルームを展開する。棒状のブルームの先端から六本の枝が伸び、放射状に広がった。そこから六方に魔力の「糸」を伸ばしていく。伸びる先に何か魔力的な異常があれば、糸が切れるようになっている。つまりこの場合、糸が切れた方角に幻獣がいる可能性が高いと言えるのだ。
伸ばした糸が――切れた。
だが、これは……。
「近い!」
リクは叫んだ。まるでそれに応えるかのように、獣の咆哮がリクたちの鼓膜を震わせる。
前方の木々を割り裂き、霧を吹き払いながら、それは姿を現した。
双頭の獣だった。右側に獅子、左側に竜の頭。体躯は大きく、獣の頭はリクよりも体ひとつ分ほども上にある。力の漲る前肢で太い樹木を踏みしだき、破壊衝動に満ちた四つの眼で、それは二人を睥睨していた。
(大きい!)
リクは心中で叫んだ。これまでの修行で戦ってきた幻獣に比べると、大きさも、迫力も、放つ妖気も、何もかも段違いだ。戦慄が臓腑を駆け下りる。
刹那動きを止めたリクの耳朶を、少女の叫びが打つ。
「――やってやる!」
アステルだ。
緋の光が一際強く、霧に返って場を赤々と照らし出した。手中のブルームはすでに槍への変型を終え、敵を貫く意志を示している。
「待ってアス――」リクが制止をかける頃には既に、アステルは幻獣に飛び掛っている。魔法で強化された大脚力で跳び、一刺しで仕留めんと槍を構える。
「死ねっ!」
狙うは獅子の左眼。緋い槍の穂先がそれを貫き、幻獣は血を撒き散らしながらのたうちまわる――そんなイメージが彼女の中に展開された。
しかし、それは実現しない。
「危ない!」
アステルは突然、腹部に巨大な衝撃を感じた。そのまま強引に、後ろに引っ張られる。かは、と息が漏れる。リクがやったのだとすぐに悟る。何故邪魔を。そう叫ぼうとした彼女は、強烈な熱気に言葉を失した。
つい半秒前までアステルが居た場所を、炎の柱が通過したのだ。
ブルームの先端がわずか、炎に飲まれる。ブルーム自体はその程度では破壊されないが、伝った熱量が余りに大きく、手放しかけてしまう。魔法を発動、アステルはかろうじて熱を中和し、ブルームを手放す愚を避けた。
「もっと慎重に」
「分かってる!」
またリクに助けられてしまった。落ち着け。落ち着かなければならない。アステルは何度も自分に言い聞かせる。確かにこれまでの幻獣よりも強力かもしれないが、それが何だと言うのか。やることに変わりは無い。ただ、敵を屠ればいい。
咆哮を轟かせ、幻獣が突進してきた。リクの反応が鈍い。アステルはリクの襟首を掴んで、全力で脇に跳んだ。二人の眼前を通過する巨大な暴力。木々が折れて倒れる、おぞましい音がそれに続く。
巻き込まれたら、と思うと背筋が凍る。分かってはいるが、命がけだ。
通過した幻獣の背後が見えた。その身体は大部分肉を持った獣のものだったが、そうでないところもあった。背中から太く、大きな木が生えている。違和感を催す光景だった。
獣が反転する。再び突進してくるつもりのようだ。
「アステル。竜の首が火を吐くみたい」
言い終わらない内に、竜頭から火が放たれた。ちょうど二人の間を裂く軌道。同時に幻獣が突撃してくる。今回も無事にかわすことができたが、二人は幻獣を挟む形に分断されてしまった。
竜の炎によって、森の木々が燃える。リクとアステルは、魔法を発動して熱気と火から身を守る。
アステルは反撃に転じる。彼女の側からは獅子頭が近いが、炎を吐く竜頭のほうが厄介だ。だから、アステルはまず竜頭に狙いを定めた。
幻獣の側まで一気に駆け寄る。気付いた獅子頭が食いちぎらんと迫るが、彼女は紙一重でそれをかわした。軽い身のこなしで獅子頭を蹴り、跳躍。空に身を躍らせる。
竜頭はリクに注意を払っている。がら空きだ。今度こそ、貫ける。
だが今度も、それは叶わなかった。
左足に激痛が走る。無理な力で身体を引っ張られる。大きく振り回され、放り投げられた。今更のように背筋を悪寒が走り抜ける。地面に叩き付けられる衝撃。
「うっ……」
必死で目を開け、敵の様子を見据える。
獅子頭が、伸びていた。
獣の身体と獅子頭の間には、蛇腹がある。気味の悪い粘液に塗れた、蛇の躯だ。空中に跳んだアステルを、蛇の躯を伸ばした獅子頭が噛んだのだ。
(反則だってば……!)
アステルのは心中で毒づく。悪寒。脂汗が意志に反して噴き出て、気持ち悪い。
「アステルっ!」
リクが傍らにひざまづいて、ブルームの枝を伸ばした。アステルの左足、負傷した部位に枝が絡んで桜色の光を放つ。アステルは、どうやらリクの側に放り投げられたらしいと知る。彼の魔法のお陰で痛みが引いていく。
竜頭の口内に、炎のちらつきが見えた。吐火の予兆。
「リクっ! 火が!」
リクは治療を中断し、アステルの身体を抱えて脇に転げた。間一髪、炎を避けることに成功する。
しかし、二人で地面に転がる体勢になってしまった。
(まずい)
今炎を吹かれたら、二人とも巻き込まれてしまう。かわせない。
だが幸いにして、幻獣が火を吐く予兆は訪れなかった。獣は自身が折り倒した木をよけながら、彼らに接近していく。
そのわずかな時間の間に、二人は何とか立ち上がることができた。
リクは幻獣の行動にかすかな違和感を覚えた。
(もしかして――)
ひとつの仮説が頭に浮かぶ。冷静にそれを検証しようとしたリクは、しかしアステルの行動に気を取られた。
怪我にも構わず、アステルが再度の攻撃を敢行したのだ。
「アステル!」
慎重にって言ったのに。自分の言葉が届いていないのかと哀しくなる。だが沈んだ気分に浸っている余裕はない。
アステルを守らなければ。
彼女はまず竜頭を仕留めるつもりのようだった。だが獅子蛇の頭に邪魔されて、思うように近付けていない。あわや獅子の顎がアステルを捉えるか、というところに、魔法の盾を張って援護する。
やがて再び、竜頭が火を噴く予兆。
今度はアステルもよく見ていたのか、難なく炎をかわした。しかし回避後、体勢を崩したところに獅子頭の追撃を受け、後退を余儀なくされる。
(――やっぱり、そうかもしれない)
リクは先ほど頭に浮かんだ仮説は正しい、と思い始めていた。
竜頭は、炎を連続して吐けない。
今も、獅子頭の攻撃をかわして体勢を崩したアステルに炎を吐けば、彼女は火に巻かれたはずだ。なのにそれをしなかった。
単に幻獣の知能が低いせいで、こちらの隙を突くような真似ができない可能性も考えられる。だが、リクはそうではないと判断した。
これは修行なのだ。敵のことをよく観察し、弱点を突けというマザーのメッセージに違いない。
「ああっ、もう! 炎が邪魔だわ」
リクの側まで後退してきたアステルが毒づく。声音こそ元気そうだったが、負傷も相まって表情に余裕はない。
「アステル。一人じゃだめだよ」
「分かってるわよ……!」
「分かってない。マザーも言ったでしょう? 協力しないと」
マザーの名を出すと、アステルは黙る。
「作戦があるんだ。乗ってくれる?」
「……何よ」
「竜頭は一度火を吐くと、しばらくは吐けなくなる。だからその隙を突いて、アステルが攻撃するんだ」
「でも獅子頭が邪魔よ」
アステルは、リクの仮説には反論しなかった。アステルも吐火の間隔に気付いていたのか、それともリクを全面的に信じているのか、どちらかは分からない。
いずれにせよ、言い合っている時間的余裕はないので、ありがたい。リクは対策を述べた。
「ぼくが囮になる」
「えっ」
アステルの表情が凍った。
「ぼくが獅子頭を引きつけるから、その隙にアステルがとどめを」
「待って。だめよ、そんなの」
「どうして?」
「どうしてって。囮ってことは、リクが攻撃を受けるんでしょう? 危険だわ」
「大丈夫。ぼくのほうが守りの魔法は得意だ。知ってるでしょう? それに魔力はアステルのほうが強いから、攻撃役はアステルがやるしかない。選択肢はないんだ」
「でも」
「時間がない。怪我だってしてるし、もう森も」
度重なる吐火によって、幻界の森は炎に包まれつつあった。火勢が強まるにつれて、二人も耐火の魔法を強めていかねばならない。結果的に、幻獣との戦闘に割ける魔力量が減少していくことになる。いたずらに時間をかければ、いずれ火に巻かれ、終わりが来る。修行は失敗だ。
「次の吐火が合図だ。行くよ」
アステルはまだ納得しきれていなかった。だが、リクの言葉は理解できる。他の可能性を探っている時間はなかった。
「……分かった。怪我しないでよ!」
言い終わると同時、竜頭が火を放った。二人はそれぞれに身をかわす。
リクは獅子頭めがけて走った。アステルはまだ、動かない。
猛然と突進するリクに、獅子頭は反応した。巨大な口を広げ、リクを噛み砕こうと首を伸ばす。
リクは避けない。
ブルームを掲げ、枝で自身を囲う。
視界一杯に獅子頭が広がる。迫る。迫る。
噛まれた――が、その牙はリクが展開した魔法の盾に阻まれ、リク自身には届かない。魔法と牙が拮抗して、桜色の火花が散る。獅子は魔法ごとリクの身体を噛み砕こうと、なおも力を込めてくる。揺れる。力に押され、魔法が揺らぐ。
怖ろしかった。
幻獣のとてつもない力を感じる。視界を獅子の口内が占めている。牙が見える。疣だらけの舌が見える。垂れ落ちる唾液が見える。本当に耐え切れるのか。そんな疑念が頭を過ぎる。
だが、すぐに終わる。リクはそう信じた。アステルがすぐに、幻獣の息の根を止めてくれる。それまでの時間だけ、耐えればいい。それまでの、わずかな時間だけ。
リクは自己の内部に集中した。魔力を練る。これまで何度も繰り返した、魔力制御の修行を思い出す。内を巡る生命のうねりを束ね、練り上げて、額の第三眼から外界へ。ブルームを通して増幅し、身を守る無二の盾を構築する。
更にリクは、魔法を紡ぎ直す。盾の構造を、最適化する。
身体全体を盾で覆う必要はない。牙が存在しているところだけでいい。他の場所を守るのは無駄だ。牙さえ止められれば、それでいい。
再構成された魔法の盾は、より強固な防壁となってリクを守った。牙に押されて揺らいでいた魔力が固定される。不安定に散っていた、桜色の火花が消える。
リクは待った。アステルが幻獣を屠ってくれるのを。
リクが獅子の顎に囚われた瞬間、アステルは思わずそちらに駆け寄りそうになった。だが、獅子頭の口は閉じられない。リクは無事だ。それを見て、自分の役割を思い出す。
幻獣を殺すこと。
今や獅子頭の動きは止まり、竜頭は炎を吐けない。邪魔するものは何もない。あとは思う様、自分の大魔力を叩き込むだけ。それだけで終わるのだ。
――好き放題やってくれちゃって。覚悟なさい。
左足の痛みはもう、だいぶ引いている。リクの治療のお陰だ。だけどあの痛みの恨みは忘れない。それに今、リクが危険な目に合っている。許さない。
アステルは自己の内部に集中する。サードアイから、外界へと。内に感じる力強いうねりをあるがまま、解放する。この状況では細かな魔力制御など必要ない。魔力量をセーブして、扱いやすくする必要もない。彼女本来の魔力を、ただそのままに乗せて、ぶつけさえすればいい。
額から、ブルームの先端へ。
魔力が灯る。緋く、緋く――周囲を焼く炎の中にあってなお緋く、圧倒的に強く煌く、それはアステルの命の輝きそのものだ。
「ああああッ!」
叫びを上げて、アステルは駆けた。竜頭が伸びるが、構うことはない。
竜も獅子もその巨躯も、まとめて貫いてしまえばいい。
ブルームの先端が竜頭を貫く。それでもアステルの突撃は止まらない。
肉を貫き、裂いて進む、確かな手応えが返ってくる。幻獣の断末魔が聞こえた気がした。
幻獣の躯の半ばまで突き刺さり、ようやくブルームは停止する。
「――死になさいっ!」
貫いただけでは、終わらない。
アステルは先端に集中した魔力を、一気に爆発させた。
竜頭と獅子蛇の頭が、まとめて身体から吹き飛んだ。肉片と血液が激しく飛散し、アステルの身体を濡らす。
「うえっ、きもちわるい……」
動かなくなった幻獣の躯を前にして、ようやく気が緩んだアステルは、まず初めにそう言った。
「大丈夫? リク」
「う、うん……大丈夫。ちょっと、疲れたけど」
そう言って笑うリクの表情は、確かに力ない。すこし顔色が悪いようにも見えた。よほど魔力を消耗したのだろう、とアステルは思う。
リクが囮になってくれなかったら、勝てただろうか。
きっと勝てなかった。左足をすこし怪我しただけで済んだのは、リクがいてくれたからだ。自分ひとりで戦おうとしていたら、もっと酷いことになっていたかもしれない。
すこし、悔しかった。
「ありがとう、アステル。アステルがすぐに倒してくれたから……」
「……リクがいたから、何とかなったのよ」
いつものように、言葉に棘が生えてしまう。
「いや、ぼくだけじゃ駄目だった。アステルと一緒だったから、倒せたんだ」
すっと、その言葉はアステルの心に入り込んできた。
リクだけじゃ駄目。
わたしだけじゃ駄目。
二人だったから何とかなかった。
ああそうか、何でも一人でやる必要なんか、もしかしたら、ないのかもしれない。得意なところは自分でやってリクの分まで助けてあげて。不得意なところは、リクに助けてもらえばいいのかもしれない。
そう思ったら、すこし、心が軽くなったような気がした。
「――あの」「ところで」
アステルが言いかけると、リクが同時に声を出した。
「何? アステル」
アステルは俯いた。今まで八つ当たりしてごめん、そう謝ろうかという気になったのだが、偶然リクと同時に発言してしまったのだ。気勢を殺がれてしまい、言えなくなった。
「いや……何でもない。それより、どうしたの?」
リクは不思議そうにしながらも、自分が言おうとしたことを続けた。彼の話は、どうもそれなりに重要であるらしい。
「うん。いつになったら戻れるのかなって」
「そういえば――」幻獣は倒れたのだから、修行は終わりでは?
何となく幻獣の死骸を眺めたアステルの目に、異変が飛び込んできた。
幻獣の背には、巨大な木が生えている。その洞から、山羊の頭が覗いていた。山羊頭はのそのそと、洞から這い出ようとしている。
山羊の頭の後には、巨大な翅、節くれだった肢――羽虫の躯が繋がっていた。
翅を大きく広げると、その畸形の羽虫は飛び立った。
「リクっ!」
それは驚くべき速度で飛来した。その先にはリクがいる、しかし彼は反応できていない。アステルは咄嗟にリクを突き飛ばした。
倒れたリクの目の前で、アステルのちいさな体が、巨大な羽虫に掴まれた。あろうことか羽虫は、そのままアステルごと浮き上がる。
「待てっ!」
リクは青ざめて手を伸ばす。アステルもその手を掴もうと手を伸ばす。
だが、指先が触れただけで、届かなかった。
「アステルーッ!」
リクの声は、虫の羽音に掻き消されて、アステルには届かない。
終わっていなかった。まだ終わっていなかったのだ。油断した。
ごつごつした羽虫の肢が、腹に食い込む。羽音が凄まじく五月蝿い。何処に連れていこうというのか? 羽虫は速度を緩めない。
(何処へ? そんなの関係ない)
アステルはサードアイを煌かせた。ブルームは手放していない。羽虫は飛んでいるが、それほど高い位置ではない。今ここで羽虫を殺しても、大した怪我もせずに着地できるだろう。
ブルームの先端に、魔力を集中。躊躇わず、羽虫の腹に突き立てた。
ほとんど抵抗もなく、ブルームは深々と突き刺さる。羽虫の羽ばたきが停止する。一瞬の静寂。せいせいしたわ、とアステルは思った。
直後――アステルの全身を、虫の傷口から溢れた体液が濡らした。
激痛。
「ぎっ!?」
予想外の苦痛に、意志に反して悲鳴が飛び出る。体液のかかったところを見ると、しゅうしゅう音を立てながら煙を出していた。酸の体液だ。皮膚が溶け出している。
血が滲んで虫の体液と混じり出すのを見た辺りで、アステルの意識は途切れた。その体が、羽虫の死骸と共に自由落下する。
アステルが虫に攫われてすこし経った頃、リクは視界が歪み、目眩を感じた。幻界が閉じ、元の世界に戻るのだと知れた。
暗闇に閉じていく視界の中、リクはぼんやりと思考した。アステルは無事だろうかと。