月に咲く花
冷たい夜風が、髪をさらった。もう、ずいぶんと長く切っていなかったから、いつのまにか耳を覆うほどに伸びていた。
明日あたり、おとなしくヒナに捕まって、切られようかな。
でも、やっぱり面倒だから、もうしばらく逃げてもいいかもしれない。
闇に溶ける黒。誰かさんみたいにド派手な彩色してないから、わざわざフードで隠す必要もない。女の子に間違われるのは御免だから、大抵かぶってはいるけど。
「唯十」
穏やかな声音が、耳をくすぐる。
自分自身をあらわす符号は数多あるけれど、なかでも本名で呼ばれることは、どうしても慣れない。僕という存在に、一番近いはずの音節。だけどなんだか、浮ついて聞こえて。普段、誰も呼ばないからかもしれない。
上っ面を滑るような違和感をやりすごして、首だけでふり向いた。
赤木千歳。22歳にしてClownを統制する青年が、草を踏みしめながら近づいてくる。ゆっくりとした歩調に合わせて、忘れかけていた土の匂いが、ぽつぽつと香った。
「また、ここにいたのか」
そう言って隣に並んだアキが、おなじように夜空を見上げた。穏やかな横顔。ひとは往々にして見かけによらないものだけど、彼が黒蝶のNo.2だなんて、きっと誰も信じないだろう。
……知らないということは、幸せだ。
暗く薄曇った空には、星ひとつない。アキの表情が一瞬こわばって、それから、不意に和らいだ。きっと、霞んだ月をみつけたから。
――朧月。
いまにも消えそうな、淡く儚い輝き。闇にポツリと取り残された孤独な光へ、つられて手を伸ばす。手のひらに覆い隠されてしまえば、それだけで見えなくなる、ちいさな明かり。
アキは、新月が嫌いらしい。月の光が無い夜は、なんとなくピリピリしていて、僕らも少し気を使う。うちのトップは感情を隠すのがうまいから、ハッキリとわかったのは最近だけど。
でも、僕は嫌いじゃない。新月っていうより、朧月夜が。
あるかないか分からないくらいの、虚ろな輝きを見ていると、なんとなく、気が落ちつく。
漆黒の夜に浮かぶ薄い月。弱々しく、けれど美しい。
目が離せなくなる。いつまでも、見つめていたいと思う。
だから、わざわざ、本部から離れた山に出向いてまで、こうして見上げてしまうのだ。朧月夜のたびに。
月から視線をはずして、アキに尋ねる。
「仕事?」
聞いてはみたけど、答えはわかっていた。
アキが、僕らを名前で呼ぶのは、舞いこんだ依頼を告げにくるときだけだから。
本名も、コードネームも、彼は嫌う。だから滅多に呼ばないし、呼ばせない。
事実上、組織のNo.2に君臨する『紅炎』は、どうも呼び名に固執する。その理由も知らない。知ろうと思ったこともない。
アキが嫌うなら、それでいい。踏みこむ気もない。僕らはただ、受け入れて従うだけ。
「ああ」
「……そう」
簡潔なやりとりを終えて、腰を上げる。
ロングコートについた草の葉を適当に払って、ついでに腰のホルダーを確認する。短刀の固い感触と重み。使うかどうか分からないけど、一応。
本当はどうだっていい。なにもかも。
どうなろうが知ったこっちゃない。
仕事なんて結局、日課のようなものだから。
誰を傷つけようが、誰を悲しませようが、そんなことは厭わない。
唯、コロスダケ。
とても簡単な話。だって、僕らは首輪をかけられた殺戮人形。気にかけたり、調整したりするのは、『人間』の仕事でしょう。
くすり、と笑って、短刀から手を離す。とんだ自嘲。でも事実だ。
ただ。
いまだけは、ここにいたかった。
月が一番綺麗に見えるこの山。麓に広がる小さな湖に映る月を見るのが、好きだ。一晩中、ここで過ごすときもあるくらい。一分一秒でも長く、見つめていたくて。
けれど、我儘が許される世界じゃない。腐りかけた世の中の、淀みが集まる闇の中。僕らは、そのトップに立つ存在。だからこそ、『仕事』には忠実でいなければならない。
それが、道化(CLOWN)と称される僕らのサダメ。
――人という存在の限度を超えてしまった、その責任だ。
首輪がはまっていることを、世に示さなければならない。それが意味のないガラクタでも。
意味なんてなくったって、明示的な形をみせなくちゃ。馬鹿らしいとは思うけど。
CLOWNは柘榴に飼われてる。制御装置をつけて、規律に繋がれて。そういうことになっているらしい。対外的には。
「またね、アキ」
雑念をふりはらい、金色に染めた瞳でアキをみつめた。
能力を長く解放するのは苦手だし、早く終わらせてしまいたい。
「いってらっしゃい。戻ってこいよ」
お決まりの挨拶を口にして、アキが手をふる。
――あたりまえのこと。だって、僕の居場所は黒蝶だけだ。鎖なんかなくったって、首輪なんてなくったって、変わらない。
口もとをゆがめて、踵をかえす。
最後にもう一度だけ、空を見上げて――薄い輝きを目に焼きつけてから、地面を蹴った。
金に染まった髪が、視界の隅をバタつく。これじゃあアイツのこと言えないな。思いだして、目深にフードを被った。
暗闇を、疾走する。
木立に入ってまもなく、頭の中に、ヒナからの伝達が響いた。
≪いつもの森。午前0時。対象は3人の成人男性。1人は――≫
情報なんてイラナイ。場所と時間が分かれば、それで十分。
強制的に、ヒナとの繋がりを断ち切った。きっと、あとで怒られるだろうけど、まあいいや。アキならまだしも、ヒナになら、別に。きっとクロあたりが、助けてくれる。
行く先は森。現在地は――。
空を見上げた。朧げな月は、厚い雲に隠れて見えなくなってしまっていた。……そう。仕方ないか。空虚な思いを抱きつつ、代わりに姿をみせた星を探って、現在地を把握した。
目的地まで、およそ2.5キロ。クロのような跳躍は到底できないけど、全力で駆ければ、たぶん数分で着くだろう。
枝から枝へ、音をたてず。
静寂という隠れ蓑を纏ったまま、ペースを上げた。
うっそうと茂る巨木の影、森の入り口が、姿を現す。奥深くに誘い込まれれば、二度と陽の光には出会えない、僕らの仕事場。
――さあ、狩りの始まりだ。
予定通り、辺りに人の気配はなし。まあ、あったとしても、消せばいいんだけど。
【Black-Butterfly】の仕事に、容赦はいらない。目撃者は一切必要無い。
CLOWNでいてよかったと思うのは、煩雑な後処理をしなくていいってこと。僕らはトクベツだから、なにをしても裁かれることはない。
制御装置を壊したのがバレたらちょっとやばいけど、ボスは気にしないだろう。アキも黙殺してくれてるし。表向き『首輪として機能している』ことになっていれば、問題ない。
ああ、みつけた。血の臭いが染み込んだ土を踏みしめて、慌しく駆ける三つの影。奥へ奥へと追い込まれていることも知らずに。
体格からして、男か。若くはないけど、まあ、中年ってところ。よくあるパターンだ。
CLOWNの仕事は原則的に『みせしめ』だから、若くて歯ごたえのある相手にあたることは、あまりない。そういうのは上級Aあたりが、集団の狩りで確実にヤる。
上級クラスが失敗すると、僕らに丸投げされたりもするけど、担当するのはだいたいクロ。そうじゃなかったら、ヒナとツチ。たまにアキが出向くこともあるけど、僕にお呼びがかかることはまずない。後処理の問題だろう。
「対象3名……確認」
呟いてから、わざと激しい音を立てて着地した。
ずいぶん警戒してるみたいだったから、音をたてずに降りるよりも、こうした方が面白いんじゃないかと思って。
あらためて三人を正面から見てみると、年齢も体系もみごとにバラバラ。若くて30、いっても60くらいかな。
どういう集まりかは知らない。外部からの依頼なのかも、下級クラスからの依頼なのかも。
「誰だ!?」
男の一人が、震えながら叫ぶ。この程度で怯えるあたり、少なくとも、裏切り者ではないらしい。うちの末端に属してれば、こんな醜態はさらさない。
掠れた声が耳障りで、眉を寄せた。
まあ、いいや。必要以上に凄惨な殺し方しなくていい分だけ、楽。
答えずにいると、別の一人は耐えきれずに逃げ出した。どうせ、ほっとけば迷って餓死するだろうけど。
――逃がさない。
微かに空を切る音を立てて、瞬間的に移動する。
その間に素早く短刀を抜き、背後に回って首筋にあてがった。
「ひっ……」
「CLOWN №5、華月。きみたち3人は、Black-Butterflyにより処される」
闇が支配する森に、様式美の口上が響き渡る。
どうせ生還者はでないんだから、言っても言わなくてもおんなじなんだけど、一応。
感情の薄い事務的な声は、仕事用。声変わりもしてない少年声じゃ、威圧感をひねり出そうってほうが無茶だ。だから、淡々と、あえて冷涼に吐きすてる。
「なんだ、まだ餓鬼じゃねぇか」
三人目の男は、相手が子どもと知って余裕を取り戻す。
いやだね、神経が図太いやつは。他のお二人さん見てみなよ。程度が低いのはわかってるけど、せめて格の違いくらい理解できてたら、死なずにすんだんじゃないの。
「せっかく、今日は機嫌がいいから、楽にしてあげようと思ったのに」
勝手に口の端がつりあがる。滑稽だね。それに哀れだ。
思いのほか冷めた声が出て、三者三様、男たちが凍りつく。
いまさら気づいたって、遅いんだよ。きみたちに残された選択肢は、『死に方』だけだったのに。
「ざぁんねん」
一瞬の沈黙。
金に染まったままの髪が、ふわりと揺れて。
「――Limit」
短刀を握る手とは逆の手で正面の図太い男を指し示せば、まばゆい金色が、闇を貫く。
「う………ぁぁ、ぃ……ぁ、ぁああああ!」
体内に突如現れた異変に、男は奇声を上げて倒れこむ。木の根元でもんどりうって、胸のあたりをかきむしるように暴れだす。
異常な光景に、残る二人の顔から血の気が引いた。
「あーあ、動くから間違えて肺を壊しちゃったじゃん。心臓を止めてあげようと思ったのに」
叫び声がうるさい。どうせ助からないだろうけど、失敗した。
……ま、いっか。
気をとりなおして、ますます震え出した2人のうち、捕らえている男の耳元で囁く。
――破壊の言葉を。
「Limit」
全てを、壊せ。
「ぐっ―――……」
今度こそ、声を出す間もなく、男は崩れ落ちる。足元にうつ伏せで倒れ込み、微動だにしない。その体が地に着くころには既に、彼は息絶えていた。
そうそう。おとなしくしてれば、楽に逝けるよ。試したことはないから知らないけど。
でも、生きたまま内蔵抜かれるより、マシなんじゃない?
苦しみはない。あるのは限りない無。
――“生”の“Limit”が訪れただけのこと。
そもそも、僕の能力は破壊じゃない。ありとあらゆるものの『限界』をつかさどり、あやつる能力。それがlimitだから。
「ば、化け物め! CLOWNだって!? 人間の皮を被った悪魔の集団じゃねぇか」
震え声のまま、残された男はまくしたてる。
あまりの恐怖に瞳孔は見開き、もはや一歩も動くことはできないようだ。
不快感に、顔が歪む。男を睨みすえると、それだけで腰を抜かして座りこみやがった。
――化け物?
ああ、そうだよ。
僕らは皆、人間に生まれながら、普通の人間にはなり得なかった。
この能力のせいで。
B-Bなんていう、組織のせいで。
暗殺者……闇に生きる同胞からは、羨望とともに嫉妬の瞳で常に見られる。
一般人と関わることなんて滅多にないけど、仕事のたびにターゲットに化け物あつかいされて。
――望んだ事など、一度もなかったのに。
音もたてずに髪と瞳の色が元に戻る。闇に溶け込む漆黒の髪、ブルーグレーの双眸。
僕は、いい。
あのときから、闇の中で生きることを義務付けられた僕は。
暗殺者のエリートの血筋を引くと知り、限界をあやつれることを悟ってしまったときから。アイツを、キサヤを、憎んでがむしゃらに……この世界に、溺れてきた。
でも。
短刀をしっかりと握り、地面を蹴る。
「みんなは、違う」
黒いコートを翻して、男の背後に一瞬で回りこみ、呟くと同時に右手に握ったそれを振るった。
許さない。彼らを化け物あつかいすることだけは。
僕を認めてくれた、唯一の居場所だった。世界に疎まれた僕らがやっとみつけた、暖かい場所。どれだけの血に塗れ、犠牲を重ねた上に成りたつ日常だとしても。
偽りで塗り固められた世界。その中で……傷を抱えながら生きていく仲間たち。
能力なんて使わない。いらない。僕だって、暗殺者だ。そのトップに立つ、エリートと呼ばれる、――存在だから。
小振りながらも鋭利な刃は、よどみなく男の胸を切り裂いた。肋骨の隙間から、一直線に心臓を捉え、引きぬく。返り血を避けることも、考えていなかった。手といわず、顔といわず、大量のアカに塗れて、ぐっしょりと濡れる。
最後の男が息絶えたことを確認して、素早くその場を離れる。
「じゃーね。愚かな人たち」
動かない3つの人影に、吐き捨てた。
――ちゃんと、わかってるよ。一番愚かな道化は、僕だ。
自嘲して、また、闇の中を走りだす。
仕事は終わった。あとは、下の雑用部隊がどうにかするだろう。まだるっこしいヤり方をしたことはすぐにバレるだろうけど、まあ、仕方ない。
アキの耳に入ったら、少しは小言を言われるかも。あれで心配性なリーダーは、身内にすごく甘い。だけど、アキのことだから、とっくに全部知っていたのかもしれない。
直接、本部に戻る気にもなれなくて。たどり着いたのはやっぱり、月の良く見えるお気に入りの場所。
頭上には、ふたたび姿を現した朧げな月。
なんとも言えない、空虚な思いが胸をつく。
仕事の後は、いつもこうだ。罪悪感とも違う、限りない闇に似た感情が心を覆う。
視線を空に預けたままよろよろと後ずさると、不意に足元に冷たさを感じた。振り向いて足元を見下ろすと、広がる湖が視界に入った。
暗い水面に、僕の姿が移る。
漆黒の髪。母を、そしてアイツを思い出させて止まないブルーグレーの瞳。
返り血に塗れた自分は――汚い。
すぐ傍に映る、朧月。
似ていると感じたそれが、親近感を抱いていたそれが、なんだか果てしなく遠い。
だって、きみは穢れてはいない。
たとえどれだけ薄い輝きでも、僕のように、闇の中で血に塗れてはいないだろう?
触れられる筈のない水面の月に、思わず片手を伸ばして、自嘲した。
「は、はは……」
乾いた笑いが漏れる。
汚い。そう、僕には闇がお似合いだ。どこまでも堕ちていくような、底なしの闇が。
狂ってしまった。
いつから? ―最初からだ。
人を殺すことに、ためらいはない。
どうして? ―だってそうじゃなきゃ、生きてこられなかった。
「っ――――」
不意に力が抜け、膝から湖畔に崩れ落ちた。
頬が冷たい。………どうして。
ねえ、目から溢れるこの水は……ナミダ? 溢れだすこの思いは……コウカイ?
「くっ……うぅ…………」
僕は、なにか間違えたの? ねぇ、……ねぇ、ねぇ。――誰か、教えてよ。
答えがほしい。この思いの。
終りがほしい。この苦しみの。
揺れる視界の中、変わらずたたずむ朧月。不意に風が吹いて、白い花が揺れた。
その影が、水面で重なる。それはまるで、月に咲いた花のように。
とどくはずがない場所で、凛と咲き誇る、ちいさな名もない花。……目が、ひきつけられた。
おぼつかない足取りで立ち上がり、手を伸ばす。理由なんかない。ただの、衝動。
どうか届いて。君のもとまで。
チャポン、と涼しげな音をたてて、水面に手のひらが吸い込まれる。
……触れられない。でも確かに、ここに存在している。
水面の像の中で、一つになった。
月に咲く花。誰に望まれたわけでもなく、咲き誇る、白い花。
罪も穢れも知らない、綺麗な花。
重なりあう。水面の花に触れた場所から、黒々とした赤が、ほどけて沈んでいく。あれほど感じていた重みが薄れ、スッと胸が軽くなった。
不意に笑みが零れる。なぜだろう。なんだか――。
「ありがとう」
そう、言ってみたくなった。