第二話 禍根
本小説は、三国時代に実在したと言われている武将やそのエピソードをもとに書き起こしたフィクションです。
人物の性格設定なども含めて、史実とは全く異なりますので、あらかじめご了承ください。
周泰は白いもやに包まれたような感覚を覚えた。
鳥のさえずりが聞こえる。
ここは…?
目を閉じたまま、周囲の気配を伺う。
どうやら布団で寝ているようだ。
ゆっくりと目を開けてみる。
見慣れた寝室の天井だ。
「そうか、あの戦で、矢を受けて、気を失って…それから…!?!?」
周泰はガバッと上体を起こした。
「きゃ!!」
あまりにも突然のことだったので、侍従が驚いた。
「しゅ、周泰様!?!?…周泰様!!!!!」
侍従は驚きとともに笑顔と、そして涙を浮かべた。
「小蘭、私はどれくらい寝ていた?」
「は、はい、十日ほど…」
「なに!?」
あの戦からそんなに経過していたとは、周泰は愕然とした。
「戦は…殿はご無事か!?」
「は、はい。怪我ひとつなくご帰還されたと聞いております。」
「そうか…」
良かった。
殿を守ったのは事実…夢ではなかったようだ。
「私、将軍方にお伝えしてきますね。周泰様が目を覚まされたって。」
「それには及ばぬ。自ら赴こう。」
「そんな、まだ寝てませんと…」
そう言いながら、小蘭は諦めていた。昔から、これと決めたら言うことを聞く人ではない。
身支度を手伝い、馬を用意した。
宮殿では軍議が行われていた。周泰が来た知らせが入ると、軍議は一時中断となった。
謁見の間で、周泰は跪いた。
「殿、十日も執務を滞らせました。申し訳ございませぬ。」
「よい。周泰よ、そなたは深手を負ったのだ。仕方あるまい。」
殿と呼ばれた者は続けて言った。
「此度の戦、まことに大儀であった。この孫権、礼を言わねば。…そうじゃ、そなたの報奨がまだであった。何が良いかのぅ…。」
孫権は右手で顎鬚をさすった。
「いえ、私は報奨をいただけるようなことは、何も…。多くの味方を犠牲にも…。」
「彼らが命を失った責は、全てこの孫権にある。そなたのせいではない。…そうじゃな、そなたを春穀の県長に任命しようぞ。」
「…過分な報奨、恐悦至極。」
周泰は一礼して、その場を去った。
多くの幕僚が、周泰の復帰に安堵の表情を浮かべた。
その中で、眼光鋭く、口を真一文字に結んだまま、微動だにしない人物がいた。
春穀の県長だと…?
孫権と周泰の窮地を救った武将、徐盛である。
その日の夕刻、徐盛は同僚の朱然を招き、酒を酌み交わしていた。
「あいつが、県長だとよ…。」
「おい、徐盛、周泰“様”だろ?年長者に、あいつだなんて…」
「ふん、構うもんか。ここには、君と俺しかおらん。朱然、君もおかしいと思わんか?」
そう言って徐盛は杯を空にした。
「報奨のことか?」
杯に朱然が酒を注ぐ。
「ああ。此度の戦、山越の淋の部族を壊滅させたのは、俺と君の軍だ。そして俺は柴桑県長、君は余姚県長になったわけだが…」
徐盛は杯を一気に飲み干し、続けて言った。
「なぜ、あいつも報奨が県長なんだ?あいつが何をしたってんだ?殿を危険な目に合わせ、あげく自分は怪我して寝込んでただけじゃないか!?」
「ふむ。確かに。何ゆえ殿がお味方を置いて前線にいかれたのか、何か事情があったのかと、周泰様に仔細を聞いても、相変わらずの無口っぷり。自分が悪い、自分の責任だって言うだけでな。」
朱然も杯を空けた。
「軍務の長期欠席も、すまんの一言だけさ。」
徐盛は朱然の杯に酒を注いだ。
「だいたい、殿の護衛が気絶するって、どうなんかねぇ?」
「実は武芸はたいしたことないのかもな。ははっ。」
徐盛と朱然が酒を酌み交わしていた頃、周泰の家には客人が訪れていた。
「よぉ、周泰!お邪魔するぜっ!」
小蘭が戸口に出迎えた。
「あ、甘寧様!」
「おぅ、小蘭ちゃん、周泰のダンナ、いるかい?」
小蘭は、寝ている周泰を起こすべきか、迷った。
「あ、えと、その、ご主人様、帰ってくるなり床に入られまして、その…。」
「んー、そうかい?仕方ねぇなぁ。」
そう言って、甘寧は包みを小蘭に渡した。
「これ、渡しておいてくれや。いい肴が手に入ったんでな。快気祝いに一杯やろうかと思ったんだが。それと…。」
そう言って甘寧は小蘭の耳元で囁いた。
「どーも、今回の戦で、おたくのダンナ、ちっとばっかし反感買ってるようなんでな…。」
「え!?」
小蘭が思わず大声を出した。
「しー!!小蘭ちゃん、声デカイって。」
「あっ…」
小蘭は赤面した。
「小蘭、客人か?」
平服の周泰が戸口に出てきた。
「…甘寧殿か。」
眉ひとつ動かさず、周泰が言った。
「して、用件は?」
「小蘭ちゃんに、周瑜のダンナからのお土産渡してるから、ま、後で食ってくれや。」
「周瑜様から?」
周泰が訝しがった。
「おめぇさんが、出てこなきゃ、小蘭ちゃんとその肴で、一杯やるとこだったんだがな」
そう言って甘寧は「にっ」と笑った。
「もぅ、甘寧様ったらぁ…」
「じゃぁな。」
甘寧は腰につけた鈴を鳴らしながら立ち去っていった。
周泰たちも戸口を離れ、館に戻った。
「周泰様、実は…」
小蘭は周瑜の伝言を周泰に伝えた。
「なるほどな。それで甘寧殿が…。しかし…私は他人にとやかく思われようが、殿と呉のために戦うのみ。私にはこの生き方しかできんよ。」
周泰は小蘭に語るでもなく、独り言のように呟いた。
その後も、周泰は孫権の側近・護衛として各地を転戦した。
時には負傷し、軍務に支障も出たが、その献身ぶりを孫権は高く評価し、着実に地位を上げていった。
もっとも、側近という立場ゆえ、最前線で派手に活躍するわけでもなく、名立たる将を討ったわけでもない。徐盛や朱然のように、前線に立つ武将たちの中には、周泰の「過分」な報償に不満を持つ者もいた。