妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました 『旅立ちの船』編
『妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました』の続編を読みたいとのお声をいただいたので、書いてみました。
こちらも読んでいただける方が多そうでしたら、次は長編として公開したいと考えています。
船が港を離れていく。
白い帆が風を受け、ゆっくりとふくらんだ。
港に並ぶ人影が、少しずつ小さくなる。
父の渋い顔も、母の困ったような顔も、リリアの赤くなった目元も、もうはっきりとは見えない。
それでも私は、しばらく船の上から港を眺めていた。
戻りたいわけではない。
それだけは、はっきりしている。
けれど、不思議なことに胸の奥が少し痛んだ。
家族を愛していなかったわけではない。
リリアのことを、何も感じずに置いてきたわけでもない。
カイルに未練があるわけではないけれど、あの場で軽く扱われた痛みまで、すぐに消えるわけではなかった。
けれど、それでも私は船に乗った。
もう、誰かが決めた道を歩くのは終わりにしたかった。
私が乗った船は、セイント・マリー号という名の商船だった。
客船ではない。
香辛料や布、異国の酒のたるを積み、商人や旅人も乗せて海を渡る船だ。
船の上には、大きな木箱が縄で固定されている。
船員たちは忙しそうに行き来し、商人たちは荷物の数を確認している。
旅人たちは遠ざかる港を眺めたり、早くも船室へ引き上げたりしていた。
その中で、女ひとりの旅人は少し目立った。
ちらりとこちらを見る者もいる。
物珍しそうな目。
心配そうな目。
少し失礼な目。
私はそれらに気づかないふりをして、背筋を伸ばした。
女がひとりで海を渡るなど、褒められたことではないのかもしれない。
けれど、だからこそ胸が高鳴った。
誰かの許しを待たずに、自分で行き先を決める。
それは、私にとって初めての冒険だった。
船室は、思っていたよりも狭かった。
小さな寝台と、壁に固定された机。
丸い窓からは、青い海が見える。
床は船の揺れに合わせて、ゆっくりと上下していた。
私は旅行カバンを開けた。
慰謝料で買った、丈夫な革のカバンだ。
中には、着替え、手袋、旅の言葉の本、港町ミラの案内書、そして何枚かの地図が入っている。
どれも、私が自分で選び、悩んだ末に買ったものだった。
その事実が、少しおかしかった。
婚約者を妹に奪われた女が、慰謝料で船旅に出る。
みっともない話だと、実家の誰かが笑うかもしれない。
でも私は、みっともないとは思わなかった。
少なくとも、あのままカイルと結婚するよりは、ずっとましだ。
それに、これは逃げではない。
私はようやく、行きたい場所へ行くのだ。
私が旅に出ようと思ったきっかけは、図書館で見た一冊の本だった。
そこには、アステリア王国の港町ミラの絵が載っていた。
にぎやかな港。
白い船。
坂道に並ぶ家々。
そして丘の上に立つ、聖マリアの大きな教会。
その絵を見た時、胸が弾んだ。
当時、私は十二才だった。
いつか自分の足で、この町を歩いてみたい。
丘の上から海を見て、大市場で異国の品を眺めてみたい。
そう思ったことを、私はずっと忘れていた。
いいえ。
忘れたふりをしていただけかもしれない。
姉だから。
娘だから。
婚約者だから。
そうやって後回しにしてきた願いが、今になって私を動かしている。
私の目的地は、アステリア王国の港町ミラ。
十二才の私が、初めて「行きたい」と思った場所だった。
私は机の上に案内書を広げた。
港町ミラは、海に面した美しい町らしい。
聖マリアの大きな教会の鐘の塔からは、港と海が一望できるという。
大市場では、午前中に香辛料市が立ち、午後には異国の布を扱う商人が店を広げる。
古書店の通りもあるらしい。
そこまで読んで、私は思わず口元をゆるめた。
古書店。
それはとてもいい。
リリアなら、きっと宝石店や仕立屋を最初に探すだろう。
私は古書店を探す。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、私はようやく、自分が見たいものを選べる場所へ向かっている。
そのことが、嬉しかった。
船が大きく揺れた。
机の上の旅の言葉の本が滑り、床に落ちる。
私はあわてて拾い上げた。
窓の外を見ると、港はもう遠かった。
陸地の線が、青いもやの向こうに薄く沈んでいる。
胸の奥に、少しだけ不安が広がった。
私は本当に、ひとりでやっていけるのだろうか。
知らない国で、知らない言葉を聞き、知らない道を歩く。
荷物を盗まれるかもしれない。
道に迷うかもしれない。
誰かにだまされるかもしれない。
今まで屋敷の中で守られていたことを、外に出て初めて思い知ることになるのかもしれない。
でも、それでも。
私は戻りたいとは思わなかった。
怖いからやめる。
危ないからあきらめる。
女だから家にいる。
そうやってまた元の場所に戻ったら、私はきっと一生、自分を許せない。
私は旅の言葉の本を机に置き直し、小さく息を吐いた。
戻る場所がないのではない。
戻らないと決めた場所があるだけだ。
それで十分だった。
夕方近く、私は再び船の上へ出た。
海は、昼間よりも深い青になっていた。
風には少し塩の匂いが混じっている。
船員たちの掛け声が聞こえ、どこかで商人たちが値段の話をしていた。
見知らぬ人々の声。
見知らぬ海。
見知らぬ明日。
それらが、今の私には少し怖くて、同じくらい心地よかった。
船のへりに立ち、行く先に思いをはせて、私はもう一度地図を広げた。
アステリア王国。
港町ミラ。
聖マリアの大きな教会。
大市場。
古書店の通り。
指で一つずつなぞっていると、急に強い風が吹いた。
「あっ」
手元から地図がさらわれた。
貴重な地図だ。
あわてて追いかけようとしたけれど、船が揺れて一歩遅れてしまった。
地図は船の上を滑り、木箱の間を抜け、誰かの足元で止まった。
その人が、地図を拾い上げる。
「失礼。こちら、あなたのものでは?」
落ち着いた声だった。
私は顔を上げた。
そこに立っていたのは、若い男性だった。
年は、私より少し上だろうか。
黒に近い髪に、灰色の目。
服装は旅人らしく地味だったが、立ち方が妙に整っている。
荷物も少ない。
ただの旅人にしては、手の動きが丁寧すぎた。
貴族かしら。
それとも、貴族の家に仕えていた人?
私は地図を受け取り、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「港町ミラへ?」
彼は地図の端に書かれた文字を見て、そう尋ねた。
「ええ。教会と市場を見に行くつもりです」
「良い町です。初めてなら、朝の市場は見た方がいい」
「お詳しいのですね」
「少しだけ」
彼は笑った。
その笑みは穏やかだった。
けれど、どこか人に見られることに慣れている笑みだった。
「私はエリオット・レインといいます」
「エレノア・アルディスです」
名乗ってから、私は少しだけ迷った。
以前なら、家名を名乗ることに何の疑問もなかった。
アルディス家の娘。
それが私の立場だった。
でも今は、その家から離れるために船に乗っている。
それでもまだ、私はその名を名乗る。
家族も、過去も、傷ついた記憶も。
それを全部捨てて自由になるのではなく、持ったまま前へ進むしかないのだろう。
エリオットは、私の迷いに気づいたのか気づかなかったのか、ただ静かにうなずいた。
「では、エレノア嬢。地図はしっかり持っていた方がいい。この船の風は、どうも旅人の予定を変えるのが好きらしい」
「予定を変えられるのは困ります」
「そうですか?」
エリオットは、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「予定にない場所へ行くのも、旅の楽しみでは?」
私は地図を胸に抱えた。
「私は、予定を立ててから動く方が好きです」
「なるほど」
「それに、予定外のことはもう十分経験しましたので」
そう言うと、エリオットは少しだけ首を傾げた。
聞き返してくるかと思った。
けれど彼は、何も聞かなかった。
その沈黙が、意外と心地よかった。
必要以上に踏み込まず、かといって無関心でもない。
珍しい人だと思った。
船がまた揺れた。
私は地図を押さえ、海の向こうを見た。
夕日が沈みかけている。
水面が金色に光り、セイント・マリー号の帆が赤く染まっていた。
エリオットも同じ方を見ていた。
「旅は、お一人で?」
「ええ」
「勇気がありますね」
「そうかしら」
「少なくとも、そう見えます」
私は少し笑った。
「本当は、勇気というより勢いです」
「勢いで海を渡る人は、案外遠くまで行けますよ」
「経験談ですか?」
「少しだけ」
またそれだ。
少しだけ。
どうにもはっきりしない人だ。
けれど、不快ではなかった。
私は地図を畳んだ。
「では、予定外のことが起きないように、今度から地図はしっかり持っておきます」
「それがいい。ですが、もしまた飛ばされたら拾います」
「親切なのですね」
「風に困らされる人を見ると、放っておけないだけです」
それを親切と言うのではないかしら。
そう思ったが、口には出さなかった。
エリオットは軽く頭を下げ、船の反対側へ歩いていった。
その時、近くにいた船員の一人が、エリオットに向かって姿勢を正しかけた。
けれどエリオットが軽く目を向けると、船員は何事もなかったように顔をそらした。
私はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
やっぱり、ただの旅人ではないのかもしれない。
でも、今は深く考えないことにした。
旅立ったばかりだというのに。
まだ港町ミラにも着いていないというのに。
どうやら私は、少し面倒そうな人に出会ってしまったらしい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
私はもう一度、海を見た。
港は見えない。
実家も見えない。
カイルも、リリアも、遠い陸の向こうだ。
胸の痛みは、まだ完全には消えていない。
不安もある。
期待もある。
知らない土地へ向かう怖さもある。
それでも、船は進んでいる。
私も、進んでいる。
セイント・マリー号は夕暮れの海を渡っていく。
その先に何があるのか、まだ私は知らない。
けれど少なくとも、昨日までの私ではない場所へ向かっている。
私は畳んだ地図を胸に抱き、潮風の中で静かに笑った。
世界は、思っていたより広い。
そして私の旅は、まだ始まったばかりだった。




