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妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました 『旅立ちの船』編

作者: momotarou
掲載日:2026/05/01

『妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました』の続編を読みたいとのお声をいただいたので、書いてみました。


こちらも読んでいただける方が多そうでしたら、次は長編として公開したいと考えています。

 船が港を離れていく。


 白い帆が風を受け、ゆっくりとふくらんだ。


 港に並ぶ人影が、少しずつ小さくなる。


 父の渋い顔も、母の困ったような顔も、リリアの赤くなった目元も、もうはっきりとは見えない。


 それでも私は、しばらく船の上から港を眺めていた。


 戻りたいわけではない。


 それだけは、はっきりしている。


 けれど、不思議なことに胸の奥が少し痛んだ。


 家族を愛していなかったわけではない。


 リリアのことを、何も感じずに置いてきたわけでもない。


 カイルに未練があるわけではないけれど、あの場で軽く扱われた痛みまで、すぐに消えるわけではなかった。


 けれど、それでも私は船に乗った。


 もう、誰かが決めた道を歩くのは終わりにしたかった。


 私が乗った船は、セイント・マリー号という名の商船だった。


 客船ではない。


 香辛料や布、異国の酒のたるを積み、商人や旅人も乗せて海を渡る船だ。


 船の上には、大きな木箱が縄で固定されている。


 船員たちは忙しそうに行き来し、商人たちは荷物の数を確認している。


 旅人たちは遠ざかる港を眺めたり、早くも船室へ引き上げたりしていた。


 その中で、女ひとりの旅人は少し目立った。


 ちらりとこちらを見る者もいる。


 物珍しそうな目。


 心配そうな目。


 少し失礼な目。


 私はそれらに気づかないふりをして、背筋を伸ばした。


 女がひとりで海を渡るなど、褒められたことではないのかもしれない。


 けれど、だからこそ胸が高鳴った。


 誰かの許しを待たずに、自分で行き先を決める。


 それは、私にとって初めての冒険だった。


 船室は、思っていたよりも狭かった。


 小さな寝台と、壁に固定された机。


 丸い窓からは、青い海が見える。


 床は船の揺れに合わせて、ゆっくりと上下していた。


 私は旅行カバンを開けた。


 慰謝料で買った、丈夫な革のカバンだ。


 中には、着替え、手袋、旅の言葉の本、港町ミラの案内書、そして何枚かの地図が入っている。


 どれも、私が自分で選び、悩んだ末に買ったものだった。


 その事実が、少しおかしかった。


 婚約者を妹に奪われた女が、慰謝料で船旅に出る。


 みっともない話だと、実家の誰かが笑うかもしれない。


 でも私は、みっともないとは思わなかった。


 少なくとも、あのままカイルと結婚するよりは、ずっとましだ。


 それに、これは逃げではない。


 私はようやく、行きたい場所へ行くのだ。


 私が旅に出ようと思ったきっかけは、図書館で見た一冊の本だった。


 そこには、アステリア王国の港町ミラの絵が載っていた。


 にぎやかな港。


 白い船。


 坂道に並ぶ家々。


 そして丘の上に立つ、聖マリアの大きな教会。


 その絵を見た時、胸が弾んだ。


 当時、私は十二才だった。


 いつか自分の足で、この町を歩いてみたい。


 丘の上から海を見て、大市場で異国の品を眺めてみたい。


 そう思ったことを、私はずっと忘れていた。


 いいえ。


 忘れたふりをしていただけかもしれない。


 姉だから。


 娘だから。


 婚約者だから。


 そうやって後回しにしてきた願いが、今になって私を動かしている。


 私の目的地は、アステリア王国の港町ミラ。


 十二才の私が、初めて「行きたい」と思った場所だった。


 私は机の上に案内書を広げた。


 港町ミラは、海に面した美しい町らしい。


 聖マリアの大きな教会の鐘の塔からは、港と海が一望できるという。


 大市場では、午前中に香辛料市が立ち、午後には異国の布を扱う商人が店を広げる。


 古書店の通りもあるらしい。


 そこまで読んで、私は思わず口元をゆるめた。


 古書店。


 それはとてもいい。


 リリアなら、きっと宝石店や仕立屋を最初に探すだろう。


 私は古書店を探す。


 どちらが正しいという話ではない。


 ただ、私はようやく、自分が見たいものを選べる場所へ向かっている。


 そのことが、嬉しかった。


 船が大きく揺れた。


 机の上の旅の言葉の本が滑り、床に落ちる。


 私はあわてて拾い上げた。


 窓の外を見ると、港はもう遠かった。


 陸地の線が、青いもやの向こうに薄く沈んでいる。


 胸の奥に、少しだけ不安が広がった。


 私は本当に、ひとりでやっていけるのだろうか。


 知らない国で、知らない言葉を聞き、知らない道を歩く。


 荷物を盗まれるかもしれない。


 道に迷うかもしれない。


 誰かにだまされるかもしれない。


 今まで屋敷の中で守られていたことを、外に出て初めて思い知ることになるのかもしれない。


 でも、それでも。


 私は戻りたいとは思わなかった。


 怖いからやめる。


 危ないからあきらめる。


 女だから家にいる。


 そうやってまた元の場所に戻ったら、私はきっと一生、自分を許せない。


 私は旅の言葉の本を机に置き直し、小さく息を吐いた。


 戻る場所がないのではない。


 戻らないと決めた場所があるだけだ。


 それで十分だった。


 夕方近く、私は再び船の上へ出た。


 海は、昼間よりも深い青になっていた。


 風には少し塩の匂いが混じっている。


 船員たちの掛け声が聞こえ、どこかで商人たちが値段の話をしていた。


 見知らぬ人々の声。


 見知らぬ海。


 見知らぬ明日。


 それらが、今の私には少し怖くて、同じくらい心地よかった。


 船のへりに立ち、行く先に思いをはせて、私はもう一度地図を広げた。


 アステリア王国。


 港町ミラ。


 聖マリアの大きな教会。


 大市場。


 古書店の通り。


 指で一つずつなぞっていると、急に強い風が吹いた。


「あっ」


 手元から地図がさらわれた。


 貴重な地図だ。


 あわてて追いかけようとしたけれど、船が揺れて一歩遅れてしまった。


 地図は船の上を滑り、木箱の間を抜け、誰かの足元で止まった。


 その人が、地図を拾い上げる。


「失礼。こちら、あなたのものでは?」


 落ち着いた声だった。


 私は顔を上げた。


 そこに立っていたのは、若い男性だった。


 年は、私より少し上だろうか。


 黒に近い髪に、灰色の目。


 服装は旅人らしく地味だったが、立ち方が妙に整っている。


 荷物も少ない。


 ただの旅人にしては、手の動きが丁寧すぎた。


 貴族かしら。


 それとも、貴族の家に仕えていた人?


 私は地図を受け取り、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。助かりました」


「港町ミラへ?」


 彼は地図の端に書かれた文字を見て、そう尋ねた。


「ええ。教会と市場を見に行くつもりです」


「良い町です。初めてなら、朝の市場は見た方がいい」


「お詳しいのですね」


「少しだけ」


 彼は笑った。


 その笑みは穏やかだった。


 けれど、どこか人に見られることに慣れている笑みだった。


「私はエリオット・レインといいます」


「エレノア・アルディスです」


 名乗ってから、私は少しだけ迷った。


 以前なら、家名を名乗ることに何の疑問もなかった。


 アルディス家の娘。


 それが私の立場だった。


 でも今は、その家から離れるために船に乗っている。


 それでもまだ、私はその名を名乗る。


 家族も、過去も、傷ついた記憶も。


 それを全部捨てて自由になるのではなく、持ったまま前へ進むしかないのだろう。


 エリオットは、私の迷いに気づいたのか気づかなかったのか、ただ静かにうなずいた。


「では、エレノア嬢。地図はしっかり持っていた方がいい。この船の風は、どうも旅人の予定を変えるのが好きらしい」


「予定を変えられるのは困ります」


「そうですか?」


 エリオットは、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「予定にない場所へ行くのも、旅の楽しみでは?」


 私は地図を胸に抱えた。


「私は、予定を立ててから動く方が好きです」


「なるほど」


「それに、予定外のことはもう十分経験しましたので」


 そう言うと、エリオットは少しだけ首を傾げた。


 聞き返してくるかと思った。


 けれど彼は、何も聞かなかった。


 その沈黙が、意外と心地よかった。


 必要以上に踏み込まず、かといって無関心でもない。


 珍しい人だと思った。


 船がまた揺れた。


 私は地図を押さえ、海の向こうを見た。


 夕日が沈みかけている。


 水面が金色に光り、セイント・マリー号の帆が赤く染まっていた。


 エリオットも同じ方を見ていた。


「旅は、お一人で?」


「ええ」


「勇気がありますね」


「そうかしら」


「少なくとも、そう見えます」


 私は少し笑った。


「本当は、勇気というより勢いです」


「勢いで海を渡る人は、案外遠くまで行けますよ」


「経験談ですか?」


「少しだけ」


 またそれだ。


 少しだけ。


 どうにもはっきりしない人だ。


 けれど、不快ではなかった。


 私は地図を畳んだ。


「では、予定外のことが起きないように、今度から地図はしっかり持っておきます」


「それがいい。ですが、もしまた飛ばされたら拾います」


「親切なのですね」


「風に困らされる人を見ると、放っておけないだけです」


 それを親切と言うのではないかしら。


 そう思ったが、口には出さなかった。


 エリオットは軽く頭を下げ、船の反対側へ歩いていった。


 その時、近くにいた船員の一人が、エリオットに向かって姿勢を正しかけた。


 けれどエリオットが軽く目を向けると、船員は何事もなかったように顔をそらした。


 私はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。


 やっぱり、ただの旅人ではないのかもしれない。


 でも、今は深く考えないことにした。


 旅立ったばかりだというのに。


 まだ港町ミラにも着いていないというのに。


 どうやら私は、少し面倒そうな人に出会ってしまったらしい。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 私はもう一度、海を見た。


 港は見えない。


 実家も見えない。


 カイルも、リリアも、遠い陸の向こうだ。


 胸の痛みは、まだ完全には消えていない。


 不安もある。


 期待もある。


 知らない土地へ向かう怖さもある。


 それでも、船は進んでいる。


 私も、進んでいる。


 セイント・マリー号は夕暮れの海を渡っていく。


 その先に何があるのか、まだ私は知らない。


 けれど少なくとも、昨日までの私ではない場所へ向かっている。


 私は畳んだ地図を胸に抱き、潮風の中で静かに笑った。


 世界は、思っていたより広い。


 そして私の旅は、まだ始まったばかりだった。

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― 新着の感想 ―
面白かったてす!ぜひ!続きがみたいです〜!
続編…長編を希望です!! 続きが気になります! エリオット何者??カイルにざまぁあるの??リリアは??気になりすぎています(笑) 作者様、素敵な作品を読ませてくださってありがとうございます♪ 作風が好…
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