第11話 左手の英雄(The Left-handed Hero)
エレーナ・ハルゼイ……「銀の錆」の新機体「二号機」の開発を担う「亡霊調律師」
レオン・ヴァイス……一号機の事故から生還し、再び戦場へ戻ろうとする「銀の錆」の英雄
テオ・ヴァイス……レオンの妹、兄の復帰を手放しでは喜べずにいる
イアン……「二号機」の解析と測定を担当する技術者
ガストン……「銀の錆」の現場を支える技師長
廃鉱山の最下層ドックは、異様な熱気に包まれていた。天井の錆びた鉄骨から吊り下げられた白熱灯が、煤煙の混じる空気の中で鈍く光を放っている。その光の海の中央に、その機体はあった。
「銀の錆」の二号機。初の実戦型機能調律騎兵。
かつてレオン・ヴァイスを死の淵へと追いやった一号機の残骸と、各地からかき集めた規格外の不純銀。そのすべてを組み直して、ようやく仮組みにまで漕ぎ着けた鉄の巨躯だ。
まだ外装の装甲は継ぎ接ぎで、真鍮のフレームや不純銀の配線が剥き出しのまま、鈍い輝きを放っている。
「おい、本当にレオンが乗るのか?」
「ああ、あの生体割り込みから生還したんだ。俺たちの英雄が、また二号機であの帝国の鉄屑どもを蹴散らしてくれるさ!」
ドックに集まった若手技師や兵士たちの間には、どこか浮き足立った期待が満ちていた。レオン・ヴァイスの復帰は、追い詰められた「銀の錆」にとって、待ち望んだ反撃の兆しだった。
だが、その喧騒から離れたコンソールの前で、エレーナは一人、極めて冷徹な目でモニターのログを見つめていた。指先は、いつも通り正確にキーを叩いている。手元にあるのは、レオンの事前測定データ、そしてかつて彼が一号機に乗っていた頃の波形ログだ。
ドックの重い扉が軋んだ音を立てて開き、レオンが姿を現した。ガストンがその背後を静かに見守り、少し離れた位置からテオが、兄の背中を、祈るような、同時にひどく怯えたような目で見つめている。
レオンはいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、集まった者たちへ軽く手を振った。ドックの歓声が一段と高くなる。
「エレーナ、準備はいいかい」
レオンの声は、以前と変わらず落ち着いていた。
「……あなた次第よ、レオン」
エレーナは感情を排した声で応じた。彼女はただ、コンソールの最終確認コマンドを起動した。
二号機のコックピットハッチが重々しく閉じる。ボイラーが駆動を始め、精霊銀コアが励起される音がドックに響き渡った。
キィィィン、という澄んだ、しかし以前のような脳を刺す高周波ではない、抑制された駆動音。エレーナが施した徹底的な低負荷調律により、生体割り込みの強制パルスは完全に遮断されている。
「二号機、歩行試験シーケンスを開始する」
解析・測定担当のイアンが、コンソールに向かって淡々と告げた。
鉄の巨躯が、ゆっくりと一歩を踏み出す。
ズ、ドォン。
重厚な金属音がドックの壁に反響した。
右足、そして左足。ボイラーは暴走しない。精霊銀も悲鳴を上げない。
歩行は滑らかだった。一号機のような、内側から自壊を誘発するような狂った振動はない。
「脳波負荷、安全域内。油圧系の追従、問題なし。……生体割り込みの兆候も、ゼロだ」
イアンの報告に、ドックの兵士や技師たちから一斉に歓声が上がった。
「やったぞ! レオンは健在だ!」
「これなら帝国と戦える!」
二号機はさらに速度を上げ、ドック内の模擬走行レーンを駆け抜ける。
最初の旋回で、機体の重心がわずかに外へ流れた。だが、レオンは即座に二度目の入力を重ね、遅れてきた巨体を正しい軌道に引き戻す。
真鍮のバリが火花となって散った。見守る者のほとんどには、鮮やかな切り返しにしか見えなかった。
しかし、エレーナだけは、操作ログに重なった二つの波形を見逃さなかった。
「イアン、一号機の過去ログと、今の駆動遅延の差分を出して」
「……わかった。すぐ出す」
イアンが指を動かし、画面に二つの折れ線グラフが並ぶ。それを見た瞬間、イアンの言葉が止まった。
その視線が、比較画面からエレーナに移る。
エレーナは比較画面を閉じず、そのまま通信ボタンを押した。
「脳波負荷、安全域内。生体割り込みの兆候なし」
エレーナの声がドック全体に響いた。
「常人の域を超えているわ。第一試験としては合格よ」
わっと歓声が上がり、ドック全体が揺れた。兵士たちは互いの肩を叩き合い、英雄の復活を疑う者はいなかった。
その歓声の中、テオは握り締めていた拳をゆっくり開いた。掌には、爪の跡が白く残っている。周囲につられるように口元を緩めたが、声は出なかった。視線だけは、二号機から離れなかった。
ハッチが開く。
レオンが静かに操縦席から降りてきた。椅子の背に置いた彼の指先が、わずかに滑る。
彼はタラップを降り切る直前、一度だけコンソールに目を向けた。それから、周囲に悟られないよう、短く息を整えた。
「銀の錆」の英雄は、群衆へ向けて、いつものように笑いかけた。
ガチャン、と重い鉄の扉が閉まった。ドックの歓声が完全に遮断される。
隔離された簡易診断室に残されたのは、うなるような機械の冷却音と、エレーナが手元の端末を操作するわずかな電子音だけだった。
部屋の空気は、一瞬にして冷え切る。
「……あなたも分かってるでしょう」
エレーナは画面を見たまま、声を落とした。
「ああ」
レオンは診断室の丸椅子に腰を下ろし、自身の大きな掌をじっと見つめていた。
「いつから?」
「最初の旋回で」
エレーナは、数枚の脳波グラフを机に滑らせた。
「一号機に乗っていた頃と比べて、入力から機体駆動までの反応速度が、平均して二十三ミリ秒遅れているわ」
レオンは波形に目を落とした。驚いた様子はない。
「今も常人以上には動けている。でも、それは残った経験で辻褄を合わせているだけ。神経そのものの反応は、以前のあなたには遠く及ばない」
エレーナはポケットから研磨棒を取り出した。握り締めた硬い柄が、掌に食い込む。
「私が汚染を洗浄したことで、あなたの命と人格は残った。でも、以前の速度を成立させていた神経経路は、もう元の形では繋がっていない」
冷却装置の低い唸りだけが、二人の間を流れた。
「右利きの人が、急に左手を使わされているようなものよ」
レオンは自分の右手を見た。
それから、左手に視線を移す。
「脳は右手の感覚を覚えている。でも、今あるのは左手だけ」
「……戻せるかい、エレーナ。君の技術で、あの時の右手に」
「戻せないわ」
エレーナは研磨棒をコンソールのトレイにカチャリと置いた。その音が、拒絶のように響く。
「脳の器質的な変質は不可逆よ。私は調律師であって、神様じゃない」
診断室の沈黙を破ったのは、レオンの穏やかな、しかし岩のように動かない声だった。
「そうか。元通りにはならないんだな」
彼は少しだけ息を吐き、それからエレーナを見つめた。
「前と同じには動けない。それは自分でも気づいていた。操縦桿を切った後に、機体が僕のイメージより僅かに遅れて付いてくるのが分かったからね」
レオンは立ち上がり、診断室の窓からドックに佇む二号機を見やった。
「それでも、ほかの若者よりは操縦経験がある。何より、僕は一度、あの壊れ方を知っているんだ」
彼は二号機から目を離さず、変わらぬ声で続けた。
「僕が乗れば、イアンや、まだ戦い方も知らないほかの若者たちを、あの処刑椅子に座らせずに済む。不良品でも、凡人よりは使えるはずだ。……僕は、まだ使える。そう証明してくれ、エレーナ」
「……その言い方、嫌いだわ」
エレーナはトレイに手をつき、立ち上がった。
「自分で自分を部品扱いするのね。不良品? 使える? 今のあなた、自分で自分をあの処刑椅子に縛り付けているのと同じよ」
不純銀なら、歪みに合った場所を探せばいい。だが、レオンは材料ではない。傷ついた人間に「別の使い道」を与えることと、帝国のやり方に、どれだけの違いがあるというのか。
「私は、あなたを別の形の部品にするために救ったんじゃないわ!」
レオンは、怒鳴るエレーナから目を逸らさなかった。
「帝国は、僕から選ぶ権利を奪った」
その声は、驚くほど低く、確固たる響きを持っていた。
「けれど、これは僕が選んでいるんだ。エレーナ。部品になるんじゃない。僕は、僕自身の意志で、彼らを守るために操縦席へ戻ると決めた」
エレーナは何も言い返せなかった。
ただ、その沈黙に耐えるように、トレイの上の研磨棒を掴んだ。
レオンを止めるための答えは、まだ見つからない―― 。




