なんでも報告してくる婚約者様
「――――以上が、本日の報告だ。……ああ、あと、ここへ来る前に生徒会の残務を手伝ってほしいと例の公爵令嬢に頼まれていた。私と関わりのない業務だったし、君との先約があるので断ってきたが」
「……そう。あのお方も諦めないものね」
品のある落ち着いた内装で整えられたこの部屋は、国内の王族・貴族やその関係者および平民富裕層出身の、十代半ばの子女が通う寄宿学校にある。
学生寮の男女共用区画には、家族や親族、婚約関係にある男女のみが利用申請をできる個室がいくつかあり、学校制服に身を包んだクリエール・オーゼンは、その一室に腰を落ち着けていた。
クリエールの前で淡々と本日の行動報告を行っているのは、クリエールよりひとつ年上の婚約者であるエングラウン・シャスバ。伝統あるシャスバ侯爵家の嫡男だ。
すらりとした長身に、ほどよく引き締まった身体。切れ長の瞳と堅い表情は冷たい印象を与えてくるものの、彼自身は真面目なだけで冷たい人間ではない。男女の双方から慕われる好青年である。
対するクリエールのオーゼン伯爵家は、歴史だけはそれなりにあるものの、目立ちはしないが落ち目でもない、地味な中堅といった程度の家。なお、堅実がいちばんだと思っているので、クリエールはそのポジションに不満などない。
ちなみに、クリエール自身も全体的に地味な要素が集まった容姿で、誇れるものといえばまっすぐで艷やかな髪くらいだろう。それだって、貴族令嬢の容姿としては際立って優れたものではない。
ここでエングラウンが言う「例の公爵令嬢」とは、彼と同学年のアナンツャ公爵令嬢のこと。昨年の入学時に一目惚れしただとかなんだとかで、一年以上も彼に交際を申し込み続けている猛者である。いまはもう、エングラウンの婚約者であるクリエールが入学しているというのに。
呆れの感情で盛大に歪みそうになる表情を、淑女の気合いで穏やかな微笑みに保ちつつ、クリエールはまだ温かい紅茶のカップに手を伸ばした。
クリエールとエングラウンの婚約は、クリエールの叔父――要するに父の弟――が身を立てるために家を出た先で、シャスバ侯爵にいたく気に入られたのが発端である。悪く言えばどっちつかず、良く言えば中立だったオーゼン伯爵家をシャスバ侯爵家が属する派閥にまるっと取り込むためのものであり……つまり、純然たる政略結婚だ。
そうしてクリエールとエングラウンの婚約が結ばれたのは、もう六年前ものことである。いまさら他家に口出しをされる謂れはない。ついでに言えば、アナンツャ公爵家とシャスバ侯爵家はそれぞれ対立派閥に属しているため、好いた惚れただのという単純な理由で縁を結べる間柄でもない。この国は貴族の恋愛結婚についておおらかではあるが、それよりも優先されるものは数多くある。
ちなみに、アナンツャ公爵令嬢には、婚約者がいないとされている。実は遠い国に相手がいるのだとか、ターゲットをハニートラップで絡め取るために元から定めていないのだとか、曖昧な噂ばかりが広まっている。さらには、アナンツャ公爵当人は厳格な人間だが、男ばかりが続いたあとにようやく生まれた娘をことさら溺愛しているとか、いないとか。そんな噂もある。真偽不明の噂ばかりなのは、さすがは公爵家と言うべきか。
なんにせよ、アナンツャ公爵令嬢の好意の押し付けは、クリエールとエングラウンからすれば迷惑な話でしかない。
だからといって、クリエールがこのような報告を受けているのは、アナンツャ公爵令嬢対策かといえばそうでもなく、七年前にこの寄宿学校の風紀をかき乱した騒動が原因である。
七年前、この国の王太子が在学中だった頃、たったひとりの女子生徒が多くの男子生徒の心を射止めた。その女子生徒は、爵位をぎりぎり保っているだけの、吹けば飛ぶような男爵家の娘でしかなかった。
しかし、ふわふわの髪に大きな瞳、小柄で薄い身体は儚げで、控えめな性格。小動物や子猫のような雰囲気のそれらは、多くの男子生徒の「守ってあげたい」という欲を刺激したのだという。
もともとは一部の下位貴族の男子生徒らが熱を上げていただけなのだが、その熱は何故だかどんどん燃え広がり、やがて高位貴族……最終的に王太子にまで飛び火しかけた。
男子生徒間での牽制に女子生徒の嫉妬も加わり、友情や婚約の破綻によって多くの家が巻き込まれ、当該世代はいまでもギクシャクしている部分があるらしい。女子生徒は巻き込まれただけだとか、実は多くの男子生徒を誘惑していたのだとか、いろいろな噂がクリエールの世代にも伝わっている。
ちなみに、騒動の中心であった女子生徒は寄宿学校を中退し、いまはどこかの修道院で静かに祈り暮らしているという話だ。もちろん、これも真偽不明の噂でしかないが。
クリエールとエングラウンの婚約は、そんな騒動が終息して記憶に新しい頃であり、ふたりは「お互いのことを第一に考え、信用と信頼を何よりも大切に」ということを両親から強く言い含められていた。
当時、まだ十にも満たない年齢の子どもであった当時のクリエールとエングラウンは、両親が言う“信用と信頼”を大切にするためにはどうしたらいいかを一緒に考えた。そうして最終的に、エングラウンの提案によって「異性と会ったときは、それを報告すること」に決めたのだった。
その後、家族や使用人相手のものは流石に除外したり、各家の機密に関わる案件だったら秘匿を可能にしたり、異性関係以外にも報告事項が増えたり……などと細かなルールの調整は加えられていったものの、この習慣は六年間継続されている。七年前の騒動について、エングラウンは男子生徒側の過失を重く見ているのか、ルール以外の項目も細かく報告してくるが。
なお、ここ最近のエングラウンは、クリエールの従兄をよく気にしていて特に細かく聞いてくることがある。気にする理由はごまかされたが、その従兄は優秀な研究者であるため、なにかシャスバ侯爵家に有用そうな気配を感じ取っているのかもしれない。
「わたしのほうは特に……従兄様からのお手紙もありませんし。……ああ、そうでした、語学教諭に病欠の女子生徒への伝言を頼まれました。そちらはエングラウン様が生徒会業務に注力されているお時間中に済ませました」
「わかった。先週の男子生徒からの接触はもう無いな?」
「ええ、ございません。どうやらお手数をおかけしたみたいで……ありがとうございます」
「……いや、当然のことをしたまでだ」
先週、男子の上級生からちょっとした用事で話しかけられ、不愉快な視線と言葉を投げつけられたことがあった。
――将来的に、お互いが貴族の義務を果たしたあとの、愛人関係の誘いである。
七年前に小柄で華奢な女性が騒動の種になったということでそれらの要素が忌避されるようになり、現在の社交界はメリハリのついた身体と、それを強調するドレスが持て囃されている。
クリエールはもともと、全体的に肉付きのよい体つきをしている。大人の流行に敏感な女子生徒たちが言うには、クリエールは女性の平均よりも少々背が高いが、現在の貴族女性の理想的な体型なのだという。
この流行は一部の男子生徒にも好ましく映るようで、いままでも不躾な視線を感じることが時折あった。それ自体は見られているだけであり、なにか実害があったわけでもない。友人たちに相談しつつも様子見をしていたのだが、先週ついに声をかけられたということで、思い切ってエングラウンに報告したのだ。
結果、件の男子生徒からの追加の接触は未だない。ついでに、不躾な視線の数も減ったように思える。
それにしても、婚姻前に愛人の誘いをかけるだなんて、クリエールとエングラウンのどちらに対しても失礼な話だ。クリエールからすれば、結婚後に誘われたところで応じる気は微塵もないが、どちらがより侮辱的であるかというと、圧倒的に前者である。エングラウンはシャスバ侯爵家が侮られたと判断したのか、きっちりと対処してくれたらしい。
内容も内容であるため、女子生徒から男子生徒へ下手に働きかけるのはリスクが高く、エングラウンが動いてくれて非常に助かった。
クリエールとエングラウンは、幼い頃に大人の都合によって結びついた婚約者である。
流行りの軽快な恋愛小説や、伝統的で壮大な歌劇のような、ドラマチックな恋愛関係とはほど遠い。
それでもクリエールは、婚約してからの六年間を真摯に接してくれているエングラウンに満足している。それどころか、自分がエングラウンに相応しくあらねばと努力し続けなければならない立場なのだ。
クリエールは、自らがエングラウンに向ける感情は、恋のそれとは違うと理解している。彼に抱いているのは「信用と信頼」そして「尊敬」だ。
年頃の女子である以上、物語でうたわれるような燃える恋に憧れることもあるが、将来の伴侶としてエングラウン以上に好ましい相手はいないと確信している。
性格は横に置いても、アナンツャ公爵令嬢は小柄と同時に肉感的な、可愛らしい女性である。そんな彼女の誘いをすげなく断り続けているエングラウンは、実に堅実で理想的な婚約者なのだと、クリエールは思う。
「シャスバ侯爵家に、アナンツャ公爵家からの接触は未だないのですか?」
「少なくとも、父からの連絡はないな……陰で我が家を追い落とす陰謀やら何かが無いとよいのだが。クリエールも引き続き気をつけてくれ」
「ありがとうございます。オーゼン家に妙な接触があったという連絡もありませんし、わたしも学内での言動について引き締めて参ります」
「……気負いすぎないように」
姿勢を正し、クリエールが今後にむけて気を引き締めれば、氷のように固いエングラウンの表情が、少しだけ柔らかくほころぶ。
クリエールは、エングラウンのこの表情が好きだ。信頼されている、大切にされていると実感できるから。
だからこそ、この関係性を壊さぬよう壊されぬよう、クリエールは自らを磨く。そして、害意を向けてくる方向に気を配らねばならない。
それでも、婚約の発端となった叔父が失脚でもすればまた話は変わってしまうが、それ以上の価値をクリエールが持ってしまえばいい。
叔父についてクリエールができることは無いが、改めて情報収集に力をいれようとクリエールは方向性を決めた。
クリエールはまだ学生の身分ではあるが、貴族女性にとって情報とは武器なのだ。
報告としてエングラウンからもたらされる情報は、クリエールの助けになることも多い。それをありがたく受け取りつつも、クリエールもエングラウンの助けになりたいと思う。だから、アナンツャ公爵令嬢に対処するためにはどんな武器が必要か、クリエールは考えなければならない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ほぼ毎日の報告会で大きな問題が取り上げられることもなく、穏やかに日常が過ぎていく。
ついでに、アナンツャ公爵令嬢も毎日のようにエングラウンにまとわりつき、袖にされている。
アナンツャ公爵令嬢に関して、クリエールは友人や派閥の先輩に意見を貰っている。
下手に気を抜かないように……という方向性は前提なのだが、それでも「あれは令嬢の恋心の暴走であり、家は関与していない可能性が高い」という見方が優勢である。正直、クリエールもそう思うことが多々ある。
しかし、いくら恋心は制御の利かぬものだといえど、それだけであんな軽挙妄動をするものなのだろうか。
しょせん、物語は誇張された内容でしかなく、現実の人間とは理性でもって動くものだとクリエールは思う。もちろん、学校にいる学生は誰もがまだ成人前である以上、未熟な面があるというのは無視できない可能性だ。
ある日、次の講義のために、クリエールが友人たちと教室を移動していれば、何かが中庭を騒がす場面に遭遇した。
「あら……どうしたのかしら」
「いやだわ。もしかして、喧嘩?」
耳に届く喧騒に、友人たちがそっと眉をひそめる。
いくら教育の行き届いた若者が集まっているとはいえ、学校とは人が集まる場なのだから喧嘩は発生する。
無駄に介入し、無関係の喧嘩に巻き込まれることほどくだらないことはないだろう。しかし、起きてしまっている事象について何も知らないというのも問題だ。
そんな言い訳で人並みの好奇心を覆いつつ意識を騒動に向ければ、クリエールの耳は聞き慣れた声を拾った。
「………………エングラウン様?」
騒ぎの中心は、腕を組んだエングラウンと、自らの豊かな胸の前で手を組んで、祈るように何かを訴えかけているアナンツャ公爵令嬢だった。
状況は依然不明なものの、その組み合わせが揉めているのなら、クリエールが無関係な確率は低い。
「……わたしは、話を聞いてきますね」
小さく溜息を吐き、後ずさりたくなる気持ちを押しつぶす。
友人たちにここで待っていて欲しいことを伝え、改めて意を決したクリエールが足を前に踏み出すと、自然と人波が割れた。
「――――だから、私は…………あ、ああ、クリエール」
「ごきげんよう、エングラウン様」
人波の動きに気がついたエングラウンが、歩みを進めたクリエールをいち早く見つけてくれた。呼ばれてもいないのに会話に割りこむのは褒められた行為ではないため、早めに見つけて貰えて助かったと、クリエールは内心でほっと息をついた。
しかし、なんだか様子がおかしい。つい先ほどまで、いつも通りの表情だった気がするのに、わたしを見つけた途端に若干挙動が不審になった。今までに見たことがない状態だ。いったいどうしたのだろうかと、クリエールはエングラウンに疑問を含ませた視線を向け――ふいっと目を逸らされた。
「(…………?)」
わざとらしく目を逸らされ、クリエールの胸に一瞬だけ鋭い痛みが走る。
しかし、ひと息おいてからよく見れば、エングラウンに拒絶されている風ではないように感じた。
クリエールの今までの対人経験から考えるに――これは動揺という表現が一番近い気もする。とはいえ、“エングラウン”と“動揺”は縁遠い単語なのだ。これは動揺ではないのかもしれない……それなら、この状態は何だという疑問が結局残るのだが。
クリエールは、エングラウンが動揺したところなど、六年の付き合いの中で見たことがないので、確信が持てない。
結論が出そうにないエングラウンの観察は後回しにし、クリエールはアナンツャ公爵令嬢へ体を向け、黙礼をする。
実はクリエールとアナンツャ公爵令嬢は今まで相対したことがなく、これが初対面である。さらに言うのなら、派閥は違えど、相手は公爵令嬢。クリエールから話しかけることは、無礼となる。
よって、会話をするためには相手から声をかけてもらう必要があるが……むすっとした不機嫌さを隠しもせずにだんまりを決め込んだアナンツャ公爵令嬢は、どうやらクリエールと話す気が無いらしい。学内で有名なエングラウンの婚約者がクリエールであることは周知の事実である上、この場には野次馬が多くいるというのに、ずいぶんと幼稚な態度だ。
エングラウンは、そんなアナンツャ公爵令嬢の態度に見切りをつけたのか、少し離れた場所で待っているクリエールの元へ足を向けた。しかし、「待って!」との言葉とともに強く腕を引かれ、引き止められた。
「エングラウン様……どうか、どうか、わたくしをお救いくださいまし。わたくしはもう貴方様しかお縋りできないのです……」
彼の腕を引いた細い手の主は、今にも倒れそうなほど青ざめた顔色のアナンツャ公爵令嬢。悲壮感の篭ったか細い声とともに、ぎゅっと上半身を寄せてエングラウンの腕に縋り付いた。
一瞬眉をひそめただけで、強く振り払おうとしないエングラウンに、クリエールの胸が少し重くなる。
いかなるときも紳士であろうとするのは彼の長所だが、今はそんな場合ではないのではないかと、拗ねた気持ちになる。
それと同時に、アナンツャ公爵令嬢の発言もクリエールは気になった。
エングラウンが、いつもの表情のままで特に何の反応もしていないことを鑑みるに、その話自体は既に済ませているようだ。彼女にまつわる噂で危険なものといえば――ハニートラップ疑惑か。
「(派閥内の人間では、上位者であるアナンツャ公爵の意に背くことは難しい……だから、派閥外に助けを求めた……?)」
もしそうであるのなら、気の毒な話だと思う。
家の都合に行動や将来が左右されるのは、貴族として生まれた以上仕方がないこと。クリエールとて、エングラウンとの婚約はもともと家の都合だ。
だからといって、まだ学生の身分の娘にハニートラップを仕掛けさせるなんて、問題しかない。
いやしかし、こちらの派閥にだって公爵家の女子生徒が在学中だ。そういう問題なら、彼女に相談するのが最適ではないかとの疑問が浮かぶ。彼女からみたクリエールは同派閥の後輩にあたるため、彼女には世話になっている。
訴える先に敢えてエングラウンを選んだというのなら、それ自体がハニートラップの一環である可能性が高い。
こんなことを数秒で考えたクリエールは、アナンツャ公爵令嬢に対する哀れみの感情を一旦脇に置いて、気を引き締めた。
クリエールの思考が落ち着いたのと同じ頃、エングラウンがやんわりとアナンツャ公爵令嬢の細い腕を外す。
そして、エングランは無言のまま、クリエールに向かってくる。
「……あの、エングラウン様……………………………………え?」
クリエールの目の前に立ったエングラウンの長い両腕が彼女の背にまわり、その身体をぎゅっと引き寄せた。
つまり、エングラウンが、クリエールを、抱きしめている。
「……ああ、うん。これだ」
――――――――――何が?
エングラウンがついこぼしたような言葉に、クリエールの頭の中に疑問が湧き上がったが、混乱のあまり一音も声にならなかった。
周囲も、エングラウンの突然の奇行によって、先ほどよりも深い静寂が今もこの場を支配している。
「やはり、胸の感触はこれだな……」
これは余談なのだが、この学校では成長途中の身体に負担をかけないため、女子生徒の下着は身体を締め付けすぎない形状と素材で誂えることが推奨されている。
もちろん、それらを無視し、流行のメリハリボディのために固い素材のコルセットで身体を引き締めている女子生徒もいるにはいる。しかし、クリエールは生真面目に推奨に従い、やわらかな素材のビスチェを身に着けていた。
つまり、クリエールの胸の感触は、ほぼダイレクトにエングラウンへ伝わっている。
一ヶ月ほど前のことだが、学内を共に歩いている際に、躓いたクリエールをエングラウンが抱きとめた……という出来事があった。躓いた勢いで、胸を思い切り押し付けてしまったのだ。しかし、胸を押し付けてしまったという羞恥が強く、クリエールは助けてもらった感謝のみを残してから、その記憶を意識の隅に投げ捨てていた。
そして今、エングラウンの腕の中にいるクリエールは――思考を完全に止めていた。
「待て待て待て、どうしたシャスバ!?」
「落ち着けエングラウン!」
「とりあえず離れろ、オーゼン嬢が固まってるぞ!?」
いち早く我に返ったエングラウンの友人たちが、大慌てでクリエールからエングラウンを引き剥がした。
「どうしたも何も、私はクリエールの胸の感触を確認したくて……」
「わかった、とりあえず黙れ!」
「いや、聞いてくれ。私は、女性の胸とは柔らかいものだと思っていたのだが、先ほどのは妙に堅くて――――」
「頼む、後で聞いてやるから今は黙ってくれ!」
エングラウンの友人のひとりが、胸の話を続けたがるエングラウンの口を押さえる。
口を友人の手で覆われ、もごもごとするエングラウンという奇妙な状況を、クリエールは呆けながら眺めていた。そんな彼女の背を、いつの間にか背後にいた同派閥の公爵令嬢の先輩が、優しく撫でた。
「クリエール、大丈夫?」
「は、はい……。ありがとうございます、先輩」
混乱を極めるエングラウン周辺と、見守るクリエールと先輩。そして、それらを眺める野次馬たち。その陰で、周囲から遠巻きにされている人物がいた。
その人物とは、エングラウンにわざと押しつけていた豊かな胸の感触が、彼本人によって暴露されたアナンツャ公爵令嬢である。
さて、胸が堅いという状態は、固いコルセットでしっかりと固めているのだと、女ならまず想像する。
しかし、そのあたりの事情に疎い男なら、先にこう考える――――あの大きな胸は、詰め物だと。
メリハリのついた身体が女の理想とされる現在の流行もあり、ある程度の詰め物は普通である。
しかし、豊かな胸を誇示するかのように振る舞っていたアナンツャ公爵令嬢を思い返せば、あの振る舞いはコンプレックスの裏返しで、そこには必要以上の詰め物があってもおかしくない……。そんなふうに、聴衆は無責任な想像をする。女の下着事情などよく知らぬ男なら、尚更だ。
そうして注がれる生ぬるい視線と、小声で囁かれる会話に耐えきれなくなったアナンツャ公爵令嬢は、それらを振り切るように駆けだす。そんな経緯でアナンツャ公爵令嬢が中庭からいなくなったことに、クリエールとエングラウンが気がついたのは、教師が騒ぎの収拾のために乗り出してきてからだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「――本当に、すまなかった」
騒ぎがあった日の放課後、学生寮共用区画のいつもの部屋で、エングラウンはクリエールに向け頭を垂れて無防備な首を晒す。跪いたエングラウンの前に彼の剣が置かれたこの姿勢は、この国の貴族男性における、最上級の謝罪姿勢であった。
クリエールの入室早々、室内で待っていたエングラウンがこの姿勢を取ったため、ふたりはまだまともな挨拶すらできていない。
「わかりました。もうわかりましたから、お顔を上げてください……」
「あの後、友人たちにもしっかりと叱られた。あれ以上は、君の不名誉でしかないと」
「そ、それはそう、ですね……」
抱きしめられたまま自分の胸について公衆の面前で語られるのは、羞恥が極まって卒倒してしまう。エングラウンの友人たちが冷静で助かったと、クリエールはそっと安堵した。とはいえ、クリエールとて抱きしめられたこと自体については、まったく悪い気はしなかったのだが。
学校教師によって野次馬が解散したあと、当事者であるクリエールとエングラウン、そして参考人として各々の友人が一室に集められた。そこでクリエールとエングラウンからみた状況説明と参考人の補足が行われ、クリエールはだいたいの事情を知ることになったのだ。ちなみに、アナンツャ公爵令嬢は、別途聴取するということだった。
あの中庭をクリエールが通りかかる少し前、どこか焦った雰囲気のアナンツャ公爵令嬢がエングラウンに話しかけてきたのだという。彼女曰く「貴方が好き」「わたくしを選んで」「遠い国へ嫁がされてしまう」「諦めたくない」と。
告白と懇願の後は自分を売り込む文言が続いたが、反応の無さに焦れた彼女の言葉は、次第にクリエールと比較するものになっていったようだ。
その説明時に、エングラウンは言葉を濁していたが、家柄やクリエールの地味な容姿をあげつらったものなのだろうとの想像は容易につく。よく言われることなので、クリエールはもう気にならなくなった言葉たちだ。
そんなことを思い返していると、どこか弱々しい表情のエングラウンがゆっくりと頭を上げた。
「……君のことを貶された私は強い憤りを感じ、つい声を荒げてしまった」
「まあ、そうなのですか……」
エングラウンがぽつりと零した言葉に対するクリエールの素直な感想は、「珍しい」だった。クリエールにとってのエングラウンは、いつでも冷静だった。
騒ぎのときに中庭で見た動揺した姿もそうだが、今日は珍しい姿を沢山知れたと、クリエールはちょっとした喜びを感じていた。
「声を荒げてしまったので、友人が一旦仲裁に入ってくれたのだが……そのときに『好きな女を貶されて好感を得る男はいない』と、友人は私の感情に理解を示してくれた」
「……えっ」
「そこで私も、自らを理解した。クリエール、私は君が好きだ。結婚してほしい」
「もう婚約してますけど……………………えっ?」
何故だかクリエールの頭は、エングラウンの言葉をうまく認識してくれない。会話に必要な単語をなんとか拾おうとするものの、肝心な言葉が素通りしていく。
「すきって…………………………えっと……」
「今後、同じ感情を返して貰えるように、努力しよう。だから、君も私を意識してくれると――」
「わ、わたしの胸が、ではなく!?」
「もちろん、君の胸も好きだ。柔らかく、しかし弾力もあり……」
「け、けけ、結構です、大丈夫です! 解説は必要ありません!」
クリエールは胸について力説を始めそうなエングラウンを制止し、深呼吸をすることによって、ばくばくと荒ぶる心臓を落ち着かせようとする。
「……私は、君が私のために努力をしてくれていることを知っている。勉学はもちろん、派閥の人間との付き合い方も、私との結婚を前提としたものだろう?」
「あっ……」
「きっと、相手が私でなければ必要のなかった努力や我慢をさせているのだろう。だからこそ、私は君に敬意と好意を示したい」
エングラウンは、クリエールの努力に気がついていた。
確かに、伯爵家以下の家に嫁ぐのなら必要のない知識や経験は多い。なによりも、エングラウンという人気者が婚約者ということで受ける妬み嫉みは当然ある。後者について、エングラウンが認識しているかは不明だが、それがなくともクリエールはもう十分だった。
「好きとか、恋とか……そういったものが自分に縁があると思ってもいなかったので、はっきりとわからないのですが……」
「……ああ」
「私は、エングラウン様が婚約者でよかったと、ずっと思っています、から……」
「…………そうか」
緊張で少し強張っていたエングラウンの表情が、ふっとほころぶ――これは、クリエールが好きなエングラウンの顔だ。
同時に緊張が解けたクリエールは、跪いたままだったエングラウンを立ち上がらせ、彼の手をとる。
「これからもよろしくお願いします、婚約者様」
「ああ。こちらこそよろしく頼むよ、婚約者殿」
視線を合わせてから微笑み合えば、少しくすぐったくなり、頬が熱を持つ。
嬉しくなったクリエールが、思い切って自分から抱きつけば、エングラウンはそっと抱きしめ返した。
「……やはり、君の胸は柔らかく心地が良い」
「その報告は不要です」
エングラウンの腕の中のクリエールは、今から急いで固いコルセットを作るべきか本気で悩んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
後日、シャスバ侯爵家からエングラウン宛に報告が届いた。
アナンツャ公爵令嬢は、学校の聴取の後で公爵家に戻り、すぐに嫁ぎ先の国へ留学という名目で出立したらしい。遠い国に婚約者がいるという噂は、どうやらそれなりに正しかったようだ。
エングラウンにまとわりついていた件は、彼女の恋心の暴走ゆえだった――ということになっている。
実際のところは、遠い国へ嫁ぎたくなかった彼女が、国内で相応な嫁ぎ先を自分でみつけようとした……との供述があったらしい。そこで彼女のお眼鏡にかなったのが、エングラウン。その婚約者が、クリエールというパッとしない地味な伯爵家の娘だったことも、決め手のひとつだった。
対立派閥の嫡男を捕まえて鞍替えさせることができれば、遠方へ嫁ぐことを防げると容易に考えたアナンツャ公爵令嬢は、意気込み挑んだ。ちなみに、七年前の騒動の中心人物である“守ってあげたい系男爵令嬢”の一部の噂を、参考にしたらしい。
そうして励んだものの、結果は惨敗。
しかも、その過程でエングラウンを本気で好きになってしまったという、おまけ付き。
結果だけ見れば、クリエールはアナンツャ公爵令嬢に一方的に侮られ、貶されただけである。それでも振り返ってみれば、どこか哀れみを覚えてしまう。
クリエールとて貴族として生まれた女である以上、いつ彼女と同じ状況になるかわからないからだ。
何かがあれば、明日にでもエングラウンとの縁が切れてもおかしくないことを、クリエールは忘れないようにしたい。
「……そうだ、君に関する不埒な噂を流そうとしていた輩がいたので対処した。もし他にも妙な噂を耳にしたのなら、すぐ私に言ってくれ」
話の流れで、エングラウンから何となしに不穏な報告をされた。いったい“対処”とは何をしたのだろうかと、クリエールは若干おののく。踏み込んで聞けば、どんな噂だったか、どんな対処をしたかの報告をしてくれるだろうが、クリエールは口をつぐむことにした。
基本的になんでも報告してくるエングラウンが濁したということは、それはきっとクリエールが知らなくてもいいことだ。
クリエールは感謝だけを伝え、その頼もしい恋人に身を寄せる。
「……もう少し強く押し付けてくれると、嬉しいんだが」
「その報告は余計なの」
あの中庭の騒動から――それとも他に何らかのきっかけがあったのかもしれないが――エングラウンからクリエールにもたらされる報告事項が、増えた。
果たしてエングラウンが好きなのは、クリエール本人なのか、その胸なのか。
クリエールの悩みは、まだ尽きない。
むっつりスケベが恋人限定のオープンスケベに進化しました。