8.別れ
ジンの頬の青あざが消え、ようやくいつも通りの顔が見られるようになった頃。
孤児院ではデフィオの気まぐれで一斉大掃除が開催された。今まで通り急に来訪してきては門を開けろと騒ぎ出し子どもたちが慌てて門に集まったのだが、門が開いた途端に地面をべしべしと鞭で叩きながら院内に向かっていったデフィオに皆が驚いた。
こいつは孤児院に対しては「汚い」と言うのが口癖で、間違っても院内に入るような真似はしない。憂さ晴らしをするのも人を売るのも、いつも孤児院の外の寂びれた庭園で行っている。ただ、その日はあまりにも迷いなく院内に入っていくものだから、何か今までとは違うことが起こるのではないかと孤児たちはみんな肩を強張らせていた。
孤児院に入ったデフィオはどすんどすんと床を踏みながら、部屋の扉を大きな音を立てて開けていく。部屋の中をぐるりと見まわしてすぐに外に出ては、次の扉、さらにその次の扉とどんどんと部屋の中を見回った。
全ての部屋を見終わったと思えば今度は食堂に居座って、比較的年の幼い子を呼び出しては机を叩いて怒鳴る。デフィオが食堂にいる間は呼び出されたもの以外は近づくことができなかったため何を怒鳴っているのかまでは聞き取れなかったが、とにかく壁の外からでもデフィオがギャンギャンと騒いでいることだけは分かった。
デフィオのもとから戻ってきた子どもたちはみな、何かを探すようにして集まっている他の子どもをぐるりと見回し、私たちの姿を視界に入れるとびくりと肩を震わせて逃げるように離れていく。なんだか嫌な予感がした。
「おい、お前ら!!今からこの孤児院をほこり一つ残さないよう掃除しろ!部屋の中も、外の倉庫や畑のところまで全てだ。次の鐘が鳴るまで終わらせろ!」
鐘一つ分くらいの時間が経ったあと、デフィオが食堂の外にいた子どもたちに向かって声を上げた。どうやら尋問のような時間は終了したらしいようで、その言葉だけ伝えたデフィオは早々に馬車の中に戻っていく。その言葉を聞いていた子どもが慌てて他の場所にいる子どもに今の言葉を伝えに行った。
「ジン、どうしよう」
「俺らの荷物は大丈夫だろ。気づかれない場所に隠してあるし」
「レクサスが、何か言ったりしないかな…?」
「俺が一緒に行動して見張っておくよ。リアはモニカと一緒に行動しとけ」
「分かった」
「ジンも、気を付けてね。ほら、リア行こう。デフィオのあの感じだと、鐘が鳴るまでに終えられなかったら鞭打ちだよ」
私の手を取ったモニカに引かれるが、どうしても嫌な予感がしてしまってジンを置いていくことができない。思わず「ジン」ともう一度声をかけたが、軽く頭を撫でられただけで「早く行け」と追いやられた。
「リア、心配しすぎ」
「でも…」
「大丈夫だって」
モニカに手を引かれるようにして誰もいなかった廊下までたどり着く。近くの用具入れから掃除道具を出したモニカからほうきを手渡された。デフィオの鞭打ちのほうが心配だから、さっさとやることを終わらせようということだった。
確かに、ジンのことばかり心配していてもどうにもならないし、できれば鞭打ちは避けたいのでいったんはモニカの言う通り掃除を終わらせることにする。早々に終わらせて、ジンのところに向かうことを決めて目の前のことに取り組んだ。
しばらくすると、モニカは水を汲んでくると言って木のバケツを抱えたので、「気を付けてね」と言ってその背中を見送る。
モニカの姿が見えなくなってすぐの時、後ろから突然知らない人に声をかけられた。
「おい、そこのお前。黒髪の娘。お前がリアだな」
振り返ると黒いマントを羽織り、フードを目深にかぶった人間が数人で私を取り囲んでいる。
どこからどう見ても、正しく悪の集団というような姿だった。そしてその悪の集団はどうやら私を探しているようだった。神様、いったい私が何をしたっていうのでしょうか。
ジン、怖いよ。助けて。
心の中で叫んだところで何かがどうにかなるわけでもない。目の前の男は何も言わない私にしびれを切らしたようで、一度小さく舌打ちをして隣にいた人間に向けて声をかけた。
「黒髪の人間はリアしかいないとデフィオから報告を受けている。フィオナ様のもとへ連れていけ」
「御意」
フィオナ様…?
頭の中でそんな考えが巡るまでの一瞬のうちに、首に痛みを感じて意識が遠のいた。
次に私が目を覚ましたのは、暗闇の中だった。体を動かそうとするが、縛られているのか何もできない状態だ。おそらく私はあのマント集団に捕まえられて、袋のようなものに入れられた状態で運ばれているらしい。声を出そうとしたが、喉がとてつもない痛みに襲われて叫ぶこともできなかった。そして尋常じゃないくらい揺れるので、もう一度意識を手放しそうになる。聞こえる音の感じから、どうやら馬で移動しているだろうということは予想できた。
「ブリフォーネ」
ふと聞き覚えのある声がした。意識を手放す前に聞いた男の声だ。男の声と同時に何かの光が袋の隙間から漏れて入ってくる。
「フィオナ様、娘は手に入れました。孤児院からお屋敷までそう遠くはございませんので、お茶を召し上がっている間にはお連れできるかと。お待ちください」
しばらくした後、今度は孤児院でよく聞いたことのあるフィオナの声が聞こえた。
「ありがとう。着いたらすぐに私に声をかけなさい」
「御意」
なぜここにはいないであろうフィオナの声が聞こえたのか分からないが、おそらくこれがこの世界にある不思議な力なのだろう。孤児院にいた時も、何かを呟くのと同時に腕輪が光るのを何度か見た。
そういえば、この世界に来る前にヘリス様が魔力がどうとか言っていたような気がする。せっかく魔法の使える世界なのだったら、そういうことを私も楽しみたかった。
ジン、モニカ。せっかくこの世界でできた大切な人だったのに、私はもうあの人たちのもとに戻れないのだろうか。
揺れのせいなのか、意識を飛ばしたせいなのか、頭が痛い。まるで私の脳が何かを考えることを拒否しているみたいだった。フィオナはどうして私を手に入れようとしているのか、分からない。でもそういえば、フィードがいなくなる日に私の話が出ていた気がする。あの時に言っていた尊いお方というのがフィオナなんだ。私が成人するときに売られる話なのかと思っていたけど、そうじゃなかったのか。
どうして。何で。声が出せないので、ひたすら頭の中で考えていた。
日本にいたころの感覚でいえば15分程度が経った頃だろうか。それまでに感じていた振動がなくなり、空中に浮かんだような状態で運ばれている感覚になる。どうやら袋ごと持ち上げられているようだ。袋の中に入れられたまま運ばれるなんて、酷い扱いだ。早く出していただきたいのだけれど、あとどれだけこの状態で放置されるのだろうか。若干不安になっていたが、その次の瞬間には袋の口が開けられ外に放り出された。
「痛い」と口から零れ出そうになり、喉の痛みに口を噤む。急に明るい場所に出されたせいで目がしばらく開けられなかったが、どうやら室内のようだ。徐々に慣れた目で周りを見回すと、何だか高級そうな調度品が並べられた玄関ホールに私は転がされているらしい。分厚い絨毯が引かれていて、肌がこそばゆかった。
「フィオナ様をお連れする。こいつの汚れを落として、座らせてろ」
「御意」
私を連れてきた男は、側にいた人間に指示を出し階段を上がっていく。返答をした人間はすぐに私の前に立ち「プルス」と短く呟いた。同時にその人の腕の当たりが光り、すぐに消えていく。何が起こったのか分からなくて視線だけ自分の体にやると、土ぼこりがきれいになっていた。これも魔法のような力のようだ。腕輪を媒介にして発動するようなものらしい。
そのまま手と足を縛り上げていた布をナイフで切られ、「そこに座っていろ」と短く告られたので、よく分からないまま跪くように座った。
「フィオナ様、この娘で間違いございませんか」
「ええ、ありがとう」
階段から降りてきた男が私の髪の毛を引っ張りながら顔を上げさせる。それを手で制したフィオナは側に近づいてきて、そっと耳に触れた。
「セルブス・ヴィンクルム」
その瞬間、頭が割れるように痛む。体の中に、何か虫のようなものが入り込んできて肉を食い破られながら這いずり回っているようだ。痛い、痛い、痛い。同時に吐き気がこみあげてきて、我慢できずに胃液を吐いた。
「汚いわね」
そう呟かれるのと同時に、お腹にも鋭い痛みを感じる。蹴り上げられたのだと気が付くまでは一瞬だった。さらに胃の中から胃液がこみ上げてくるが、なんとかそれを嚥下して耐える。ここで吐いたらもう一度蹴られる。次は蹴られるだけで済むか分からない。喉の奥がきゅうっと絞まり、口の中に苦みが広がった。
「フィオナ様、これは…」
「あら、やっぱり。この娘、どうやら魔力量が多いようですわね」
「フィオナ様より多いとは。だからこの魔石は染まりきっていないのですね」
「ええ」
何を話しているのか分からないまま、二人の間で会話が進んでいく。頭の痛みから逃げることに必死な私には、何が起こっているのか分からなかった。体の中を這いずり回る虫のような感覚を何とか外に逃がそうとして、意識を集中させる。体の中から弾き出すような感覚で痛みをやりすごしていると、徐々に体の中から気持ち悪さが減っていった。頭の痛みも落ち着いたころ、耳元でぱきりと小さな音がして薄い青に染まった石が膝に砕け散った。
「これでは駄目ね。最初に話していた通りにしましょう」
「御意」
フィオナは私の様子を一瞥してから、男に手を振る。同時に、周りにいたマントの人間たちがいなくなった。私は男に引きずられ、倉庫のようなところに投げ込まれる。そのまま、何か液体のようなものを口に含まされた。
美味しくない。薬草臭い。苦い。思わず吐き出しそうになる。
しかしながら男に口を閉じられていたせいで、吐き出すことは叶わない。飲み込むしかないと諦め一口飲み込んだ瞬間、再び意識が遠のいた。