5.別れ
ジンが怪我をして戻ってから、季節が三つ巡った。未だにジンの怪我は治る様子がなく、大きな包帯を巻きながら過ごす日々が続いている。片方の視界が隠されてしまっていることで、怪我をする前より距離感が分かりにくくなってしまったり、狩りをするときなどにすぐ目が疲れてしまうようになったらしい。
何もないようなところで転びそうになったり、何度も目をぱちぱちとさせているジンを見るとなんだか気の毒になってしまって、怪我なんて気にしないから包帯をとればいいのにということを話したところ「俺が気にするんだよ」と首を振られた。
この孤児院の中で、ジンのことを避ける人なんていないのにな。
とはいえ本人が拒否していることを無理強いできるわけでもなく、ジンはあの時からずっと包帯を巻いたままの生活をしている。
「そういえば、ジンからフィードにあの話は話してくれた?」
「あれな、やっぱりフィードは残るって」
「そっか」
フィードはここから逃げたくはないらしい。一つ心当たりがあるのは、いつも休息日の日は、朝にフィードがいないことだ。ジンは何か知っているようだが、特に何も言ってこないということはフィードにとって必要なことなんだと思う。
昔はいつも休息日には遅くまで起きてこなかったフィードが、ある時からたまに朝早くからいなくなるようになっていたらしい。それがここ半年くらいは必ず毎週いなくなる。もしかしたら何か伝手のようなものがあって、自分を買ってくれるようにと誰かにお願いをしているのかもしれない。ここの孤児院にいる子どもは、生まれたばかりでここに捨てられる子と何かの事情で成長してから外から入ってくる子に分かれている。外から来た子の事情は本人が言ってこない限りは分からないので、フィードには頼れる人がいたらいいなと勝手に願っている。
「フィード、いついなくなっちゃうのかな」
「どうだろうな。デフィオのことだから、眠りの季節がやってくるまでには売りに出すと思うけど」
「んー…、そうだ。デフィオにお守りを渡すなんでどうかな」
「お守りってなんだよ」
怪訝そうに眼を細めるジンにはっとした。この世界にはそういう文化はないのかな。つい口から出てしまったけど、気を付けないと。
「んーと、フィオナ様がくるようになってから服だけはわんさか渡されるようになったでしょ?その端切れを使って、手のひらより小さい巾着を作って開かないように縫っておくんだよ。中に、フィードを守ってくれますようにって願いを込めた木の板を入れるの。だからお守り」
「ふーん、それくらいならいいかもな。針と糸くらいならこの孤児院にもあるし」
「よし、決まり。モニカにも一緒に作ろうって頼んでくる」
次の休息日はデフィオがきて暴れられたせいで用意ができなかった。途中フィードが呼び出されたので心配をしていたが、戻ってきたフィードは何の気持ちもこもってないような声色で「次の太陽神の日に、俺、買い手が決まるって」と呟いた。
ああ、ついにそんな日がやってきてしまったのか。ついにフィードがいなくなってしまうんだ。この孤児院の最年長としていろんなところに気を回してくれたフィード。フィードがいなくなるなんて信じたくない。
ぼたりと涙が落ちて、止まらなくなった。
「あのさ、リア。お前、弱すぎるぜ。お前の代わりになってるジンがかわいそうだ」
言われた言葉がどういう意味なのか、考えられなかった。何を言われているのか分からない。どういう意味なのかと聞いても首を振られる。私はその言葉の意味を知ることができないまま、フィードと話すタイミングがなくなってしまった。
土の日の夜、ジンとモニカと私の3人でフィードのベッドがある部屋を訪ねる。フィードはベッドにおらず、残念な気持ちになった。どうせ明日の休息日の朝もいないことが予想されるので、仕方なしとベッドの上に3人分のお守りを置いておく。最後にもう一度「お守りください」と天にお願いをして、自分の部屋に戻った。
最後にお別れくらい言わせてくれればいいのに。そう思いもしたが、売られる人間がどういう気持ちでいるのかも私には分からない。それに、あの日からフィードは私を避けるような感じだ。私には、どうしてフィードがそうなってしまったのかよく分からない。
答えの出ない問いについてを考えることをやめ、早々に寝ることにして布団をかぶった。
「門を開けろ!」
翌朝、二の鐘が鳴ったすぐあとくらいのタイミングでデフィオが院にやってきた。今回は後ろにもう一台、蛇のようなモチーフの紋章が描かれた馬車が続いている。
皆が集まりきる前に、フィードがデフィオのもとへ向かった。
「フィード、こちらの馬車にはアシェリー・ネラフィウス様がいらっしゃる。お前を買ってくださると言っているが、一度お前が使えるのかどうかを調べてから買い取りたいとのことだ。乗れ」
「分かりました」
フィードの表情を遠くから見るが、その顔には何の感情も浮かんでいない。フィードは大丈夫なんだろうか。そう思って見つめるが馬車で何が起こっているのか、この位置だと音も聞こえてこなくて全く情報を得ることができない。周囲にいる騎士のような恰好をしている人間たちも、無表情でただ立っているだけだった。
しばらく時が経ってから、馬車の中からすらりと白い手が出されて何かを呼ぶような仕草をする。側にいた男が一人、馬車に入っていった。
その時点でデフィオは何やら満足そうな表情になり、手をこすって何かを期待するように馬車を眺めている。さらにしばらく時が経ってから、馬車から一人が降りてきた。
すぐに側にいた騎士のような人間が近づき、手を差し出す。それを拒否して降りてきたのは、美しい女性だった。すらりとした体型をしていて、デフィオより背が高いように見える。フィオナのようなぶりぶりのドレスではなく、シンプルで装飾の少ないドレスを着ていた。
「デフィオから聞いていた通り、このまま店で使えるようですね。この者を買い取りますので、代金をお渡しします」
「ありがとうございます、ネラフィウス様」
側にいた人間から手渡されたコインの数を数え、頷いたデフィオは「こちらで取引は完了です」と何か紙のようなものをアシェリーに渡した。それを受けとって、後ろにいた人間に渡したアシェリーは、そのままこちら側を視線をやる。
「あら」
そう声を出したアシェリーが視線を止めたのは私だった。何で、そう思うより早くアシェリーがデフィオに言葉をかける。
「デフィオ、あの者は?」
「どの者でしょう?」
「あちらの黒い髪をした少女です。少し小柄の」
ばくんと心臓が跳ねる。黒髪なんて、この院には私しかいない。
「ああ、ネラフィウス様。残念なのですが、そちらの者は既に予約が入っているのです」
「そうなの。どなたが予約されているのかしら。あの色は人の視線を引き付けるもの、倍の金額を払って買ってもいいわ」
「申し訳ございません。尊いお方ですので、お名前をお伝えすることはできませんのです」
予約されてるって何。私、そんなの知らない。聞いていない。まだ成人まで何年もあるのに、どういうこと?何で、どうして。ぐるぐると回る思考とは反対に、目の前でされている会話はトントンと進んでいった。
「尊いお方、名前を言えない方なのね」
「ええ、左様でございます。私も平民ですから、言えないこともあるのです」
「分かりましたわ。…そこに手を出せるほど私も力があるわけではありませんもの、今回は諦めましょう。もしそのお方が飽きられたようなら私に連絡して頂戴」
「ネラフィウス様のご理解に感謝いたします。そのようなことがあった際は、おっしゃる通りに手配いたしましょう」
私が蚊帳の外のまま話が進んでいく。血の気が引くような感覚に思わず座り込んだところで、フィードが馬車から降りてきた。遠目からでもわかる上等な布で口元と手を拭いていたフェードは、すぐさまアシェリーのもとに跪いた。
「お待たせして申し訳ございません」
聞いたことのないフィードの丁寧な言葉に、さらに混乱する。フィードはそんな言葉を使ったことがなかったのに。
「構いません。立ちなさい」
小さく手を振ったアシェリーは、そのまま正面に立ったフィードの耳元に指先で触れた。アシェリーの手首には、フィオナがつけていたのと似たような腕輪が見えた。
「セルブス・ルビドゥス」
小さく呟かれた言葉は私の位置からでは何を言ったのかはっきりと聞き取れなかったが、アシェリーが何かを呟いた瞬間腕輪がほんのりと光る。光が消える瞬間、フィードが崩れ落ちた。思わず駆けだそうとしたところでジンに手を引っ張られる。
「痛いよ、ジン離して!フィードが!」
「お前が行ったら何されるかわかんねえだろ、ダメだ!」
「でも」とフィードのほうに視線を向けると、呻きながら耳元に手をやる姿が見えた。一瞬意識を飛ばしたようだが、本人は無事のようだ。少し安心して、力を抜く。それに気づいたジンが、つかんでいた私の手を離した。
ふと、フィードの耳元で赤い宝石のようなものが光っているのが目に入った。昔の世界でいうとピアスのようなものが、耳元にいつの間にかつけられている。もしかしたら、先ほどアシェリーが口にした何か呪文のようなもののせいだろうか。
アシェリーはフィードに立つように命じ、その耳元にある石を検分するように見つめる。「よろしいでしょう」という言葉のあと、「お前の主人はこのアシェリーです」と口にした。
フィードが心なしか安心したような顔で自分の耳元に触れているのが見えて、混乱する。
どうして、売られていくのにそんな表情なの?この孤児院にいるより、フィードは外に出たかったの?ならどうして、一緒に逃げようとはしてくれなかったの?主人って何?売られたかったの?
ぽつぽつと頭に浮かんでくる疑問に答えてくれる人はいない。
隣にいるジンに目をやると、苦々しい顔で私のほうを見つめている。どうしてジンはそんな顔をしているのだろう。この顔は、ジンが後悔している時の顔だ。
「ジン」
袖を引きながら名前を呼んだ瞬間に重なって、ジンが「あ」と声を出しながら指をさした。そのほうに顔を向けると、フィードがこちらを見つめている。声は出していなかったが、あの口の形は分かる。「ごめん」だ。
なぜ謝るのか、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのか、この時の私には分からなかった。この日のデフィオの話と、フィードの表情の意味を知るのはまだ先の話だ。