2.孤児院
ヘリス様の祝福を受けて意識を失ったあと、何かの映画を見るような感覚で私は転生後の人生のことを思い出した。そうだ、私は孤児としてこの世界に転生して今この人生を歩んでいるんだ。このエルマリスという国の、セレヴェールという領にある小さな街の中で。
一瞬にして、体が強ばった。
ああ、最悪だ。思い出さなければ良かったのかもしれない。思い出さなければ、機械のように心を無にして過ごすことができたのに。なんて残酷なんだろう。この地獄の中で、あの時の温かい思い出を持ちながら生きるのはこの幼い心には酷すぎるじゃないか。
溢れてくる涙で視界が歪む。嗚咽を押し殺しながら、全ての記憶が戻るのを待った。
そうだ、そうだった。私は転生したことで親のいない子どもになったのだ。この孤児院の前に、身一つで生まれ直したのだった。まるで捨て子のように籠に入って門の前に置かれていた私は、この孤児院の院長に拾われたのだ。
そこからかれこれ5年が経つ。満足に与えられない食事、度々聞こえる怒鳴り声と暴力の音。幼い子は痛みに泣き、成長した子は全てを諦めた目をしていた。
そっか、私にはもう家族はいないんだ。私にあるのはこの狭い孤児院の中の、この固いベッドの上の自由だけだ。志乃として与えられた愛情は全てもう必要のないものだ。全てを捨てて生きた方が幸せだ。
神様、ひどいよ。
健康な身体があっても、これじゃあただの地獄と変わらないじゃないか。
強ばった体を自分の手で守るように抱きしめながら、ぎゅうっと体に力を込めた。鞭で打たれた体がびきっと痛む。
思わず小さく声を出したところで、隣のベッドからぎしりと音が鳴った。
床を踏む音がどんどん近づいてくる。
私が寝るベッドのすぐ側で止まったその人は、私の布団の上から小さな手で体を撫でた。
「大丈夫か、リア」
「ジン」
布団から顔だけを覗かせて、声をかけてきたその人に視線を向ける。視線の先には、孤児院での私の名前を付けたジンがいた。
孤児院での名前は、基本的に先にこの院にいた子どもが、新しく入ってきた子どもに名付けて与えられる。
私に付けられたリアという名前は、黒という意味を持つ言葉だそうだ。私のこの黒い瞳と髪の色は、他の子どもは持たない色らしく、覚えやすいだろうということでジンが名付けた。
私はジンの名前の由来は教えてもらえないが、孤児院にいる子どもは教育を受けられていない子が多いため、持っている語彙は少ない。少ない言葉から、その子に合った名前を一生懸命見つけてくれるのは孤児にとってはある意味支えにかるものなのかもしれない。
心配そうに見つめてくるジンに大丈夫ということが伝わるように笑顔を浮かべる。
「大丈夫、嫌な夢を見ただけ」
「泣いてただろ。目、赤くなってる」
「うん。本当に、怖い夢だったの」
詳しいことを話す必要はない。これ以上は聞かないでくれと伝わるよう、布団を顔まで被って横を向いた。
ジンは「おい」と一言呟いたが、私が反応しないのを見ると布団の上から数回頭をポンポンと撫で、自分のベッドに戻っていく。
大丈夫、明日からはいつも通りにするから。心配してくれてありがとう、ジン。
心の中でぽつりと呟いた。
次の日、一の鐘が鳴る前に目が覚めた。鉄格子付きの窓から見える空はまた薄暗い。日本でいうところの早朝あたりの時間だ。
この世界では、一の鐘が鳴る前に農民たちが働き出し、二の鐘がなった後に商人たちが動き出す。お貴族様は身近にいないから分からないけど、この世界では身分は重要視されるもので、労働階級である農民・商人の間と、貴族階級である人間たちの生活は大きく差が開いていることは耳にしたことがある。
静かにベッドから出て、外にある井戸に顔を洗いに行った。まだ日が出る前だからか、冷たい空気が肌に染みる。細く息を吐くと、後ろから声がかかった。
「おはよう、リア。ちゃんと眠れたか?」
「おはよう。ゆっくり眠れたよ。今日はみんなで薪の準備だよね?」
「ああ、…人数が減ったからそんなに多くは必要ないけど、このままだと芽吹きの季節の分がちょっと少ない」
ジンが少し言いにくそうに言葉にした「人数が減った」というのは、実りの季節の間にあったあの人身売買の日ことだろう。この孤児院の院長であるデフィオは、自分が育てた孤児にかかった分のお金を取り返すために、金を持つ人間に資源を売って何が悪いのかという考えである。確かに孤児が成長してある程度労働力として使えるようになったら売られるのは仕方がないかもしれない。
あくまで、きちんと孤児にお金がかけられていて育てられたならそうかもという話だけれど…。
まずそもそも孤児を育てるためにここの領主から寄付金を貰っているはずで、デフィオの懐から出ているお金はそこまで大きな金額では無いはずなのだ。基本的には自給自足の生活だし、新たな孤児が入れば成長した孤児は売られていくので人も増えない。
ただ、得られた寄付金は全てデフィオの懐に入り女遊びやギャンブルに使われていて、私達には1シリスも還元されていないからこんなに苦しいのだ。
そんな状態で原価0のような人間を売りに出すのは、いかがなものかと思う。
しかも、デフィオの顧客は労働力を買いにくるというよりは“壊れてもよいおもちゃ”を買いにくる感覚でいる。
今まで買われて去っていった子ども達が今も生きているのかは分からないが、同じ人間が度々孤児を買いにきていることを見ると、“壊れてしまった”んだろう。外の世界を知ることができたとしても、すぐに人生が終わるのであればここにいる方がまともなのかもしれない。
寝るところはあるし、水のように薄いスープと湿気ったパンでも食べるものはある。理不尽な怒りだって、慣れればただ人形のように受け流すこともできるのだ。
薪を作るための道具を用意して、孤児院の仲間と一緒に森に向かう。人数が少ないので、やることはそれぞれで分担することにした。
まずは最年長であるフィードが率いる伐採チーム。ひたすら木を倒し、薪となる素材を作る係だ。体力が必要なことから、全員男の子の6人チームとなった。
それから、枝を落として木を切り分け、割るチーム。これは残りの5人が集まる男女混合チームだ。モニカがこのチームのリーダーとして下の子達をまとめていた。
いつの間にか日が当たるようになり、森の中がキラキラと光る。孤児院にいる子は皆、この冬支度が重要であることを知っているため、言葉数少なにひたすら薪作りに勤しんだ。
たまの休憩を挟みながらひたすらに作業を進め、空が徐々に暗くなっていったところで六の鐘がなる。孤児院の子ども達はこの時間になると仕事の終わりだ。
何事もなく今日の仕事が終わったことにそっと息を吐きながら、持ってきた仕事道具をまとめて抱えた。
一生懸命割った薪は今日のところはそのまま放置して、乾燥させる。しばらく経ったら孤児院にある薪棚に移動して、保管する予定だ。
一日力仕事をしていたせいか、行きよりも重くなったように感じる荷物を抱え直して、帰路に着いた。
帰ったら食事の用意を始めなければならない。孤児院で食事を作れるのは一部の人間だけなので、作ることができる私はさっさと支度を始める必要がある。
まずは荷物を片付け、そのまま井戸に向かって冷たい水で顔と手を洗う。汚れた服はどうしようもないので、軽く叩いて木くずを飛ばした。
明日は太陽神の日で、孤児院の孤児たちも表向きは休息日として過ごすことができるので、もしできれば服を洗おう。そんなことをぼんやりと考えながら、作業台に向かった。
作業台では既に2人が今日のスープを作っている。孤児院の食事は、デフィオが渡してきた野菜クズか、裏庭で作られた畑から収穫した野菜で作られる。今日は残念ながら野菜クズしかないらしい。
「活動量に対して、食べられるご飯の量が少なすぎるよ」
ポツリと呟くと、フィードが大きく頷いた。
ジンも頷きながら喋り出す。
「野菜クズのスープとしけしけのパンって、満たされないよ。味もあってないようなもんだし」
「せめて肉でもあれば良いのによお」
「フィードが狩りに行って、動物でも捕まえてこれたら豪華な夕飯だよ」
「そういうリアが狩りに行けばいいだろう?俺、狩りは下手くそで矢を飛ばしてなくしちまうから、弓の扱いが上手いリアが行くべきだ」
「次の月の日なら挑戦してもいいけど…、動けるか分からないから予定は未定だね」
「ああ、明日は太陽神の日か…」
ジンが眉を顰めると、フィードが頭をぽんと撫でる。
「考えてもどうにもならないし、何もないことを神に祈るしかないな」
その声には諦めの感情が滲み出ていた。
食事の用意ができれば、あとは各々好きなタイミングで自分の分をよそって食べるだけだ。基本的にみんな食事ができてからすぐ食べることが多いので、テーブルには多くの子どもが集まっていた。その中に一人、青ざめた顔で机を見つめる女の子がいる。
「モニカ」
自分の分のスープとパンを手に持ち、隣の席に座った。モニカは「ご飯、食べれないや」と小さく笑って、自分の手をぎゅうっと握る。
「モニカ、今食べないと明日がもたないよ」
「うん…分かってる。リアは怖くないの?」
「んー、もう慣れたって感じかな」
湿気たパンをちぎって、口に放り込む。美味しくない。めちゃくちゃ美味しくない。この孤児院では、食事は楽しいことではなく義務というかなんというか。口の中にあるしけたパンをむしゃむしゃと咀嚼する。そのまま水のようなスープを口に含んで飲み込んだ。
「モニカはここにきたばかりだから難しいかもしれないけど、毎週毎週考えてると心が壊れるから。嫌なことがある時は、扉をぱたんと閉じるみたいに、何も入らないようにするの」
「うん」
「そうしたら、嫌な時間はいつの間にか終わってるよ」
もう一口ちびりとスープを飲んで、最後のパンの欠片を口の中に押し込む。残ったスープで流し込めば、食事終了だ。
「基本的に、あの人がくるとしたら太陽神の日だけだから。こないことを祈ってて」
モニカは自分より歳上だが、この孤児院にきたのは最近だ。流行病で両親が亡くなったらしく、まだこの孤児院での生活に適応できていない。
この孤児院で生きていくには、とにかく感情の振れ幅を小さくした方が良い。嫌なことから目を逸らし、現実を受け止めずに過ごすほうがよほどいいのだ。
周りを見回すと、モニカと同じように体を固くしている子どもは数人いるよう感じるが、みな無機質な目でご飯を食べていた。自分の感情を言葉にすると、嫌な光景が波のように襲ってくるので口に出そうとする子どもはほとんどいない。モニカのようにここにきたばかりの孤児が泣きながら「帰りたい」と喚くか、壊れた人間が何かをぶつぶつと呟くか、理不尽を飲み込めない幼い子が泣き叫ぶだけだ。
「大丈夫だよ」
根拠のない言葉を口にして、もう一度モニカにご飯を食べるように促した。
モニカは固い笑みを浮かべたあと、諦めたように食事に手を伸ばした。