9 猫たちの黙示録
いすぱるの日常は実話です。
私が住んでいる家の近所には、たくさんの猫がいます。
これらの猫たちは飼い猫ではなく、「地域猫」と呼ばれるもので、多くの住民に可愛がられています。
散歩をしていると、草むらから「ニャー」と鳴きながら二〜三匹の猫が出てきます。彼らは愛くるしい瞳で私を見つめてきます。
動物好きの私は、その瞳に抗うことができません。三匹のうち二匹は人に慣れていて、逃げることなく触らせてくれます。背中をなでると、喜んで頭を私の足に擦り付けてきます。
その二匹のうち一匹は、かなりの高齢猫で、毛はばさばさで痩せています。動きも遅く、誰かが置いた餌を食べている姿を見かけることがありますが、食べるのがとても遅いのです。
そのせいで、いつも若い猫たちに餌を取られてしまいます。私が見ていた時も、先に食べ終わった若い猫に食べられていました。でも、その老猫は怒ることもなく、餌を譲ってあげる優しい猫なのです。
近所の猫好きな方に聞いたところ、若い二匹はまだ1歳くらいだそうです。この草むらで生まれ育ったとのこと。老猫の方は、ある日突然現れたそうです。親子でも兄弟でもない関係ですが、行き場のない老猫を二匹の若い猫は優しく受け入れ、草むらで一緒に暮らしているのです。
この優しい二匹の若猫と一匹の老猫がねぐらにしている草むらには、他にもたくさんの猫が訪れます。大半がオス猫で、メス猫はほとんど来ません。オス猫同士だと喧嘩をするイメージがありましたが、彼らは仲が良く、一切喧嘩をしません。ただし、一匹だけ例外がいるのです……
時々その草むらに遊びに来る猫の中に、私が「ボス」と呼んでいる猫がいます。
ボスは白とグレーのツートンカラーで、とても体格が良く、歩き方も猫というより虎に近いです。しかし非常に人懐っこく、私が話しかけると「ニィヤァ〜」と返事をし、道で会うと「ニャ〜」と挨拶もしてきます。
散歩コースで会うこともあれば、家の前で会うこともあります。私を見つけると「ニャー」と鳴いて、隣に並んで一緒に歩くことがあります。私が左に曲がると、ボスは「またな」と言わんばかりに「ミャー」と鳴いてそのまま真っ直ぐ進みます。
別に餌が欲しくて付いてくるわけではないのです。ボスにとっては「よっ、また会ったな。俺もこっちなんだ。おっと、そっちに曲がるのか。それじゃあまたな」といった感じなのでしょう。
そうなのです、ボスはちゃんと別れの挨拶もするのです。これは一度や二度ではなく、私は何度も経験しています。ボスは本当に賢い猫で、狭くて車が通らない道でも、真ん中を歩くことなく、車が来ると側溝に入って通り過ぎるのを待ってから出てきます。
すぐ近くには交通量の多い道路があります。いすぱるの日常の第一話に登場するビットコインの魚屋さんに続く道です。そこには申し訳程度の歩道があり、人ひとりがやっと歩けるほどの幅しかありません。
すれ違う時は、どちらかが車道に降りなければならないほど狭いのですが、ボスはそこをちゃんと歩いているのです。すぐ横には車が大きな音をたてて走っているのに、狭い道では側溝に隠れるくせに、狭い歩道をゆっくりと歩いている姿を何度も目撃しました。
ここには車が来ないと理解しているのです。
話を戻しますが、餌を取られても怒らない老猫は、そのボスが遊びに来るとものすごく怒ります。尻尾と背中の毛を逆立てて「ミャーーー! ニャーー! フーーー!」と威嚇し、ボスに飛びかかろうとします。
しかし、ボスはそんな老猫の態度もどこ吹く風という感じで、完全に無視します。
そう、まさにボスなのです。老猫の渾身の威嚇をちらっと見ても、「なんだ爺さんか。無理するなよ」といった感じで相手にしません。喧嘩すれば自分が勝つことは分かっているのでしょう。だから老猫がいくら威嚇しても全然相手にしない、年寄りをいたわり、心までも美しい真のボス猫なのです。
老猫以外の若いオス猫たちは、老猫が大好きでいつも一緒にいますが、ボスのことも大好きです。ボスが来ると並んで歩いたり、頭をすり寄せたりします。
「あ、ボス。久しぶりっす!」「おう、元気だったか」といった会話が聞こえてきそうな光景です。
ある日のこと、私が散歩をしていると、三匹の猫がねぐらにしている草むら向かって、私の前をボスが歩いていました。そして、急に足を止めて何かに視線を向けました。
その時のボスの表情が普段と違うことに私は気づきました。ボスは一段低い場所をじっと見つめていたので、私も同じ方向に視線を向けました。
するとそこには、ボスと同じくらい、いやそれ以上に立派な体格の黒猫がいました。その黒猫は、老猫と一緒にいる二匹の若猫のうちの一匹を虐めていたのです。老猫は少し離れた場所から、自分を受け入れてくれた若猫を守ろうと、必死で黒猫を威嚇して追い出そうとしてましたが、奴は全く動じません。
ボスはそれをじっと見ていました。すると、大きな黒猫はボスの視線に気づき、虐めていた猫と老猫には目もくれず、ボスに近づいてきました。
その光景を見ていた私は、これは間違いなく一戦始まるな、と思いました。
ボスにとってこの場所は自分の縄張りです。その縄張りで、自分を慕っている子分のような猫を黒猫が虐めていたのです。ただで終わるはずがない。
私が見守る中、黒猫がゆっくりとボスに近づいてきて、ピタリと止まりました。その距離はおよそ2.5メートル。
ボスは推定5~6歳で、毛は撫でるのを躊躇するぐらい汚れています。対して黒猫の毛並みはツヤも良く、恐らく2~3歳といったところでしょうか。
ボスは一段高い場所から動かず、二匹は威嚇することなく、ただ睨み合っていました。
その時私は、黒猫とボスを交互に見ていました。黒猫に虐められていた若い猫も、私と同じように黒猫とボスを交互に見ていました。何かが始まる、そう予感していたのでしょう。老猫は離れた場所で、もう一匹の若猫と一緒にいました。
普通、猫の喧嘩といえば「ミャー!」「ニャー!」と鳴き声による威嚇から始まります。しかし、黒猫もボスも、一度も声を出しません。ただずっと睨み合っているだけでした。動物好きで、たくさんの猫を見て来た私でも、それは初めて見る光景です。
まさに強者対強者。睨み合っているだけでしたが、イフトを感じるほど息を呑む光景でした。
先に動いたのは黒猫でした。なんとボスが2.5メートル先から見ているというのに、地面に寝そべったのです。(勿論お腹は見せてません)人間で言うと、足を組んで座ったみたいな感じでしょうか。完全に余裕を見せて挑発していました。だが、それでもボスは動きません。
にらみ合いが1分ほど続いた後、ゆっくりと立ち上がった黒猫が、ボスに背中を向けて歩き始めたのです。まるで「くるならこいよ」と自信たっぷりに。
普通の猫の喧嘩であれば、相手が背を向けるとそこに飛びかかります。しかし、ボスはただ静かに見送っていました。黒猫が草むらの奥にある道の角を曲がって見えなくなるまで、ただじっと見つめていました。
それを見ていた私の脳内で、二匹の心の声が再生されました。
黒猫「ふっ。まだだ。今はまだ早い。だがな、いずれお前の場所を奪ってやるぜ」
ボス「いつでも相手になるぜ、坊や」
ベタな展開ですが、まさにこの台詞がぴったりの光景だったのです。
それから、その草むら近くに黒猫がいるのを私は何度か目撃しました。しかし、ある日を境に全く見かけなくなりました。
ボスの方は、相変わらず三匹の猫がねぐらにしている草むらに現れています。
恐らく、私がいない時に二匹は戦い、決着がついたのでしょう。そう、ボスが勝ったのです。
二匹の若猫にとっては、虐めてきた黒猫よりも、慕っているボスが勝って喜ばしいことでしょう。老猫にしても、自分を受け入れてくれた優しい若猫を虐める黒猫がいなくなって良かったはずです。
しかし老猫は、今日もボスに向かって「フウッー!」と威嚇していました。それでもボスはいつも通り今日も涼しい顔で私に「またな」と挨拶をした後、去っていくのです。
おしまい。
ボスの画像を、私のXにて公開しております。
宜しければ覗きに来てください。