14 坂本龍馬
みなさま、こんにちは。いすぱるです。
蝉の声を聞きながら、アイスをかじっていたら、ふと頭に浮かんだのが京都でした。
というのも、私は京都が大好きなのです。あの古都ならではの街並み、石畳に揺れる暖簾、時を超えて息づく空気、すべてが私を惹きつけます。ですので以前は、休みになれば「そうだ、京都へ行こう」でした。
自家用車、バス、新幹線と、その時の気分で交通手段を選び、まるで実家に帰るような感覚で楽しんでいました。
そう、本来ならこのお盆の休みは、京都にいてもおかしくないので、ついついこの時期になると思い出してしまうのです。
そして、私にとって京都といえば、そこから連想するのは自然と幕末の動乱です。
黒船来航から加速した時代のうねりが、京の街にも押し寄せ、町角ごとに剣戟の気配が漂っていたあの頃。
御所の周辺では尊王攘夷派と佐幕派が火花を散らし、夜になれば辻斬りや密談の噂が飛び交いました。新選組が治安維持の名のもとに暗い路地を駆け抜ける。そんな光景が目に浮かびます。
若者たちは己の信じる未来のために、刀一本で命をかけ、仲間の笑顔と引き換えに志を貫こうとしていた。その熱は、京の夜をさらに赤く染めていきました。
そして、その渦中をひょうひょうと渡り歩き、時に仲介役となり、時に時代の舵を切ろうとした男。そう、坂本龍馬さんです。
土佐の脱藩郷士でありながら、幕臣である勝海舟の弟子となり、薩摩や長州、果ては幕府の要人とすら渡り合い、時代を動かそうとした風雲児。
彼の姿を思い浮かべると、気づけばまた、私の得意な歴史妄想モードに突入しておりました。
そういえば、近ごろは「坂本龍馬はたいしたことをしていない」「過大評価だ」「彼を有名にしたのは司馬遼太郎だ」なんて話を耳にすることが増えました。
確かに、その指摘は全くの的外れというわけではありません。坂本龍馬さんを有名にしたのは、間違いなく司馬遼太郎先生の『龍馬がゆく』でしょう。そのイメージを信じているのであれば、それは過大評価かもしれませんし、これまで坂本龍馬が成し遂げたとされてきた事柄の中には、実際には違ったものもあるでしょう。
ですが、従来の定説と異なるからといって、そのすべてを修正し、完成された像を否定してしまうのは早計です。龍馬さんを「たいしたことない」と切り捨てる浅い考えの歴史学者の皆さまには、ぜひ一言申し上げたいのです。
その「たいしたことのない」坂本龍馬は、なぜ暗殺されたのでしょうか。
幕末の動乱期、もし本当に取るに足らない人物なら、放っておけばよかったはずです。たいしたことない人物を暗殺するよりも、他にやることは沢山あったでしょう。
まぁ、この坂本龍馬さん、当然ながら本に書かれているような理想化された人物そのままではなく、なかなか素行も荒かったようでして…… 地元土佐には、龍馬を実際に見たことがあるという女性の話が残っています。その女性は明治か大正のころ、「坂本龍馬は、今でいうヤクザみたいな人だと父から聞かされた」と語ったそうです。
つまり、一般の人からすると「ただの怖い人」というイメージだったわけです。その印象を裏付けるように、妻のお龍さんが残した回想にも、龍馬の素行の悪さが記されています。だからこそ、幕末のあの混乱期、恨みを持つ誰かが、どさくさに紛れて片をつけようと考えた。そんな単純な理由での暗殺だった可能性も、ゼロではないのかもしれません。
ですが……
龍馬が命を落とした近江屋は、道を挟んだ向かい側に土佐藩邸がありました。つまり暗殺犯は、龍馬を討つために、わざわざ藩邸の目の前という超絶危険極まりない場所で行動したのです。それほどまでのリスクを冒してでも、消さねばならない理由があった、そう考えるのが自然ではないでしょうか。
坂本龍馬暗殺…… このミステリーをめぐって、これまで一体どれほど数多くの説が生まれてきたことでしょう。私もすべてを把握しているわけではありませんが、中には驚くほど突拍子もない説もあるのを知っています。
「坂本龍馬は宇宙人だった!」や「坂本龍馬はCIAだった!」なんてタイトルの本が並んでいても、私はきっと驚かないでしょう。実際、それに近いような突飛な説を目にしたこともあります。
さて、坂本龍馬暗殺の有名な説としては、まず薩摩藩説(大政奉還を成し遂げた龍馬が、今後の方針の障害になると見なされた)
2、紀州藩説(海援隊の、いろは丸と紀州藩船が衝突し、沈没トラブルによる賠償問題が遺恨となった)
3、土佐藩説(一介の郷士である龍馬が藩の舵取りを握っていることへの反発)
などが挙げられます。いずれもそれらしい理由を備えており、他にも数えきれないほどの説があります。
その数ある説の中でも、私が推すのは幕臣・永井尚志関与説です。
私が書いた「坂本龍馬異世界へ行く」の中でも、龍馬が回想する場面で、この永井の名前を出しています。
この永井尚志という人物は、江戸幕府の外交と軍事の要を担った切れ者で、長崎海軍伝習所の総監理や外国奉行を歴任し、開国外交の最前線に立った人物です。幕末の情報戦にも長け、裏の駆け引きにも通じていたと言われています。
で、幕末にはこの方、京都町奉行(いわば「京都府警本部長 + 京都市長」みたいな権限をあわせ持ったポジション)治安維持だけじゃなく政治交渉もやる。
さらにー、大目付(幕府全体の監察、監査官で、いわば「国家公務員の監察トップ」+「総務省&内閣府の一部機能」みたいな位置づけ)
さらにさらにー、若年寄(老中に次ぐ超幹部ポストで、今でいえば「副総理」や「官房長官」に近い。老中の補佐だけじゃなく、時に老中代理で政策決定も)
ヒャッハー! つまりは、幕府のめっちゃめちゃガチでえらい人です!
そして、大政奉還後、永井は鳥羽伏見の戦いに参戦。その後、榎本武揚と共に蝦夷地へ渡り、あの有名な五稜郭の地へ。
そこでは、新選組「鬼の副長」土方歳三が戦死した戦いにも加わり、およそ半年間戦い抜いた末、最後は降伏しました。
うむむむ…… 最期の最期まで幕府を見捨てず戦っていたのか……
この行動だけでも、永井という人物の一端が見えてきますね。
実は龍馬さん、暗殺される直近にこの永井さん宅に、なんと白昼堂々と訪ねて交渉していた記録が残っているんです! しかも確証はないけれど、その場には京都守護職の会津藩主、松平容保公も同席していたとか……
あれ? あれあれおや? 坂本龍馬さんを「たいしたことない」って言ってた歴史学者さーーーん、聞こえますかーーー!?(ブラジルの人、聞こえますかー? サバンナ八木さん風)
なんと坂本龍馬さん、幕末の超ド修羅場の時期に、こんな超絶えらい人と会ってたんですよー。たいしたことない人物なら、こんな立場の人と直接会えるわけがないのになー。(棒)
仮にですよ? 仮に坂本龍馬さんが薩摩藩の頼まれごとで動いていたとしても、それでも、今で言えば副総理や官房長官クラスの人物と会って話をしているんです!
「龍馬なんてたいしたことない」と言っている歴史学者さん、あなたは官房長官に会えますか? しかも誰かの使いという立場でも構いませんが、それでも会えますか?
なのに坂本龍馬さんは「バリ偉い、官房長官と、幕末に会談!」BKBヒィーーア!!
なんですよー。
これだけでも、坂本龍馬さんがどれほどの人物だったのか、そのスケールが伝わってきますね。
で、話を進めますが、この会談はとても有意義なもので、永井さんも大いに満足したと言われています。龍馬さんの持ち前の交渉力や先見性は、幕府の要人である永井さんにも強く響いたのでしょう。
話は核心に入りますが、坂本龍馬さんと中岡慎太郎さん、そして従僕の藤吉さんを斬殺したのは、京都見廻り組です。
この件についても諸説ありますが、恐らくは確定に近いと考えられます。
ご存じの方も多いと思いますが、この京都見廻り組という組織は、会津藩が中心となって編成されたもので、京都の治安維持と不逞浪士の取り締まりを目的としていました。当時の京都は、尊王攘夷派、佐幕派、過激派志士など、様々な勢力が入り乱れ、暗殺や放火も日常茶飯事。まさに「誰が味方で誰が敵か分からない」危険地帯だったのです。
会津藩は、幕府から「京都守護職」という特別な役職を任されており、そのトップが、坂本龍馬さんと永井尚志さんが会談した時に同席していたと言われている松平容保公です。
そうなのです。坂本龍馬さんを斬った犯人組織のトップは、松平容保公なのです!
普通に考えても、これはおかしな話ですよね。暗殺のわずか数日前に、現在でいう副総理や官房長官クラスの幕臣と有意義な会談をした坂本龍馬さんを、その幕府直属の見廻り組が斬ったというのですから…… うーむ……
坂本龍馬さんは、大政奉還を推し進め、戦を回避しようと奔走していたことは間違いありません。日本人同士が争えば、外国に食い荒らされてしまう。そう危惧していた記録も、しっかり残っているのです。
幕府と薩摩の間に立ち、戦を回避しようとしていた坂本龍馬さん。その龍馬さんを、見廻り組が斬った……
白昼堂々と、京都見廻り組の管轄下にある幕府高官の館を訪ねていた龍馬さんです。普通に考えれば、「決して斬ってはならぬ」というお触れが出ていたはずですし、それも真っ先に新選組や京都見廻り組に伝えられるのが当然の流れだったでしょう。
この時の坂本龍馬さんは、まさに徳川を救う救世主のような存在でした。ゆえに、永井尚志さんの許可なしでは、龍馬を斬ることなどできなかったはずです。
では、なぜ永井さんは龍馬暗殺を許可したのか?
その理由として語られている一つが「薩摩藩」の動きです。当時すでに薩摩藩は、大阪方面まで進軍していました。
龍馬はこの事実を知らず、あるいは知っていたとしても、「薩摩はわしが抑えてる。永井様との交渉が終わるまでは薩摩は動かない」と豪語していたとも言われます。
しかし、その薩摩藩の動きで何らかの出来事が起こり、永井、あるいはそれ以上か同等の権限を持つ人物が、坂本龍馬暗殺を容認する判断を下した……
それが真相のひとつではないかと考えられます。
もちろん、ただの通達ミスであった可能性も否定はできません。それでも、あまりにも惜しい人物を、日本は失ってしまいました。
もし、坂本龍馬さんや中岡慎太郎さんが生き続けていたなら、日本はどうなっていたのか。必ずしも良い方向へ進んだとは言い切れませんし、現代の価値観でその未来を測ること自体、難しいことではありますが……
それでも、彼らが生きた時代にまいた種は、確かに残りました。
その種は、後に多くの人々によって受け継がれ、日本という国の歩みを支える芽となっていったのです。
坂本龍馬さんや中岡慎太郎さんの志は、時を越えて今なお語り継がれています。
坂本龍馬さんが目指した「日本人同士が争わず、世界に目を向ける未来」という理想は、形を変えながらも、今も私たちの心のどこかに息づいているのかもしれません。
では最後に、偉人たちが語った坂本龍馬さんの評価をご紹介し、この章を締めくくりたいと思います。
勝海舟
「竜馬という奴は実におもしろい男であった。智に長け、胆力もあり、しかも度量が広い。ああいう人物は、天下のためにどうしても用いねばならぬ男だ」
さらに、龍馬さんの死についてもこう語っている。
「竜馬が生きておれば、日本の変革はもっと穏やかにできたろう」
西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども、度量の大、龍馬に如くもの未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
西郷は龍馬と中岡が殺されたと聞いて、後藤象二郎に「おい後藤、貴様が苦情を言わずに土佐屋敷へ入れて置いたら、こむな事にならないのだ。全体土佐の奴等は薄情でいかん」と激怒して、その死を惜しんんでいます。
ちなみに、龍馬の死後、困窮していたお龍さんを救ったのは西郷隆盛であったと、お龍さん自身が書き残しています。
陸奥宗光(元海援隊隊士。明治の外務大臣「カミソリ外務大臣」と呼ばれた人物)
「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」
大久保一翁(旗本。外国奉行、大目付、御側御用取次)
「龍馬は土佐随一の英雄、いはば大西郷の抜け目なき男なり」
伊藤博文(初代内閣総理大臣)
「壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった」
そして最後に、偉人でも何でもありませんが、これは私、いすぱるが思う坂本龍馬です。
彼は剣の達人でありながら、剣に生きることを選ばず、時代の先を見据えた稀有の士であった。
あの凝り固まった時代にあって、藩や身分の垣根を軽やかに越え、新しい国のかたちを思い描いた。
その魅力は異性だけでなく、同じ志を持つ男たちまでも惹きつけた。
そんな彼の真の武器は、刀や銃ではなく、広き胸と自由な思考であった。
そして、その自由さこそが、時代を変える風を呼び込んだのだ。