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 12 歴史の小話


 とある日、私はお菓子をぽりぽり食べながら、YouTubeを眺めていました。

すると、たまたま流れてきたのが「豊臣秀吉の埋蔵金!」という動画。


 なんとその内容は、晩年の豊臣秀吉が、豊臣家の未来を案じて、多田銀銅山に4億5000万両もの黄金を隠した、という江戸初期に書かれた古文書が発見されたというものでした。


 その価値、現代に換算すると、ざっくりですが、数百兆〜数千兆円にもなるとか!?


 なっ、なにぃ!!??


 いや〜、ビックリしましたよ、ほんとに。


 でもね、このお話の結論を先に言っちゃうと、その古文書(巻物)、実は偽物だったんです!


 なんとそこに書かれていた文章の中に、江戸時代には存在しない言葉が含まれていたらしくて。しかも、昭和に入ってから生まれた言葉だったんですって(爆笑)


 ……まぁ、その巻物を本気で信じて、人生をかけて発掘に挑んでいた人もいたらしいので、あまり笑うのは失礼なんですけどね。コホン。


 そんな話を聞いて、私はふと、豊臣秀吉のことを思い出していました。

 

 たしか、農民から天下人にまで登りつめた人だったな〜とか、織田信長の小間使いだったっけ? ……なんて、うろ覚えで。


 で、いろいろ思い返していくうちに、秀吉には子供がいて、「冬の陣」と「夏の陣」で、豊臣家は滅亡したんだよなってことも思い出してきました。


 そこで気になって、ざっとではありますが豊臣秀吉について調べてみました。すると、色々と思い出してきたんです。

 

 秀吉には長いあいだ子供ができなかった。農民から大名、そして天下人にまでのぼりつめたにもかかわらず、何人もの側室を持ちながら、一人の子もできなかったんです。


 私は知り合いのお医者さんにこの話をしたところ、「秀吉はおそらく男性不妊だったのでは」と言っていました。


 男性不妊といってもいくつか種類があるそうですが、秀吉のように地位も女性もいた人物にまったく子がいなかったことから、あくまで推測ですが、「無精子症」の可能性が高いのでは、とのことでした。


 えっ?「でも、淀殿との間に秀頼って子供がいたじゃないか」って?


 ずーっと子供ができなかった豊臣秀吉。


 にもかかわらず、なんと56歳になってから急に誕生!


 その名も「豊臣秀頼」しかも母はあの有名な「淀殿」


 いやいやいや、ちょっと待って? 今までできなかったのに、急に!? しかも56歳で!? おかしくない???


 まずは秀吉と秀頼の人物データを比べてみましょう。


 豊臣秀吉


 身長、約150〜155cm(諸説あるけど、かなり小柄)


 体格、やせ型で、機敏な印象。「猿」とあだ名されるほど。


 顔立ち、庶民的で、鼻も低めと伝えられてる。



 そして息子さん。


 豊臣秀頼


 身長、約190cm前後(記録あり)


 体格、がっしりとした大柄で、戦場でも一際目立った


 印象、大阪夏の陣で、徳川の武将たちが「でかっ!」と驚いたほど。

 

 特に有名なのが、徳川家康が「本当に秀吉の子なのか?」と疑問を抱いたほどの風格・体躯だったというお話。


 ……うん。明らかに似てない。とはいえ、それだけで「秀吉の子供ではない」と断定はできませんが。


 実はこの「秀頼、秀吉の実子じゃない説」、昔からあるんですよ〜。


 じゃあ、秀頼の父親は誰なのか? という話ですが…… 

 なかでも最有力とされるのが大野治長おおの はるながという人物。この人、淀殿の側近中の側近で、なんと乳兄妹。


 つまり、幼少期からずっと一緒に育った超親密な関係で、しかも、大坂の陣の最期の瞬間まで淀殿・秀頼とともに籠城し、心中してる。


 うん! これはもう確定でしょ! って思うじゃん?


 でも、そこで驚愕の事実!? 


 なんと大野治長、関ヶ原では徳川の東軍にいたんです!!


 どえぇぇぇ!?


 自分の子ども(かもしれない)相手に敵陣につく!?


 ……いや、策略ならあり得るかもしれないけど、うむむむむ、モヤるわ〜。


 真相は闇の中。でも、怪しすぎるのは間違いないですよね。


 それで、秀頼が生まれた時の記録を調べてみると……


 秀吉、家中あげて祝賀。大阪城では連日宴、踊り出すほどの喜びっぷり! 


 ……いやいや、ちょっと冷静になろうか、秀吉さん。


 ほんとに自分の子供だと信じて疑わなかったの??


 しかも、あれだけ子供ができなかったのに、何の疑いもなく超・ハッピーって!



 で、ここで私の考察欲はびびっときました。



 秀吉って、農民から天下人になった超人。ただの人じゃない。むしろ超絶策略家。


 だからこう考えたのかも……


「このままわしの子供が出来なかったら豊臣の家が絶える…… 信頼できる部下(大野治長)に命じて、淀殿との間に子を授かってもらおう…… そして大々的に自分の子だと祝えば、後継者として問題ない。豊臣の血は絶えても、家は残る」


 もしこの考察通りなら、恐ろしいほどの演出力と政治力。まさに天下人ぉー!



 だーがしかし!! 跡取りはすでにいたんじゃーい!!


 そう、秀吉にはすでに養子として迎えた跡取り・秀次がいたんですよ!


 この秀次さん、何者かというと、姉の子、つまりは秀吉の甥っ子です。その甥っ子に、自ら関白の職を譲った。


 なのに、秀頼が生まれたあと!?


 なんとあらぬ謀反の疑いをかけて高野山に追放→切腹させてしまう。さらに、妻子・乳母まで39人処刑。


 うわぁぁ…… 秀吉、おっ、おまえ!? 


 私の考察も無駄だった…… orz


 ここで結論。秀吉は、本気で信じていた!


 この一連の動きから分かるのはただひとつ。秀吉は秀頼を本気で自分の子供と信じていたんですよ。


 もし疑ってたら、ここまでやる? 甥の一家を滅ぼして、幼い秀頼に全てを託す? その覚悟、尋常じゃないよ。


 いや~、恐ろしいわ秀吉さん。しかし、少しぐらい疑わなかったのかな~?


 これが現代なら、医学の進歩ですぐ分かりますよね。


「豊臣秀吉さーん」


「はい」


「ご本人確認のために、生年月日お願いします」


「えーと、天文6年1月1日です」


「はい、確認できました。では診察室へどうぞ」


 秀吉が診察室に入ると、モニターをじっと見つめる医師の姿があった。


「あー、どうも豊臣さん。荷物はそのカゴに置いて、こちらにおかけください」


「はい……」


 秀吉はおずおずと椅子に腰を下ろす。


 医師は画面を一瞥すると、静かに口を開いた。


「うーん、結論から申しますと……」


「……はい」


「検査の結果、残念ですが無精子症です」


「……えっ」(絶句)


 と、このように簡単に分かるのですが、でも、当時は……


 1、子供ができないのは「女が悪い」


 2、神仏の思し召し


 3、時期じゃないだけ、いずれ授かる……


 そんな時代だったんですよー。なので疑わないのが普通だったんです。


 そしてその後は皆様もご存じの通り、皮肉にも実子を残すために養子を消したら、結局その実子ごと家が滅びましたとさ。


 いや~、めでたしめでたしって、どこがめでたいんじゃー!


 うーむむむ、釈然としないな~。それなら、もしもで考えてみよう……


「ガチャ」←もしもボックスのドアを開ける音。


「もしも秀頼が生まれていなかったら」


 

 秀吉は病の床に伏せていた。その秀吉の最後を見守るのは、養子であり、跡継ぎの秀次であった。


「秀次…… ワシは、お前にすべてを託す。たとえ我が子ではなくとも、お前に豊臣の未来を託した」


「……叔父上。ワシは…… ワシは、あなたの名に恥じぬよう、生きまする!」


「ガク」


「おっ、叔父上さまーーー!」

 

 西暦1600年、天下人・豊臣秀吉は、この世を去った。


 その跡を継いだのは、実の甥であり、すでに関白を譲られていた豊臣秀次。秀頼が生まれなかったこの世界では、政権はスムーズに継承されたのだった。


「家康様! 秀吉公がお亡くなりになりました!」


「なに!? そうか……」


「家康様。ついに立ち上がる時がきましたな……」


「……いや、今はまだ時期尚早だ。秀次は愚かではない。下手に動けば我らが滅びる」


 家康が恐れる通り、秀次は大変優秀であった。


 豊臣政権は、五大老・五奉行による合議制で統治が続けられ、秀次は文治を重んじる姿勢で諸大名の信頼を徐々に集めていった。


 政権の中心は大阪城。商業と文化の中心地として栄え、まさに「天下の台所」として発展していく。


「関白様、この件、どうされますか?」


「毛利、上杉、徳川…… いずれも一癖ある。だが、力でなく理で治めるのが、我ら豊臣の道である」


「ははぁ!」


 やがて徳川家康も五大老の一人として政権に参与し続けたが、決して野心を露わにはできなかった。


 秀次が徳をもって人心を掌握し、各地の大名との政略結婚や経済支援策などを通じて、連携を強化していたからだ。


「家康様…… このままでは、天下は……」


「よい…… 天下は、力で掴むものではない。時が来れば、我らの役目も果たそう…… だが今は、豊臣の世を支えよう。秀次は、出来る男だ……」


 こうして、関ヶ原の戦いは起きなかった。


 幕府も成立せず、政権はあくまで豊臣家の下、合議制での統治という形で安定。戦乱を嫌った民の支持も厚く、やがて政体は豊臣朝政と呼ばれるようになっていく。


「聞いたかおい? 秀次様がまた米の買い上げやって、飢えた村に送ったんだと!」


「ほんまか! さすがやなぁ…… 徳のあるお方やで……」


 こうして、日本は戦を避けて発展する平和の道を歩み、

豊臣の天下は、江戸ではなく「大阪の世」として語り継がれていくこととなるのであった……


 と、このような未来が訪れていたのかもしれません。

 

 もしかすると、現在の日本の首都は大阪だったかもしれないのです。


 そして、吉本興業は逆に、東京で産声を上げていたかもしれませんね。 


 ってことは、「なんでやねん!」ってツッコミが、「なんでだよ!」っと、さまーずや児島さんみたいなのが主流だったのかも……


 おしまい


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