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23、僕の変化

 羅奈が来てから、僕の部屋のジェンガのような本の山々は少し低くなった。

 次の模試で名前が貼りだされるぐらいの成績を取ると約束してしまったから、少し勉強しなければならなくなった。


 いや、少しではない。

 五年のブランクは並大抵の努力で埋まるものではない。


 数学の公式は中一の頃に遡ってきちんと覚え込まなけれなならないし、英語の単語も厄介だ。

 歴史などは中学校受験の知識で止まっている。


 というわけで山積みになったジェンガの本から過去の教科書を掘り起こしているうちに、山々はなだらかな丘陵となって部屋のほとんどを占拠している。


「あの部屋はなんとかならないの?」


 もはや日常となった二人きりの夕食時に、羅奈は尋ねた。

 今日はオムライスを僕の分も作ってくれた。

 僕は食後のデザートにコンビニの贅沢ぜいたくプリンを買ってきて進呈した。


 どう考えても僕の方が御馳走になっているのだが、その分洗剤やティッシュなんかの日用品の補充はこれまで通り僕が買っているので、それで帳消しだと言ってくれている。


 僕と羅奈はシェアハウスで暮らす住人のように、お互いの負担がかたより過ぎないように絶妙なバランスで過ごしていた。


 父さんと香奈さんは、それぞれ子供に生活費だけを渡して僕達が作ったバランスを享受している。

 そもそも二人にとっては、偏りとか負担とかという発想もない。


 洗剤もティッシュもストックがすべて無くなってから、さてどうしようかと悩み始めるぐらいで、二人が気付くのを待っていたら生活が破綻はたんする。

 破綻してしまっても、研究さえうまくいっていれば二人にとっては大した問題ではないのだ。


 似た者夫婦な訳だが、僕も似た者親子だった。

 ただ、それでは羅奈だけが孤軍奮闘こぐんふんとうすることになるので、僕は自分を変えることにした。


 変えてみれば、僕はとてもマメな人間だったことに気付いた。

 リビング担当となった僕は、読み終わった新聞や雑誌をこまめに廃品に出し、散らばった父さんや香奈さんの衣類は二人の寝室に放り込み、クッションを整え毎日掃除機をかけている。


 リビングはいつも完璧に整頓されていた。


 だが、それは義務感からで、リビングをどれほど完璧に整えていたとしても自分の部屋も同じように整頓するかと言えば、そんなことはない。

 僕は相変わらず、僕のためには何もしたくない人間だった。


「ねえ、その前髪はいつから切ってないの?」


 羅奈はオムライスを頬張りながら、僕の鼻までかかる前髪を見て尋ねた。


「昨日切ったばかりだよ。口に入るぐらい長くなると邪魔なんだよね。鼻にかかるぐらいがちょうどいい」


 僕が答えると羅奈は呆れたように肩をすくめた。


「昨日切ったなんて全然気付かなかったわ」


「そう? 結構切ったんだけどな」


 まあ、僕の髪の長さなんて誰も気にしていない。

 切ったことに気付くのなんて、せいぜい哲太ぐらいだ。


「どうせ切るなら、どうして目が見えるところまで切らないの? 目が悪くなるわよ」

「そんな風に言う人もいるけど、この五年視力は変わってないよ」


 視力矯正で小さな穴があいた眼鏡をかけて眼筋を鍛える方法があるそうだが、前髪の隙間から見る僕の眼筋はきっと日々鍛えられているのだ。


「私、蒼佑の目をちゃんと見たことないんだけど」

「別にわざわざ見るほどの目でもないよ」


 僕だってそういえばずいぶん自分の目をちゃんと見ていない。

 興味がないといえば、自分の顔ほど興味のないものはない。

 興味がないどころか嫌悪すら感じている。


「もしかしてすっごくバランスの悪い顔なの?」

「さあ……。どうだったかなあ」


 ちゃんと見たのは五年も前だからよく覚えていない。


「……」


 羅奈はしばしスプーンを置いて考え込んだ。

 そしておもむろに椅子から立ち上がると、目の前に座る僕に手を伸ばして前髪をかき分けた。


「うわっ‼ なにするんだよ!」


 不意を突かれた僕は慌てて椅子を後ろに引いて下がった。

 羅奈は一瞬見えた僕の目を見て、眉間にしわを寄せ怪訝けげんな表情をしている。


 何か羅奈を不快にするものが見えたのだろうか。


 一応異臭を放たない程度には洗顔もしているはずだ。

 僕は急に不安になった。


「え? なに?」


 だが羅奈は「なんでもないわ」と言ったまま無言になってしまった。


 しばらく鏡を見ていなかったが、いつの間にか不快なものを発するほどみにくく変貌していたのか。これは困ったことになった。


 羅奈が不快に思うことを取り除くために全力を尽くしてきた僕だが、僕の顔が不快だということなら、永遠に羅奈の前から消えるべきだろう。


 それとももっとつむじの後ろから前髪をもってきて、絶対に目が見えないように分厚い前髪を作るべきか。


 僕は夕食の後、風呂に入って念入りに髪を洗うと、前髪をオールバックにして久しぶりにまじまじと自分の顔を鏡で見てみた。


「……」


 五年前とさほど印象が変わったようには思えない。

 自分では見慣れているせいか不快に感じるほどではないと思ったが、羅奈が不快ならば対処しなければならない。


 いつもドライヤーもあてずに自然乾燥していた髪だが、今日はつむじの十センチ後ろから髪を持ってきてドライヤーで乾かしてみた。

 だが残念なことに長さが足りず、おまけに元の定位置に戻っていってしまう。


 そうしてあれこれ試してみて力尽き、結局元の髪型におさまった。



 事件は体育祭の前日に起こった。


 予行練習で疲れた僕は、家に帰ってからソファで英単語を覚えながら寝落ちしていた。


 そしてジョキッという聞きなれない音で目が覚めた。

 驚くほど間近に聞こえた。

 寝ぼけなから薄目を開けると、目の前に羅奈の顔があった。


 ひどく真剣な顔で僕の目を覗き込んでいる。


「ふむ。悪くないわ」


 一人で納得すると、目の前でもう一度ジョキッという音が聞こえた。


「え?」


 羅奈の両手には、大きなハサミと束の髪が握られていた。

 やけにはっきり見える。


 靄が晴れたように羅奈の整った顔がはっきり見えていた。


「え? なに?」


 僕はようやく覚醒して起き上がった。

 羅奈は慌てることもなく「切ってみたの」と答えた。


「切ってみたって……なにを……?」

 聞かずとも分かっているが……。


「蒼佑の前髪よ。どう? すっきりしたでしょ?」


「え? 断りもなく人の前髪を切ったの?」


 それはいくら羅奈でも横暴が過ぎるというものだ。


「だって断ったら切らせてくれたの?」

「いや、もちろん切らせなかっただろうけど」


「じゃあ仕方ないじゃない」


 いや、どう仕方ないんだ。

 仕方ないの使い方を間違えているぞ。


「ど、どうするんだよ、この前髪!」

「ちょっと左側が長いわね。大丈夫よ、ちゃんと整えてあげるから」

 羅奈は僕の顔を覗き込んで答えた。


 そういうことを言っているのじゃない。

 この壮大に開かれた視界をどうしてくれるのかということだ。


 長い前髪は僕にとって、もはや覆面のような意味を持っていた。

 この前髪があれば、生き生きとまぶし過ぎる同級生達を、すりガラスの向こうの世界のように見ることができたのに。

 そして相手も僕の表情を知ることもなく、置物のように無視できる。

 とても便利で、僕にとって必要不可欠な前髪だったんだ。


 今回ばかりは怒ってもいいはずだ。

 いくら僕が羅奈に弱いといっても、介入されたくない領域というものがある。


「あのさ……」


 文句を言おうとしたのだが、それより先に羅奈が折れ曲がるほど頭を下げた。


「ごめんなさい!」

「……」


 完全降伏で謝られると何も言えなくなる。


「前髪を切った方が絶対いいと思ったの。勝手なことして、ごめんなさい! お詫びに明日の体育祭のお弁当を作るから許してください!」


「……」


 バカにしてもらっては困る。

 この理不尽をお弁当ぐらいで許すなんて……。


 だが、もう一人の僕が勝手に答えていた。


「許す」


 いや、ちょろ過ぎるだろう。

 どんなほど羅奈の言いなりなんだ。


 だが答えてしまったものは仕方がない。

 仕方がないとは、こういう風に使うものだ。

 いや、羅奈の使い方と大差ないのか。自分でも分からなくなってきた。


 僕は「もう少し整えさせて」という羅奈の言葉に身を任せ、前髪どころか後ろ髪まで切られてしまっていた。



次話タイトルは「体育祭デビュー」です

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― 新着の感想 ―
[良い点]  「許す」w  あんなに憤ってた風なのにw  段々と絆されてきたな‥‥‥。  躾られてきたとも言う?
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