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スマホのアプリで、どうにかそのビルを見つけた。
1階は名前の知らないドラッグストアで、2階は歯科クリニック。3階には何かの事務所があって、最上階の4階にKSテック社の看板があった。
私は加藤京子、29歳。工作機械用のセンサーを作る会社で働いている。
女性だけれど、開発部門の研究職員だ。
工学系の大学で、ずっとマンマシン・インターフェースの研究をしてきた。
今の仕事は嫌いではない。でも、このところマンネリ感に苛まれている。
本当は、次世代の自動車や、スマホに使われるようなマンマシン・インターフェースの研究がしたいと思っていた。
「ハロー、メルセデス」
これは、ニュアンス・コミュニケーションズ社が、ダイムラーAGと共同開発した会話型AIだ。ハンドルを握りながら、色々の指示をすることが出来る。
Googleの音声入力もそうだ。
この二つのキーワードは、音声だ。
AIに人間の言葉を理解させ、その命令を実行させる。
私自身に、それだけの能力があるかどうかは疑わしい。
でも、そんな開発に携わりたいとずっと願って来た。
そんなストレスを紛らす為に、今はアイドルグループの真吾にはまっている。
時間が合えば、かならずコンサートに行くようにしている。
若きライバルたちと、熟女たちの金切声。
その熱狂が、ストレスを発散させ、明日への生きるエネルギーを与えてくれる。
数年前に、秋葉原の駅前でチラシを貰った。
”AIシミュレーションが貴方の夢を叶えます。アイドルだって思いのまま”
あの時は、鼻でフンと笑った。
大学で最先端の研究をして来た私には、そんなデタラメは通用しないと。
でも、どこかに引っ掛かるところを感じて、そのチラシは捨てなかった。
大学時代の女友達とは、いまでもラインで連絡を取り合っている。
その彼女が、そのAIシミュレーションの情報をくれた。
「凄いのなんのって、今の日本にあんな技術を持っている会社があるなんて、ホント信じられないよ」
「凄いって言っても、ゲームセンターの乗り物型体感ゲームって感じなんでしょ?」
「とんでもない。そんなレベルじゃないのよ、これが」
友人が続ける。
「マンマシン・インターフェースの感度が完璧に近いのよ。しかも、相互インターフェースよ。単なる一方向の技術じゃないの。五感を完璧に伝達出来るんだから」
「ウソでしょ。世界でもそんな技術は完成してないハズよ」
「ウソだと思うなら、実際に体験してみればイイじゃない」
2週間前に、そのチラシを引っ張り出した。
電話をかけると、渋谷に女性専用の店が出来たと言われた。
すべて予約制。2週間待ちの状況だった。
心待ちにしてようやく、その日がやって来た。
昨日は、興奮して眠れなかった。
憧れの真吾とデートが出来ることもその一つだったけれど、やっぱりその装置の能力を体感してみたかった。
ドアを開けると、すぐ右手に受付があった。
「いらっしゃいませ。お名前を教えて頂けますか?」
そう言ったのは、液晶モニターの中の女性だった。
本物? それともCG? AIなのだろうか? 良く出来ている。
「予約している加藤京子です」
「あっ、加藤様ですね。お待ちしておりました」
「今のロスアンゼルスの時間と天候と気温は分かりますか?」
AIの能力を図る為に、ワザと変な質問をした。
「はい、現在の日本時間が日曜日の午後1時50分ですので、ロスの現地時間は前日土曜日の午後8時50分。天候は晴れ、気温は18度です」
AIは淀みなく答えた。
「本日のご料金は、2時間で6千円となります。お支払は、現金、スマホアプリ等で可能です。装置の中でお願い致します。10分程でご使用可能です。後ろのソファーに掛けてお待ちください」
後ろを振り返って、私はのけ反りそうになった。
ソファーに、熟女が一人、初老の女性が一人。手にはアイドル雑誌を持っている。
少し、めまいがした。JKから見たら、私もお仲間になるのだろうか?
3台の装置があった。それぞれが、防音ガラスで区切られている。
数分待つと、軽快なメロディーが流れて、それぞれの装置の扉が開いた。
中から現れたのは、熟女、熟女、初老。
真吾のコンサートとある意味同じ状況だった。
今日は、コンサートに来たつもりで、楽しもうと決めた。
装置の中は、案外と広かった。
目の前には大型の液晶モニター。マッサージチェアーを思わせるゆったりとしたソファー。消毒済みと書かれたケースの中には、薄手のヘルメットと液晶ゴーグル。
そして、スキー手袋の様なもの。
これらが、この会社のマンマシン・インターフェース装置なのだ。
私はそれらをケースから出して、装着した。
きつ過ぎるという事はない。ちょうどフィットした感じだった。
液晶画面の女性の指示に従って、料金を支払った。
「加藤様は初めてですので、画面の指示に従って操作して下さい」
「ご予約では、”アイドルとのデート & ちょっと危ないところまで行っちゃうぞ” コースとの事でしたが、それでよろしかったでしょうか?」
「はい」答えながら、顔が少し赤くなった。
「アイドルは真吾さまでよろしかったでしょうか? 間違いがあると大変ですので、表示されたアイドルから選択してください」
ん?
山城しんご。柳沢しんご。村上しんご。香取しんご。藤森しんご。・・・
アイドルグループの真吾はかなり後ろの方にあった。
このソフトの開発者は、もしかしたらかなりの年配者かも知れない。
(あぶねー。山城しんごだったら、逆に金貰わなくっちゃ)
知らず知らずのうちに、私の心は、コンサートの開始を待つ、ただの一人の女性のそれに変化していた。この装置を調べるという気持ちは吹き飛んで、ウキウキとはしゃぐ、素の自分になっている。
「乗り物、デートの場所、キス(軽め、深め)、おっぱいまでは(OK,NG)を選んでください」
そのジョークみたいな軽めの質問が、さらに私の心を解放させる。
乗り物はバイク、デートの場所は海。真吾とのキスならもちろんディープ。胸までと言わず、なんならすべてでもオーケーよ。
「消毒済みの機器をお使いになると、よりディープで、リアルな感触を得ることが出来ます」
「見えてないんですか? 私は、もう、フル装備ですよ」
「お待たせしました。それでは、KSテック社のAIソフトをご堪能下さい」
真吾とのデート。その期待に、私の心は、もうはち切れそうだ。
最初の2分間。
ハーブの香りとリラックス出来る音楽が流れた。
霧に包まれていた画面が次第に鮮明になる。
そこは渋谷の交差点だった。
自分の服装を見ると、白のTシャツにGパン。
ピンクのブラが、Tシャツから透けている。
やる気満々やないケ、自分。
ブヲヲヲヲーーン。
けたたましい音と共に、私の前で大型のバイクが停車する。
乗っていたのは真吾。ウエーブした長髪、その下の切れ長の目が、私をジッと見つめる。
「乗れよ」
「わーー、真吾だ!」
私の周りにいた女性たちが、一斉に声を上げる。
駆け寄ろうとした彼女たちを、真吾は左の手の平をかざして静止させた。
「ゴメンね。今日はこいつとデートなんだ」
「えーーーっ!!」
彼女たちは恨めしそうな顔で私を見る。私は恥ずかしそうに下を向いて、後ろのシートに跨った。
「しっかり掴ってろよ」
Tシャツしか着けていない真吾の上半身を、私は思いっきり抱きしめた。
「ナニよ、この女。もっと離れなさいよ」
嫉妬に狂った女たちの声が、むしろ私を燃え上がらせた。
私の手の平には、真吾の鍛えられた筋肉の硬さが。そして、背中にくっつけられた頬っぺたには、血の通った真吾の温かさが伝わって来る。
ブヲヲヲヲーーン。
「行くぞ」
バイクの急発進に、私の身体が引き剥がされそうになる。
私は必死に真吾の身体にしがみついた。
何? このリアリティ・・・は。
私は、心の中で、そう叫んでいた。
どこをどう通ったのかは知らない。いつしか海に来ていた。
その間の私はただの野獣。ひたすらこの手で、この頬っぺたで、この鼻で、この唇で真吾のすべてを貪っていた。どさくさに紛れて、真吾の何に触れようとしたのを、キスまでは、おっぱいまではと必死に我慢した。
きっと、あの待合室の熟女や初老の女性なら、アーラ、やだー、揺れがひどいからーーー。
って触っていることだろう。そうなったら終わり。私もお二人の仲間入り。
でも、料金は払ってるし・・。そんな嫌らしい心が湧き上がってくる。
触ったもん勝ち。触らずに死ぬか、触ってから死ぬか?
私の右手が、真吾のチャックの辺りをウロウロと空回りする。
「京子、着いたぞ」
真吾の手が、私の絡みついた手を引き剥がした。
私は仕方なく、バイクから降りた。目の前に、その美しい顔があった。
"なんという美形、なんという爽やかさ”
触らなかった自分を褒めてあげたい。
「なんか飲むか?」
「真吾に任せる」
決まった。行けてるぞ、自分。
真吾は自動販売機で、コーラを買った。
手にしているのは一本だけ。
私に渡す前に、真吾はゴクゴクとそれを飲んだ。
「ふーー、うめー。残りはお前の分だ」
ウーーー、ワン。
私の心は、お預けを喰らった野良犬。
ペロ、ペロ。ペロ。
でも、実際には、ミルクを舐める子犬の様に、コーラの缶を舐める。
うめーーー。サイコーーー。
「お前、変な飲みかたするな」
クイーーン、クイーーン。
私は、子犬の様に上目づかいに真吾を見つめる。
コンサートの時は米粒くらい。今の真吾は実物大。
写真撮ったら、残るんかい?
「ちょっと歩こうぜ」
背中を向けて歩きだした真吾の後を、子犬の様に飛び跳ねて追いかける。
左手を掴んで、ワザと体を押し付ける。
下から真吾の顔を覗き込む。
もー、止めてーー。カッコ良すぎるんだからーー。
右の胸を、真吾の腕に擦り付ける。
私、いつでもオーケーですから。
何か知らんけど、さっきまでギラギラだった太陽が、夕日にかわった。
耳元で、真吾の新曲が流れ始める。
何か知らんけど、浜辺にベンチがあって、しかも二人の姿を隠すパラソル付き。
「ちょっと、休もうか?」
よっしゃー、来ました。ごっちゃんです。
ベンチに座った私の肩に、真吾の左手がさりげなく回された。
その手を見ていた私の顔を、真吾の右手が真吾の方に引き寄せる。
迫る真吾の顔、その唇が、私のそれと重なる。
そっと忍び込んでくる、真吾の柔らかな舌。
なんじゃー。このリアリティーは・・!!!
その後は、夢のひと時。
装置のドアが開いて、軽やかなメロディーが聞こえて来た。
でも私は、まだ夢の中にいた。もう、ここから出たくない。
防音ガラスの扉から出るとき、隣に座っていた初老の女性と目が合った。
その上気した表情に、彼女の満足感が現れていた。
受付で、私は次回の予約をした。
もう、1か月先まで埋まっていた。
ああ、真吾。今すぐに会いたい。その逞しい腕に抱かれたい。
ビルから出て、渋谷の駅に向かう途中で、私はあっと叫んだ。
しまった。真吾の何に触るのを忘れていた。
ウーーー、ワン。
私の心は、お預けを喰らった野良犬みたいだった。
ガシャ。
シューゼ社の実験室に置かれた体感型バーチャル映像システム(通称BVPS)の中から女性の被験者が現れた。
彼女はゼーガ社から新たに審査委員に選出された加藤京子だった。
「どうでした?」
シューゼ社の開発者に質問された彼女の眼はまだ虚ろに漂っていた。
「あれ? 私って、工作機械用のセンサーを作る会社で働いている開発部門の研究職員ですよね?」
彼女はKSテック社のソフトが作り上げたストーリーの中から、いまだに抜け切れずにいるみたいだった。
「いいえ、あなたはゼーガ社から出向している審査委員ですよ」
「あのー、来月の予約は大丈夫ですよね?」