28
KSテック社
シューゼ社のメンバーが帰った後、それまで元気を装っていたエリカがガックリと肩を落とした。そして、父親である小林の顔を睨み付ける様にジッーーと見つめた。その瞳には何故か涙が浮んでいる。
「父さんは、このコンペに勝つ為に太田委員長を催眠術に掛けたのね?」
エリカは、父親が卑怯な手段を使ったと勘違いしている様だった。例え仕事の為とはいっても、そして相手がどんなに汚い手を使ったとしても、自分の父親がそんなことをする人間だとは思いたくなかった。
「私が、催眠術で彼に嘘の評価をさせたと言いたいのか?」
小林の表情は全く変わらない。
「だってそう言う事でしょ。そうじゃなかったら、今まで反対していた人間が満点を付ける訳が無いじゃない」
小林はエリカの瞳をジッと見つめ返した。そして、ゆっくりと首を振った。
「やっぱり、お前はまだまだ甘いな」
エリカの想像した通りの反論だった。やっぱりそうだったのかと彼女は思った。
「そうよ、甘いわよ。私は経営者でもないし、お金の苦労もした事がないわ。でも、自分の仕事には誇りを持っていたい。卑怯な手段ではなく、正々堂々とした評価でこのコンペに勝ちたかったのよ・・・」
最後の言葉が涙で途切れた。
「その正々堂々とした評価をさせる為に、お前だったら何を遣ったんだ?」
小林は逆に質問した。その声に威圧感は感じられなかった。
「その為にって・・・。いい作品を作るしかないじゃない・・・」
エリカは言葉に詰まった。そんなこと急に聞かれても、分かる訳がなかった。
「お前は、いい作品を作る為に精一杯の努力をした。それは認める。しかし、現実には、あの男がお前の作品を潰そうと手薬煉引いて待っていたんだ。私が聞いているのは、その彼に本当の評価をさせる為にはどうすればよかったのかと聞いているんだ」
今度は、小林の方がエリカの目を見つめ返した。
「そんなこと聞かれたって、私に分かる訳ないじゃない。私はソフトの開発で手が一杯だったのよ。そんなこと父さんが一番分かっているはずじゃない」
エリカは、自分が批難したことを逆にどうすればよいかと聞かれて困惑した。
確かに私はこの勝負に勝ちたかった。だから、野川部長や父親にあの評価委員会の理不尽さをどうにかして欲しいと頼んだのだ。しかし、だからと言って催眠術で相手に嘘をつかせるなんて事まで遣って欲しいとは思わなかった。でも、もしそうならば、催眠術以外にどんな方法があったのだろうか?
冷静に考えて見ると、自分の父親への批難は、無い物ねだりをしている子供の駄々っ子の様に思えて来た。
「それでは、別の質問をする。お前は催眠術の事をどれくらい知っているんだ」
「知らないわよ。ただ、それが良い事じゃ無いってことだけは分かるわ」
エリカは、父が何かの言い訳をしようとしているのだと思った。その手になんか乗るものかと思った。
「お前はさっき、太田委員長に嘘の発言をさせたと言ったね。なぜ、催眠術を掛けることと、嘘をつかせることがイコールになってしまうんだ。催眠術を掛けて本当の事しか言えなくさせるって方法もあるんだぞ」
「えっ」
意外な言葉に、エリカの頭が混乱した。もし、太田委員長の意見が彼の本心だとしたら、それを引き出す為に掛けた催眠術は、果たして悪なのだろうか?
「お前だって分かっているはずだ。彼は我々のソフトに恐怖を感じていた。それは、お前のソフトを評価しているってことだ。しかし、彼はゼーガ社の手先だ。まともな方法では、絶対に我々には勝ち目が無かった。だからと言って、私も卑怯な手段だけは取りたくは無かったんだよ。そして、あるとき思い付いたんだ、本当のことしか言えない様にする事は、卑怯なことなのかなってね」
「本当にそうなの?」
エリカの表情に明るさが戻っていた。
「当たり前だ。俺がなんでお前に嘘なんかつかなきゃならないんだ」
小林は変わらず平然としている。嘘をついている様には思えなかった。
「もしそうだとしたら、あの人、本心をしゃべったのね」
エリカの心のモヤモヤがすっきりと晴れた。もともと嘘をつこうとしていた人間に、本当のことをしゃべらせただけなんだ。それは、悪い事ではないと思った。
「あれっ?」
突然、エリカに別の疑問が浮んで来た。もし、始めからあの男を催眠術に掛けようと考えていたとすると、父はどこまで計算していたのだろう?
「フリー部門にあの占い装置を導入しようとしたのは、太田委員長に催眠術を掛けるためだったの?」
エリカは驚きの表情で聞いた。
「ああ、その通りだ」
小林は平然と答える。
「という事は、あの太田委員長がうちの動きを掴んでいると知っていたわけ?」
「前にも話したが、あのタイプの男は策略には長けている。プロを雇えばどんな会社の情報も入手できる。だから、私はあえてその情報が伝わりやすい様に、うちの会社の動きをオープンにしたんだ」
「でも、どうして父さんは太田委員長がAOIちゃんを試しに来ると分かったの」
「それは彼の性格を知れば簡単なことだよ」
小林は不敵な笑みを浮かべた。
「彼はとても用心深い性格だと野川さんが言っていたわ。もし、あの装置に催眠術のソフトが組み込まれていると事前に知っていたとすれば、どうして身の危険を感じなかったわけ?」
エリカは軍事オタクである太田の事を、戦争のプロだと思っているに違いない。
「エリカ、お前には実際の軍人と軍事オタクとの違いがわかるか?」
小林の目と言葉つきが、冷たい男のそれに変わっていた。
「えっ・・・?」
エリカは、分からないという風に首を振った。どんなに優秀な大学を出ても、所詮はまだ若い女性である。
「実際の軍人にとっては、現場での一つのミスが命取りになる。これは本当の意味で命を失うんだ。だから、恐ろしいほど慎重だ。ところが、軍事オタクは違う。どんなに専門の知識を詰め込んでいようが、市販の軍事シミュレーションソフトを全て征服していようが、それはあくまでバーチャルの体験に過ぎないんだ。決定的なミスをしても、リセットして、もう一度やり直すことが出来る。両者には決定的な差があるんだ」
「何となく分かるような気がする・・・」
エリカの目もいつか真剣になっていた。
「彼は、自分で試す前にシューゼ社の田中課長にAOIちゃんを体験させている。彼に取っては、用心すると言ってもこの程度の事だ。彼は田中課長からAOIちゃんの素晴しさを聞くと、自分でも体験したくてうずうずし始めた。
それがオタクの本質だ。彼は全ての軍事シミュレーションを征服している男だ。それを口外し、自慢している。そんな男にとっては、他人の経験したシミュレーションを自分が知らないという事は絶対に許せないんだ。
もちろん、あのソフトに催眠ソフトが組み込まれている事は知っていただろう。しかし、彼にはそれほどの警戒心は無かったはずだ。なぜなら、あのソフトに組み込まれた催眠ソフトは、気持ちを高揚させたりする程度のものだったからね。辞めた佐々木が使ったのも、逆に気持ちを落ち込ませて不安をアオッタだけのものだった」
「えっ、催眠ソフトってその程度だったの。私はてっきり・・」
エリカは、詳細を知らずに騒いでいた自分を恥じた。
「太田も、その事は佐々木から聞き出していた筈だ。だから、容易にAOIちゃんに手を出したんだ」
「でもお父さんは、その催眠ソフトを進化させて、本格的な催眠が出来る様に改良していたんだね」
小林は、返事をせずにただコクリと頷いた。
「サバゲー(サバイバルゲーム)は知っているね」
小林が聞いた。
「もちろん。ソフトエアガンを使って実際に戦うやつでしょ。一度ヤッテみたいと思ってたんだ」
「あれは確かにゲームとしても、訓練としても役に立つと思う。使われるのはBB弾といって、とても軽い弾だ。太田薫もあるグループに入って遣っている」
「彼なら間違いなく遣ってるでしょうね」
「もし、あのゲームの弾が実弾だったら、お前は遣りたいか?」
「まさか、ムリムリ」
いつしか小林の顔が、社長の顔から自衛隊幹部の顔に変化していた。
嘗て彼が対峙していた敵国とは、我が国を侵略せんとする悪意と憎悪を有し、その目的の為にはいかなる策略や兵器による暴力も躊躇なく使用することが出来る者と定義されていた。
その様な敵の前に、例え一瞬たりとも生身を曝け出せば、唯で済まされる可能性など100パーセントないのだ。
「AOIちゃんを秋葉原に設置した際に、私はAOIちゃんの中で封印されていた催眠ソフトをONにさせた。勿論、その催眠ソフトはBB弾の様ななまっちょろいものではなく、実弾の様に強力に改良されていた。そして、その機能が働くのは太田薫というターゲットに対してだけだった・・・」
エリカは、父親の氷の様に冷たい表情にぞくりと身震いした。
「その催眠ソフトを使って、彼に嘘がつけない様にさせたって訳ね」
「その通りだ。彼は1回目のシミュレーションの時に、サブリミナル効果によってもう一度AOIちゃんを試したいと思うように仕向けられた。
疑い深い人間には催眠術はかけられないからだ。2回目の時、催眠ソフトは脳波等の測定結果から、彼が十分にその状態にあると判断した。彼はAOIちゃんのシミュレーション結果に満足し信用してしまったんだ。2回目のシミュレーション結果を待つ間に、彼は催眠術を掛けられた。シューゼ社でソフトの評価をする時だけは、嘘がつけない様にしたんだ」
「うちのソフトだけではなく、ゼーガ社のソフトに対しても正直な評価しか出来なくさせたってことね」
「ああ。だからあの委員会で彼はゼーガ社のソフトにかなり低い評価を下して、西村専務の怒りを買ってしまったんだよ」
「私、それなら許せる。だって、嘘を付こうとしたのは相手の方なんだから」
そう言うと、エリカはソファーから立ち上がった。
「分かってくれればそれでいいんだ」
社長室から出て行こうとするエリカに小林は言った。
エリカが社長室のドアを閉めると、彼は机の上のパソコンの電源を入れた。このパソコンは、秋葉原のAOIちゃんと直接繋がっている。彼はここからAOIちゃんを管理していたのだ。
実は、彼にはエリカに黙っていた事があった。
それは、エリカに説明した以上に強力な催眠ソフトだった。そのソフトの働きで、太田はいまだに空想の世界を漂い続けていたのだ。そのソフトは実弾の様に邪悪だった。もし、このソフトの存在が知られれば、多くの国の諜報機関がこぞってやってくるはずだった。
太田は佐々木を連れて評価会議に乗り込み、我々に勝利したと信じ込んでいる。
そして現実の評価会議での爆弾発言を、彼は覚えてはいない。それはあの太田の権力と立場を確実に破滅させる為に必要なことであった。
一回だけ正直な評価をさせたところで、彼が自分の身に起こったことを知れば、何らかの反撃に出て来ることは間違いなかった。しかし、彼自身がAOIちゃんに操られている事を知らなければ、彼は何の行動も起こす事はない・・・。
もしこの事実を話せば、エリカはきっと自分の事を拒否するだろう。エリカはまだ若くて純粋だ。自分が経験してきた理不尽で生臭い現実の世界など、どんなに丁寧に説明したところで、きっと理解しては貰えないだろう。
「太田さん。悪いが、もうしばらくAOIちゃんとお付き合いして頂きますよ。いえ、心配は要りません。あなたは毎日ちゃんと家で食事もできるし、シューゼ社以外のどこにでも外出する事が出来ます。いや、お望みとあればシューゼ社にだって出勤することは可能です。AOIちゃんの中のシューゼ社であればね・・・」
小林は軍人の目でそう呟いた。