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ゼーガ社営業部。
宮地部長のデスクの向うには、日比谷公園の緑が広がっている。
毎日目にしている光景であったが、浜口佑子があの公園を最後に訪れたのは入社したてのことである。部長の宮地が、営業部の人間を誘って花見をした時だ。
目を付けていた営業部のエースに色目を使ったけれど、あからさまに避けられてしまった。誰かが宮地との噂を流したに違いなかった。犯人捜しをしてみたけれど、結局は見つからなかった。
貴重な昼休みの時間に、わざわざあの公園にまで足を運ぼうという物好きはいない。折角のデートにあんな近場を使うバカもいない。この会社に入社して既に4年が過ぎていた。
名門の女子大を出て、幾つかの大手企業の面接を受けたが、辛うじて5番目の希望先であるこの企業に入社する事が出来た。別に仕事がしたい訳ではない。将来有望な社員と結婚して家庭に納まるのが狙いである。
しかし、その為には待っているだけでは不十分である。自分でコネを作り、ライバルを蹴り落とさなければならない。その為に3年の月日が必要だった。
いま、彼女には前途有望な彼氏がいる。その彼を手に入れさえすれば、こんな仕事には何の未練もなかった。
「小林エリカ・・・」
久しぶりに会った彼女は、一段と綺麗になっていた。中学の時は仲間をそそのかしてイジメ続けた。そうする事で、自分のアイデンティティーを保つ事が出来た。
他人より下にいる自分など想像するだけで耐えられなかった。
彼女がアメリカに行くと聞いた時は、勝ったと思った。あんな目障りな存在など消えて欲しかったのだ。しかし、彼女はさらなる美しさとカリフォルニア工科大学卒という新たな鎧を身に付けて戻ってきた。
あんな女の勝利する姿など見たくない、浜口佑子はそう思っていた。
「浜口くん。ちょっといいかな」
部長の宮地が呼んでいた。ハイ、といって席を立った。
「悪いが、シューゼ社にこのソフトを届けてくれないか。田中課長に渡して欲しい」
宮地はUSBらしきパッケージを手渡しながら言った。
「メールに添付する訳にはいかないんですか?」
自分は配達係ではない。少し不貞腐れた言い方をした。
「怒らんでくれ。これだけの容量のデータは管理者にチェックされる。メール送付の証拠が残っては不味いんだよ。KSテック社のソフトに対抗するためだ、悪いけど頼むよ」
「KSテックに対抗するって、どういうことですか」
小林エリカに勝つためであれば、協力しても構わない。
「1週間後にAV部門の評価が行われる。ゼーガ側の評価委員は3人だ。そのうちの1人が、女が苦手ときている。早めに練習させておく必要があるんだよ」
「もしかして、太田委員長のことですか?」
彼の名前は、宮地の口から何度も聞いていた。
「そうだ。西村専務と相談して、ソープランドにでも行ってくれと頼んだんだが、ガンとして聞いて貰えなかった。困った男だよ」
「分かりました」
浜口はUSBのパッケージを受け取ると、席に戻った。
「香苗ちゃん、ちょっと来て」
近くにいた東山香苗が顔を上げた。浜口の2年後輩である。整った顔立ちをしているが、浜口ほどの華はない。
「このデータをシューゼ社の田中課長に届けてくれる」
「えっ、いま出荷の準備しているんですけど」
彼女の表情が曇った。しかし、浜口の目がそれを許さない。
「分かりました。行ってきます」
東山はパッケージを受け取ると、会社の封筒に入れた。机の引き出しから財布を取ると黙って出口に向かった。
「出荷の準備があるんだから、道草しないで帰って来るのよ」
東山は、分かってますと笑って答えた。しかし、営業部のドアを閉めた途端、眉間にしわを寄せて、唇を噛み締めた。
「あの女、絶対に許さない。いつか、大勢の人間の前で大恥をかかせてやるから・・」
「香苗先輩、どうしたんですか? なんか顔怖いっスよ」
新入社員の小笠原信人が、エレベーターの出会い頭に声を掛けた。
「邪魔よ、どいて」
東山は、エレベーターに乗り込むと、1Fのボタンを何度も叩き付けた。
地下鉄のホームで電車を待っている時に、スマホにメッセージが届いた。
同期入社の石川祥子からだった。
「ハマチが二川秀一に手を出したみたいだよ」
ハマチとは浜口佑子の隠語であり、二川秀一は、専務の息子で一番の出世頭であった。
チッ。東山は思わず舌を鳴らした。
隣に並んでいた中年の女性が、ギョッとして東山の顔を見た。
東山は怒りにあまり、そんなことには気が付かなかった。
電車が来るアナウンスが流れたので、東山は怒りのスタンプを送った。
電車は空いていた。東山は端の席に座るとスマホを手に取った。
「ゴメン。今電車。ハマチの成功をお祈りします」
とメッセージを送った。
「なに嘘ついてんのよ」
石川から返事が来る。追加して腹を抱えるスタンプ。
「辞めてくれたら清々するでしょ」
「それもそうか・・、でも魂胆見え見えで、ムカつく」
石川は忙しくなったのか、そのメッセージの後に怒りのタンプを送りつけて沈黙してしまった。
東山はそのスタンプを見つめながら、いつの間にか不気味な笑みを浮かべていた。
彼女は本心から二川秀一との成功を祈った。
その時は、いよいよ作戦を決行してあげる。
東山は気が付かなかったけれど、ホームでギョッという顔をした中年の女性が反対側の席で彼女の事を見つめていた。彼女は目をつぶると、膝の上でそっと手を合わせた。
「神様、どうかあの若い女性が穏やかな人生を送れます様に・・」と。