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「あっ、キンモクセイの香りだ・・・」
最終電車が過ぎ去った後の私鉄駅のロータリーには、タクシーを待つ人々の長い列が出来ていた。その最後尾にいたピンクのスーツに身を包んだ女性が、初秋の心地よい風に運ばれて来た甘く優しい香りに瞳を輝かせた。
まるで魔法にでもかけられたかの様に、彼女はタクシーを待つ人々の列から離れた。仕事に疲弊した虚ろな集団から解き放たれた美しい肢体は、ロータリーの街灯の下で一際輝いて見えた。
「あなた、悪い事は言わないからタクシーで帰った方がいいわよ。この辺りはまだまだ物騒だから」
前に並んでいた初老の女性が、彼女の美しさを心配して声を掛けた。
「ありがとう。でも近いから大丈夫です」
微笑んだ彼女の顔を見て、初老の女性はイシハラ何とかという女優の事を思い出した。まるでお人形の様に整った顔をしている。
「本当に大丈夫なの」
彼女は、まるで自分の娘の事を心配するように不安げな顔で聞き返した。
「はい。本当に・・」
女性は軽く頭を下げると、軽やかな足取りで商店街の方へと歩きだした。
しかし街灯のある商店街の一角を通り過ぎた途端、昼間の喧騒が嘘の様に、辺りは静寂と漆黒の闇に包まれた。
「うそっ」
女性は、その時になって始めて、さっきの女性の警告の意味を知った。一瞬、タクシーの列に戻ろうかと思った。しかし、再び甘いキンモクセイの香りが、彼女を暗黒の世界へと誘う。
「大丈夫よ、きっと」
根拠のない曖昧な言葉を吐いて、彼女は暗い坂道を登った。
次第に民家が少なくなり、畑や栗の木の林が増えてくる。坂道の頂点に立った時、50メートルほど先に頼りない街灯の灯りが見えた。それを頼りに、彼女は勇気を絞り出した。
静けさに比例するように、コツコツというハイヒールの音が次第に大きくなっていく。それと同時に、彼女の心臓の鼓動も大きくなっていった。彼女が目標にしていた街灯の下に辿り着いた時だった。
ブオオオーーーン。
突然、坂道の向こうから轟音を響かせて数台のバイクが現れた。6台のバイクにまたがった若者たちは、若い女性の姿を見つけると、目を輝かせて「ヒューッ」っと、口笛を鳴らした。女性はびっくりして小走りに逃げ出したが、バイクの連中は奇声を上げながらあっという間に彼女の周りを取り囲んだ。
「彼女、どこに帰るの。送って行こうか」
髪を突っ立てた細めの男が言った。その淀んだ目が、彼女の美貌に大きく開かれる。
「すっげー美人じゃん」
「俺たちと一緒に、遊ばない」
今度はパンチパーマに鉢巻きをした男が、目をギラつかせながら大声を出した。
泣き出しそうになる彼女を面白がる様に、一人の男が両手を広げて通せんぼをする。 女性はハンドバックからスマホを取り出してどこかに電話しようとしたが、男たちはそれを取り上げてしまう。
「おーっと、俺に番号教えてくれるの」
「お願いです。返してください。」
「俺にキスしてくれたら、返してあげてもいいけどな」
やがて、男の一人が女性を後ろから羽交い締めにした。
「きゃー。止めて、だれか助けて」
「おねえちゃん、悪いがあきらめな。俺たちゃ、警察だって怖くねえんだ」
リーダーらしい男が、腰のベルトに刺していた大型のナイフを取り出して言った。
「あんまり騒ぐと、その綺麗なお顔にキズが出来ちまうぞ」
その男が、むんずと女性の顎を左手でつかんだ。
「ぐぐぐ・・・」
彼女は、あきらめた様に観念する。全身から力が抜けた。男たちは、ニヤリと舌なめずりした。
ブヲヲヲーーーン。
その時、もの凄いエンジン音と供にBMW、Z4ロードスターが坂道の向こうに姿を現した。チタン・シルバーの車体が街灯の光に輝いている。
グオオオオーーン。
ロードスターは、坂道で加速するとそのまま暴走族に向かって突っ込んで来る。
「あぶっねーー」
もの凄いスピードで急接近して来たその車に、全員がその場から弾ける様に飛び去った。取り残された女性と、彼女を羽交い絞めにしている男の目の前で、ギュー-ンという音と供に、BMWは恐るべき制動力で急停止した。
「何だーーーー?」
リーダーの男が声を出した。一人の男がドアを開けて、車から降り立った。柔らかなベージュ色のスーツの中は黒の開襟シャツ。銀色のドクロのペンダントがはだけた胸に光っている。
男は俳優のオダギリジョー並みのいい男で、彼の姿を見た女性は、うっとりとした表情を浮かべた。
「助けてください!」
うるせー、羽交い絞めしていた男が、女の口を手で覆った。
「何だ、てめえーは」
暴走族の一人が、男の襟首をつかんだ。
「わっ。痛てててっ」
しかし、直ぐに腕をひねられて突き飛ばされてしまった。
「この野郎」
別の男が、懐からナイフを取り出した。他の何人かはバイクの横にしまっていた鉄パイプを手に取った。5人が、オダギリを取り囲む。
「やめときな。後悔するぞ」
オダギリ風の男は妙に落ち着いた涼しげな顔で言った。
「ふざけんな、後悔するのはそっちの方だろうが」
突然鉄パイプで殴りかかって行った男を、オダギリはふわりとかわすと、いきなり背広の内側に隠れていたホルダーから拳銃を抜き取った。M9の名前で知られた名器、ベレッタM92だ。
そのしなやかな動作に、暴走族の連中は一瞬その場に凍りついた。
「おっと、深夜の住宅地じゃちょっと迷惑だな」
オダギリは内ポケットからサイレンサーを取り出して銃先に装着した。拳銃のズシリとした重さが心地良かった。鈍い光を放つ拳銃は、とても偽物には見えない。
「なんだー?」
暴走族の連中は互いの顔を見た。日ごろあまりお目にかからない拳銃の登場に、彼らは恐怖より驚きの方が大きかった。
「漫画じゃねえんだ。本物の銃なんか持てるわけねえだろうが・・・」
リーダーらしい一人が、薄笑いを浮かべて言った。彼はギザギザのついた狩猟用の大きなナイフを手にしている。
「じゃあ、試して見たらどうだ」
オダギリは憎たらしいほど落ち着いている。
「いいからやっちまおうぜ」
周りの声に押される様に、リーダーが突然ナイフで切りかかった。オダギリは寸前のところで刃先をかわした。ガツン。体制を崩したリーダーがZ4ロードスターのボディーにぶつかった。
「くそっ」
リーダーは、周りを見た。仲間たちの失望の視線が彼の体に突き刺さる。彼らの前で無様な格好をさせられた事が、単細胞の彼の脳みそを泡立たせた。
ケンカ慣れしているリーダーには、さっきの動作で、オダギリ風の男の技量は判断出来ていた。この男は何かの格闘技を身につけているか、もしくはこの世界のプロだと・・。しかも手には拳銃を持っている。
リーダーは、日頃使っていない錆びついた頭を、ギコギコと音をならしてフル回転させた。
恐らく何度切りつけても、あいつはそれを容易にかわしてしまうだろう。そうなれば、その度に俺は恥をかく。
手にした拳銃。それだけの技量を持った男なら、拳銃は脅しに過ぎないだろう。あいつは絶対に撃ったりはしない。
そんな男に、俺の今の怒りを叩き付け、悔しがらせる方法は・・・・。
ゴツン。
リーダーの掌のしたで、ナイフの握りてがロードスターのボディーに当たって音を立てた。
一瞬だったが、オダギリの顔に不安げな表情が浮かんだ。
「これだ・・・」
彼は不敵な笑みを浮かべると、手にしていたナイフで無抵抗なロードスターの銀色の車体にギギギと傷を付けた。
オダギリの表情が変わった。
「ざまー見ろ」
リーダーが、勝ち誇った様にニヤリと笑った。
ヒヤッホーー!
他の連中も、真似をしてロードスターに傷を付け始める。
バッゴン。
鉄パイプを持っていた男が、思いっきりサイドミラーをぶち壊した。
“ブッチン”
それまで冷静だったオダギリの中で何かが切れる音がした。
「オメーら、大人しくしてれば、いい気になりやがって!!」
オダギリは手にしていたM9をリーダーの男に向けた。仲間とはしゃいでいた男の顔が引きつった。オダギリは右側の頬だけを上げて、恐ろしい顔でフンと鼻を鳴らした。
次の瞬間、“プシュッ”と乾いた音がしてリーダーの額に穴が開いた。
「うぐっ」と言うと、リーダーがその場にひざまづいた。そして、まるでオダギリに平伏すように前向きに倒れこんだ。頭の辺りから鮮血がドクドクと流れ出して来る。
オダギリの目が見開かれ、唇が開いて「ホオ」と声を上げた。
恍惚感に満たされた表情でM9を見つめる。
「嘘だろっ」
驚く男たち。彼らの瞳に、オダギリの鬼のような表情が映し出された。
「逃げろ」誰かが言った。
男たちは一斉に後ろ向きに走り出した。
“プシュッ、プシュッ”
しかし、次の瞬間。全員があっという間に拳銃で撃たれて倒れた。撃たれた男たちの体からは、赤い血が流れて道路を汚していく。オダギリは銃の感触にうっとりとして目を細めた。薄い唇が少し開くと、赤いヘビの様な舌が現れて上唇をなめた。
「うわーっ」と女を捕まえていた男が、女を放り出して逃げ出した。
しかし十歩も走らないうちに、“プシュ”と再び乾いた音がした。男の後頭部から血しぶきが上がって、つんのめる様に倒れた。ゴツンと頭がアスファルトに激突する鈍い音が聞こえた。既に息絶えていた男の目は見開かれたままだった。
「ありがとうございます」
これほどの大量殺人の後にも関わらず、事の重要性が飲み込めていないのか、女性は笑顔で近づいて来た。
「よろしかったら、車で送りましょうか」
オダギリの方も何事も無かったように、笑顔で言った。
「お願いしようかしら・・・」
彼女は上目使いで答える。
オダギリは彼女の為に助手席側のドアを開けた。
彼女が車に乗り込むと、ドアを閉めて運転席に向かう。
チンピラたちによって傷つけられた車体を見つけると、左手でそれを撫でた。
その無残な姿に、再び怒りが湧き上がって来る。
「クソガキめ」
プシュッ。
その怒りを晴らす様に、近くに倒れている男の頭に一発をぶち込んだ。
男の体がビクンと反応し、頭から鮮血が溢れだした。
その画像と感触を十分に味わった後、オダギリは大きく息をして車に乗り込んだ。
ブオオオオーーーン。
Z4ロードスターは猛烈なエンジン音を轟かせて、急発進した。
キャアアアアーー。
女性が強烈なGと風圧に耐え切れずに叫び声をあげる。
大きな邸宅の前に車が止まると、彼女は別れを惜しむように、オダギリの瞳を見つめた。やがてその大きな瞳が閉じられると、プルンと濡れた唇が彼の答えを待つかの様に突き出される。
オダギリがボタンを押すと、オープン状態だった車の屋根が、たったの10秒で静かに閉じられた。オダギリは激しい情熱を持って彼女の唇を奪った。
その唇の柔らかな感触。アアッと、彼女が漏らした吐息。
“カチリ”
と音を立てて、2回目のスイッチが入った。彼の心に潜む野生を開放させるスイッチ。
こんなはずでは無かった・・・。
1回目のスイッチは、暴走族のリーダーが愛車のボディーに傷を付けた時に押されてしまった。あいつ等を殺すつもりなんかなかった。
(どうなっているんだ、今日の俺は・・・)
しかし、既に本能を制御する鎖から開放されたオダギリの手は、欲望の命ずるがままに髪から胸へと下がって行く。
「ダメ」
女はその手を拒むように握り締めた。しかし、既に自制心を失ってしまっていたオダギリは、その手を振りほどくと、強引に胸をまさぐった。
(駄目だ、誰かに見られている。本当の自分に戻らなければ・・・)
なんと、ブラウスの下はノーブラだった。滑らかなシルク地を通じて、豊かな膨らみが伝わってくる。その中心の突起物に触れた瞬間。彼の脳細胞に大量のアドレナリンが噴出された。
“カチリ”
そのとき、3回目のスイッチが入った。
(こうなったら、行けるところまで行ってやる・・・)
「止めて」
オダギリは女の声を無視して、ブラウスのボタンを外そうとしたが、焦ってなかなか外せなかった。
「くそっ」
怒った彼は、強引にブラウスをバリバリと破り捨てた。
次の瞬間、あっと叫んだのは彼女の方ではなく、意外にもオダギリの方だった。
そこには想像した豊かな胸は無く、無数の線で描かれたポリゴンだけが存在していた。
「バグ発生。バグ発生。強制終了、強制終了・・・」
オダギリの耳元で、機械的な合成音が聞こえた。
次の瞬間。まるでテレビの電源を切った様に全ての映像が、プツンと消え去った。
録音スタジオの様な板張りのフロアーの上で、コックピットを思わせる装置に座っていた男の頭から、アイマスク付きのヘルメットの様なものが外されると、中からはオダギリには似てもにつかぬ、狐目の神経質そうな男の顔が現れた。
男の顔には怒りと無念さの様なものが混ざりあっている。室内には緊急停止を告げるブザーが鳴り響いていた。